FC2ブログ
K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
202007<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>202009
はればれとミニヨンを歌ひくれる生徒よ涙ぐみわが聴くと知ることなけむ・・・・・・・・・・出崎哲朗
出崎
 ↑ 昭和56年11月1日に「未来」別冊として刊行された
小堀
 ↑ 2012年9月発行

──エッセイ──(出崎哲朗の歌)

   ■はればれとミニヨンを歌ひくれる生徒よ
            涙ぐみわが聴くと知ることなけむ・・・・・・・・・・・・・・・出崎哲朗


      ■忘れな草と忘れ草の話をしたけふ
            教卓のコップぎつしりの忘れな草・・・・・・・・・・・・・・・出崎哲朗


はじめに、掲出した本の説明をしておかなければならない。
「定本・出崎哲朗読本」は、短歌結社「未来」の当時の編集長・田井安曇の手によって、昭和56年11月1日に「未来」別冊として刊行された。
図版①が、それである。
その頃には私はまだ短歌の世界には足を入れておらず、もちろん知る由もなかった。
それが、図版②に載せた『小堀鉄男・小堀和子 遺稿集 春雁逍遥』が出て、編集の幹事をした西井弘和の手元にあることを知り、急遽借りてコピーさせてもらった。
小堀たちは、高校で出崎の教えた生徒だった。

出崎哲朗は1921年(大正10年)6月4日北海道小樽生まれ。幼い頃に京都に移住。父は京都でも一流の料理店を経営していたが、彼が中学五年のときの秋に急死した。
三高を経て、1942年に京都大学に入る。その頃にアララギに入会。
出崎哲朗は戦争末期から戦後にかけて、京都大学文学部国文学科を出たあと、京都府立第一高等女学校(のちに新制・鴨沂高校)の国語の先生として赴任。
戦争中から「京都アララギ会」に歌を出していたが、近藤芳美の『早春歌』の影響などを受けて、戦後、アララギの幹部たちの宗匠的な指導に反発して、
短歌革新の運動として『ぎしぎし』誌の形をとって発足することになる。
その中心に出崎哲朗が居り、太宰瑠維などが居た。 

ここで「ぎしぎし」発足のときに出崎の書いた「言挙げ」の文章を出しておく。

<人間全体に対する祈りや人間の病める魂への慟哭やを措いて偉大なる文学の基盤はありはしなかつたのである。
 僕らは真の文学としての短歌をうたひたいと念ふ。僕らは僕らの非力をかなしむ。
 だが偉大なる不可能事にぶつかつて砕け散る以外、生甲斐ある生涯が一体どこにあらうか。
 今こそ祖国にシュトゥルム・ウント・ドラングの時代が来ていいのである。
 青春は奪回されねばならぬ。そして青春とは年齢を問はぬ性別を問はぬいのちの暁紅ではなかつたか。>

何とも凄まじい揚言である。(上記の部分の文章は井上美地さんの文章から引いた。引用に感謝する)

後年私が「未来」川口美根子選歌欄「マリオン集」に参加したのだが、その川口さんは京都府立女専に居られて、
彼らと行動を共にしておられ、何度か、その頃の話は聞かされていたのだった。
これらの動きは、のちに「未来」や「塔」の形で実現することになる。
そんなことで私としては、親近感があったし、近藤芳美の若い頃の『早春歌』の持つ抒情性は大好きなもので、出崎哲朗の歌は、瓜二つのような詠いぶりで好きである。
この本は短期間で返す必要がありコピーを取っただけだが、本当は時間をかけてスキャナしたかったが仕方がない。

ゴタゴタと書くよりも、先ず出崎の他の歌を引いておく。

 ■あけくれを人麿集にこだはりゐて月の夜となればひとり嘆かゆ──「京都アララギ会詠草」「高槻」など昭和21年より

 ■論文書きおしめの洗濯もするべしとこころは決めて煙草すひをり

 ■論文を書き倦みゐしが嬰児(みどりご)の乳くさくにほふ蚊帳に入りゆく

 ■わが論文は学問ならずといはれ思ひゐしが夜の更けゆきてつひに涙出づ

 ■安静も鍛錬なりと思ひつつ夏日臥れば泪流れぬ

卒論に熱中していた時期の出崎の歌である。彼は終戦の年の春に結婚した。学生結婚である。赤ん坊が生まれ生活は厳しかった。
なぜ急いで結婚したのか。すでに結核に罹っていたから、早く結婚して子供が欲しかったのかと考えられる。

