
いねがたき夜半にしあれば血統を
かなぐり捨てて恋猫が鳴く・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
猫の繁殖期は春と秋の二回あるが、春のものは、まだまだ寒い今の時期に始まる。
去勢手術をしてある猫ならいざ知らず、何もしていない猫は、このシーズンになると、狂気にとりつかれたように昼も夜も相手を求めて鳴きながら徘徊する。
夜など家の周りでギャーギャー鳴きたてられては安眠妨害である。
このような現象は、野良猫であろうと、由緒ただしい血統書つきの猫であろうと違いはない。
掲出写真は、いわゆる「ブランド猫」と呼ばれる由緒正しい、高価な猫の画像である。
私の歌の趣旨は、そういうことである。
私は基本的に「猫嫌い」である。
というのは、わが家の庭は、放し飼いにされた猫たちの通り道に当り、臭い臭いウンチはされるわ被害甚大で、
通り道に忌避剤を撒いたり、灯油を撒いたりして対応しているが、じきに効力がなくなり困り果てているからである。
猫を飼っている人の言い草も気に入らない。
「犬は毎日、散歩に連れてゆかなければならないが、猫は一人で、どこかでしてきてくれるから楽だ」。
そのトバッチリが私の方に降りかかっているのである。
いつか散歩をしていたら、猫に手綱をつけて散歩させている飼い主さんに出会った。
「猫の散歩とは珍しいですね」と言ったら「猫のウンチも迷惑ですから」という返事があって感心したものである。
こんな人は滅多に居ない。
大比叡の表月夜や猫の恋・・・・・・・・・・鈴木花蓑
という句があるが、これなどは猫の恋を美的に、大きな景物の中に捉えて成功している。
猫の交情というのは、観察した人の文章などを見ると、凄まじいらしい。
猫の交尾というのは何回も執拗に雄、雌を問わず求めるようで、お互いを挑発したりして延々とつづくらしい。私は見たこともない。
交尾期が終わって家に戻ってきた猫は毛は傷つき、精力を使い果たしたようになっているらしい。
ライオンの交尾というのをテレビで見たことがあるが、腹ばいの雌の上に、雄がかぶさるようにするらしい。
猫も同じ種らしいから交尾の姿勢も同じらしい。人目につかない夜などが多いそうである。
犬の交尾は人が居ようがお構いなしで、これはこれで凄まじいものであるが、犬の交尾と狐の交尾は、種が同じだから、そっくりだという。
歌に戻ると、うるさくて安眠妨害のときはバケツに水を用意しておいて、ぶっかけて追っ払ったりする。
野良猫でもボス的なものが居て、やはり強いものの遺伝子を受け取りたいという雌の本能があるのか、多くの雌に種付けするようだ。
私の他の歌にも「猫」を詠ったものもあるが、それらはあくまで「道具建て」として使ってあるに過ぎない。
それらの歌のいくつかを引いて終わりたい。
三毛猫の蹠(あしうら)あかく天窓の玻璃に五弁の花捺しゆけり・・・・・・・・・・木村草弥
入りつ陽のひととき赫と照るときし猛々しく樹にのぼる白猫
菊の香のうごくと見えて白猫の音なくよぎる夕月夜なる
黒猫が狭庭をよぎる夕べにてチベットの「死の書」を読み始む
歳時記の春を見ると季語「猫の恋」として、たくさん載っているので、それを引いて終わりたい。
菜の花にまぶれて来たり猫の恋・・・・・・・・小林一茶
おそろしや石垣崩す猫の恋・・・・・・・・正岡子規
色町や真昼ひそかに猫の恋・・・・・・・・永井荷風
恋猫の丹下左膳よ哭く勿れ・・・・・・・・阿波野青畝
恋猫の皿舐めてすぐ鳴きにゆく・・・・・・・・加藤楸邨
老残の恋猫として啼けるかな・・・・・・・・安住敦
悪猫が舐めあふ春の猫の味・・・・・・・・三橋敏雄
奈良町は宵庚申や猫の恋・・・・・・・・飴山実
猫の恋パリの月下でありにけり・・・・・・・・山田弘子
あらすぢも仔細もあらぬ猫の恋・・・・・・・・三田きえ子
八車線渡り切ったる猫の恋・・・・・・・・出口善子
エジプトの恋猫の闇青からむ・・・・・・・・布施伊夜子
借りて来し猫なり恋も付いて来し・・・・・・・・中原道夫
山形訛り恋猫をわしづかみ・・・・・・・・今井聖
恋をしてわが家の猫と思はれず・・・・・・・・小圤健水
よれよれになりたる恋のペルシャ猫・・・・・・・・藤井明子
西鶴の墓にかしまし恋の猫・・・・・・・・倉持嘉博
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