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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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『抒情小曲集』─なににこがれて書くうたぞ・・・・・・室生犀星
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金沢市に建つ室生犀星像

 詩集・『抒情小曲集』──「小景異情」第五連
   なににこがれて書くうたぞ・・・・・・・・・・・・・室生犀星

 なににこがれて書くうたぞ

 一時にひらくうめすもも
 
 すももの蒼(あを)さ身にあびて

 田舎暮しのやすらかさ

 けふも母ぢやに叱られて

 すもものしたに身をよせぬ

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室生犀星の名を一世に高からしめたのは『抒情小曲集』『愛の詩集』という、大正七年刊行の二詩集だった。前者は初期抒情詩の集成で、その中に六つの短章から成る絶唱「小景異情」も含まれる。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」に始まる短詩は二番目の短章。
ここに掲げたのは五番目の短章。

不幸な出生の刻印を受け、ありあまる詩才を抱きながら苦しんだ青年期の、切々たる望郷と思慕の念が生んだ詩である。
彼は「私生児」として生まれ赤ん坊のうちに僧侶であった室生家に養子に出された。
詳しいことは「室生犀星・作家事典」に下記のような記事がある。
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生涯
 1889年8月1日、金沢市裏千日町に生まれる。本名、照道。父小畠弥左衛門吉種は元加賀藩士、妻を亡くして隠居の身で、64歳だった。母はるは女中。生後すぐに赤井ハツに預けられ、私生児として彼女の籍にはいる。ハツは「馬方お初」と渾名される莫連女で、不義の子を謝礼付きで引きとる商売をしていた。義理の兄と姉がいたが、成人後、姉は娼婦に売られている。ハツは雨宝院の住職、室生真乗と内縁関係にあったが、7歳の時、寺を継がせるために真乗の養嗣子にする。9歳の時、実父が亡くなると、生母は小畠家を追いだされ、行方不明になる。

 13歳で義母に高等小学校を中途退学させられ、地方裁判所に給仕として勤めはじめる。金沢で盛んな俳句の手ほどきを受け、文芸に興味をもつ。

 1909年、裁判所を辞め、地方新聞社を転々とした後、上京。詩がぼつぼつ雑誌に載るようになったが、金がなくなると金沢の養父のところにもどる生活を繰りかえしていた。1913年、北原白秋が主宰する「朱欒」に毎号載るようになる。無名時代の萩原朔太郎から手紙をもらい、親交を結ぶ。

 1917年、養父が死去。翌年、遺産で『愛の詩集』と『抒情小曲集』を自費出版。一部で注目される。

 1919年、佐藤春夫の成功に触発されて、「幼年時代」を発表。つづく「性に眼覚める頃」、「或る少女の死まで」で評価され、一躍流行作家になるが、1922年、幼い長男を失い、スランプにおちいる。

 1934年、養母ハツの荒くれた人生を題材にした「あにいもうと」を発表して、第一線に復帰。市井鬼ものとよばれる猥雑なエネルギーにあふれた、一種のピカレスク小説を次々に書く。

 戦争が激化するにしたがい活躍の場がなくなり、戦後も雌伏をつづけたが、1955年、随筆『女ひと』で文壇に復帰。1957年には『杏っ子』、1959年には晩年の傑作『かげろふの日記遺文』を書く。

 1962年3月26日、肺ガンで死去。73歳だった。
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犀星の写真というのが芳しいものが残っていなくて、やむなく銅像で代用した。いいものが見つかれば差し替えたい。
作品などの詳しいことはWikipedia←が詳しい。

   
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