 ■北窓よりひかりは淡きベッドの上に臨月の妻と昼餉食し居り──「ぎしぎし」④⑤号より

 ■わが妻は赤ちゃん全集のみ読み居ると街歩みつついく度も思ふ

 ■上り湯に体をぬぐふひとときよ夕飯がたのしかりしは幾年前か

 ■かやの実を噛みつつ君と向ふ玻璃戸竹群はしきりに風明りして

 ■わが妻を女中のごとくおとしめて懶惰に居れば心適くかな

 ■アスファルトで女の児と男の児と野球するよたのしかるかな君らの未来よ

「結核」というのは良くなったり悪化したりという繰り返しで、その療養をしながらの心境が、うまく、さりげなく、或いは悲哀に満ちて詠われている。

はじめに掲出した歌二首は、いま引いた号につづく「ぎしぎし」六号に載る。
出崎哲朗は女学校の先生になりたかった、という。そんな念願の女学校の先生になれて、結核の症状の晴れ間に、生徒たちとほのぼの過ごす様子が目に浮かぶようだ。

 ■僕の眼をじつとみつめて「狭き門」を質問する君らの前に嘘はいへない──「ぎしぎし」⑥⑦⑧⑩号より

 ■上靴に赤いリボンつけてゐる生徒たちああ君らのためにしたいことが山ほどある

 ■古今集はだめだと云つたら泣いた生徒よお前のことばかりで京極通り抜ける

 ■わが心崩れ来しかば夕の舗道あかるき中を歩み帰らむ

 ■生きゆくといふは何ならむ灯のあれば鈴懸の影はあらあらしかり

 ■新しきパン焼器に顔寄せてパン焼く妻をいかにかもせむ

 ■素直なる平凡なる生活でやはりいいのかと生徒のひとりひとりを夜半に思ふも

 ■われに似て果物好む幼な子よ夕べ風たてばともに梨食ふ

こういう教師と生徒との関係というのは今の教室にもあるのだろうか。今の教師というのは、管理教育のはざまで、多忙な毎日を過ごしているようで可哀相な気がする。

 ■四畳半の暗きわが家に妻と子と暮すを客観としてみればすこしは面白し──「ぎしぎし」⑪~23号より

 ■子と遊ばず買出しにゆかぬ亭主にわれあれば近所の評判もつとも悪し

 ■一年にいくたび家を追はるるならむ今宵は一杯に月の差す部屋

 ■トロイメライ低くひびきて乙女死ぬ劇見るときに一日はやさし

 ■無理しても教壇に立つと医者の前に涙ぐみ云ひきはかなかりにき

 ■窓に干すガーゼ明るくひるがへり思ひは次第に諦めとなる

 ■わが生徒みなうるはしと思ひをりはや疲れたる心にかあらむ

 ■小路より出で来し少女と並びゆくいたく明るき街燈の下

 ■霧しづむ夕べ舗道を帰るべしはかなしと思ふこともよろしき

 ■教卓の水仙の花に光(かげ)ありききほひ云ひし幸福のことはさびしかるよ

 ■教師の限界といふことにこだはりゆきとめどなきこのさびしさよ

 ■鈴蘭灯いつかあかるくつづけば思ふ冷淡なりと酔ひながらいはれし言葉

 ■だれとでも妥協してゆくわれと思ふ妻持ちてからか女学校に勤めてからか

 ■先生四条までついていつていいですかと明るき雨の中をつき来る

 ■気胸室にけふも待ちゐる人多しむらむらとなり思ふ日本の結核のこと

 ■ああ五月風は吹くと床の上にくり返し居れば慰めに似て

 ■健やかと病むとはやはり別の世界にて日の入れば物干に臥してさびしむ

 ■少しづつ風吹き透る部屋に臥し夏草の匂ひがしきりにかぎたし

 ■やすやすと近寄りて笑ふ少女あり去年休学してゐし生徒なり

 ■気胸にくれば帰りには寄る君のベッドけふはカーネーションの花挿してある

 ■しろじろと白楊の葉そよぐさびしきに自転車を起し帰る少年

 ■教会の十字架はいつしかシルエットとなりパン提げて帰る思ひ貧しく

 ■病にたへわが生きなむを寺田和子死ぬことなかれ毒のむなかれ

 ■夜ごと乱れ酒のみあるく小堀鉄男よからだこわす意味を君知らざらむ

 ■何しても呼吸困難となるわが妻にとなりつつまた息たへだへとなる

出崎哲朗は、昭和25年(1950年)2月19日に死んだ。 享年29歳である。その頃、結核は今のガンよりも怖い不治の病気だった。
丁度この頃アメリカからの特効薬が出ているが、まだ一般には出回っておらず、出崎には間に合わなかった。
私の父も、この年に大喀血して発病したがパスなどの薬を取り寄せて長く療養したのち快癒した。
大学への通学の途中に、この薬を京都河原町の佐々浪薬局に買いにゆくのが私の役目だった。この薬局は明治39年開業という老舗だが今も盛業中である。
私も、すぐ後に発病したが、私は入院してパス、ヒドラジッド、ストレプトマイシンの三者併用の治療で良くなった。時代が救ってくれたのである。(閑話休題)

