
──新・読書ノート──
柿沼徹詩集『もんしろちょうの道順』・・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・・・・思潮社2012/06/30刊・・・・・・・・・
この詩集は、先に採り上げた柴田千晶の詩集とは真反対の、ささやかな、静かな、短い詩篇である。
この本の題名になっていると思われる詩を、先ず引く。
もんしろちょう
もんしろちょうは
不可解な過去をもっている
蛹
もんしろちょうには
もんしろちょうではなかった過去がある
切って落とされたかのように
あとかたも残っていないが
青虫
卵
ヒメジョオンの咲く空き地のなかで
一羽のもんしろちょうが いっしんに
ヒメジョオンのあたりを舞っている
それは立ち止まることとはちがう
考えることとはちがう
語りかけることとはちがう
それは流れることですらない
切って落とされたような
白い今が
ひらひらと宙に浮いている
ビルの谷間の、人目につかない
この空き地のなかで
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やり方
蟻には蟻のやり方があるから
土を這い、茎をつたわり
土を這い、触角で伝え合う
お互いの名前を知らないままに
枝には枝のやり方があるから
土の上に微細な影を作っている
ときおり風が吹くと
影をゆする
だれかへの合図みたいに
不意に名前を
ひとつの名前を思い起こす
その人がいなくなったあとも
空気がゆっくりとながれている
だれも残つていない校庭に
用水路の水面に……
石ころには石ころのやり方があるから
いつのまにか道ばたに落ちている
なにひとつ言わず
蹴られると
自分の音をたてて転がる
そして動かなくなる
私たちは
名前を呟くことができる
二度と会うこともないので
名前のまえに立ってみる
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しわくちゃ
もうだいぶ歩いたのに
医師のひと言ふた言が
頭の中で
わんわんと鳴っている
どこまで来てもこの道路は
ありふれた商店街に沿っている
背後から
母の相貌が追ってくる
赤信号で
従順に停止する自動車たち
夕方の空には
疵ひとつ見あたらない
こなごなに砕けずに整列して
バスを待つ人びとの顔があった
石塀の上で
夥しいツボミが
色を滲ませ
いっせいにこちらを見つめている
なぜそこにあるのか
かたちを整えたまま壊れないのか
バスがやってくる
へッドライトの
しわくちゃな光が
こちらに向かってくる
わたくしの両目にへばりつこうとして
みるみる迫ってくる
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敵
とおい煤煙のように
木立がけぶっている
私のいない場所に
行ってみたい
記憶の外から
太陽が照りつけてくる
山裾の段々畑の
畝と畝のあいだ
言葉のない昼夜を
知り尽くした下草たちの戦い
だがとおい煤煙のように
木立はけぶっている
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この詩集には全部で24篇の詩が載っているが、みんな、こういう感じの詩である。
作者は1957年、東京都北多摩郡生まれ。 今までに三冊の詩集を出しているらしい。
この本の出版社である思潮社の発行する「現代詩年鑑2013」に「詩と空間について」と題して阿部嘉昭が書いている。
<詩には「哲学詩」と呼ぶべきジャンルがあるように思う。
著名な例ではまど・みちおの詩篇「りんご」をイメージできるが(中略)今年はそうした哲学詩集に二冊の目覚ましい成果があった。
柿沼徹『もんしろちょうの道順』(思潮社)と大橋政人『26個の風船』(榛名まほろば出版)。前者には樹木と自身の対峙が顕著だ。
だが詩篇「敵」の冒頭、
《とおい煤煙のように/木立がけぶっている//私のいない場所に/行
ってみたい》は樹木との対話を超えて、読み過ごせない恐
怖をも喚起する本質的なフレーズだった。そう、「私のい
ない場所に/行」くことはありえないのだ。場所に行くこ
とはたえず不自由にも「私」を伴うから。ところがそうい
う場所への志向がたしかにあって、想像裡に無化された
「私」は指標となった空間と事物に「けぶり」を感覚する
しかない。それはきっと時間の「けぶり」だろう。いずれ
にせよ柿沼の時空把握には不吉とも渺茫ともいえる穴が穿
たれる。かつて飼った愛犬「コロ」とともに死んでいる
(死につづけている)家族の質的差異。マンション建設予
定地の消滅と母の消滅をかさねることで、「在るもの」が
消失の穴を前提にしていることへの気づき。空間が消失に
より静かに壮麗化されているこの逆転が再読を促す。
「在るもの」によって詩句が先行される鉄則がつらぬかれ
ている。だから柿沼詩は「写生」概念にも隣接して、視覚
の奥深さと一如になる。詩篇「ハナミズキ」—— ≪空間の
割れやすいすきま/を縫うようにして/すきまを追いかけ
るように/流れ出している//空中にばらまかれた枝枝
が/乾いた亀裂をかたどっている// 一樹のたたずまい
が/私たちの挙動を/眺めかえしてくる//幹は/地面か
ら垂直にたち上がり/とつぜん水平に枝を差し出し/枝先
を/すくい上げている/それらあわただしい枝枝の/挙動
の素早さを/目に見ることができない≫(全篇)。 >
と書いている。 何とも「哲学的な」読みである。
私には、読み解けないことなので、当該部分を引いてみた。
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