多くの歌を引いたが、終わりから二、三首目の歌は、図版②に載せた本の主人公だからである。寺田和子は、のちに結婚して小堀の妻になった。
彼らも出崎哲朗の親しい弟子であって、今回ここに載せる歌のように「深いえにし」で結ばれているからである。
私は彼らとは生前には何の関係もないが、これらの弟子たちが同人誌「零」に集って小説などを書いていた意味を、ここに来て納得した次第である。
西井弘和、西村美智子など、しかりである。彼らについては何度か、ここに書いたことがある。
太宰瑠維氏には、私の第一歌集『茶の四季』の合同出版記念会でお会いしたことがあるが、この人も結核で苦しまれたようだ。
この人の名前はフランス語の「ルイ」に因む命名であり、この人の父君は太宰施門という京都大学教授のフランス文学者であり、この人の名も「シモン」という西欧名に由来する。
私の師であった川口美根子先生も、ご主人を亡くされてから惚けられて今は妹さんのお世話で専門施設に居られるそうで、うたた感慨無量の心境である。
人の縁というものは不思議なもので、ひよんな事から交友が始まることがある。
七月下旬に東京で私の第五歌集『昭和』読む会を開いてもらったが、その中に、日向輝子さんが居られ、その歌集評を、ここに書いたことがあるが、
その日向輝子さんが、田井安曇の結社「綱手」に所属されているのであった。
田井安曇は、自ら言っているように近藤芳美に「まさに信徒」として付き従ってきた人である。
その近藤芳美も亡くなって丸六年が経った。
この出崎哲朗読本を編集していた頃は、近藤の配下として「未来」の編集をしていた。 この頃、岡井隆は女と九州に駆け落ちしていた。
その後、岡井は編集に立ち戻るが、前衛短歌運動の隆盛、消長とかがあって、今日に至るが、田井安曇は「未来」に同一性アイデンティティを持てなくなり、
離れてゆき、自らの会誌「綱手」を立ち上げるようになったもののようである。
近代の日本の文学運動として「アララギ」は大きな影響力を持っていた。
俳句の「ホトトギス」と共に、この両者は正岡子規の始めた運動を引き継いでいるが、末期症状として「宗匠」的なセクトに陥った。
そんなセクトに反発して、今ここに見る「ぎしぎし」や「未来」や「塔」などの文学運動があるのである。
これらを単なる現象として捉えるのではなく「文学運動」として把握すれば、よく理解できると思うのである。

コピーを読んでいると、田井が、これをまとめるにあたって、井上美地さんが協力されたようであるが、彼女も「ぎしぎし」の仲間の一人であった。
角川歌人名鑑を見てみると、井上美地さんは昭和三年生まれで、川口美根子さんより一歳年長であるが、米田(秦)律子、川口美根子の三人で「三人組」と呼ばれた。
この人も目下は田井安曇の「綱手」に所属されている。

これらの資料を提供していただいた関係者の皆さんに御礼申し上げる。
今後この記事に補足して追記するかも知れない。 予め言っておく。
---------------------------------------------------------------------------
(追記10/29)
この記事をコピーして日向輝子さんが井上美地さんにお送りになり、それを見た井上さんから手紙と歌集などが届いた。
それによると井上美地、川口美根子、米田律子は「京都府立女専」の同級生であり「ぎしぎし」の会員だったと書いてある。
だから先に、ここに書いておいた<井上美地さんは、京都女子大時代に「ぎしぎし」のお仲間だったと聞いています。>というのは日向さんの勘違いということである。
府立女専は桂に学校があったから「桂女専」と通称されていた。今は京都府立大学として理科系の学部と一緒になっている。
一方の京都女専(のちの京都女子大学)は浄土真宗の西本願寺系列で、所在地は東山七条にあった。
京都のことを知らない人には、よく混同されるので日向さんを責めることはない。

(10/24夜記)
ただいま届いた角川「短歌」誌11月号を見ていたら、前号まで「未来」誌の広告に「主要作家」として名前の出ていた太宰瑠維、川口美根子の名前が無い。
いつの時点で、この広告が修正されたのかはわからないが、ここ数か月のことに違いない。
この記事にお二人のことを書いたばかりなのに、お二人が死去されたのは確実であり、感慨あらたなるものがある。歳月は非情だ。ご冥福を祈りたい。


コメント
コメント
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
copyright © 2020 Powered By FC2ブログ allrights reserved.