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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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ドビュッシー/ヴェルレーヌ「角笛の音は」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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─山田兼士の詩と詩論─(4)

     ドビュッシー/ヴェルレーヌ「角笛の音は」・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

ドビュッシーの作曲になる「歌曲集『3つの歌曲』(1891年、3曲)──「海はさらに美しく」「角笛の音は悲しく」「垣根のつらなり」」というのがある。
これはヴェルレーヌの詩に曲を付けたものである。
山田兼士先生が訳をつけられたものがあるので、原文と対応して出しておく。

Le son du cor s'afflige vers les bois

 Le son du cor s'afflige vers les bois
 D'une douleur on veut croire orpheline
 Qui vient mourir au bas de la colline
 Parmi la bise errant en courts abois.

 L'âme du loup pleure dans cette voix
 Qui monte avec le soleil qui décline
 D'une agonie on veut croire câline
 Et qui ravit et qui navre à la fois.

 Pour faire mieux cette plaine assoupie
 La neige tombe à longs traits de charpie
 A travers le couchant sanguinolent,

 Et l'air a l'air d'être un soupir d'automne,
 Tant il fait doux par ce soir monotone
 Où se dorlote un paysage lent.

角笛の音は    ヴェルレーヌ (山田兼士・訳)

角笛の音は森に向かって嘆いて、
その苦しみはさながら孤児のよう、
丘のふもとに来て息絶える、
短く吠えながらさまよう北風の中で。

狼の魂がこの声に混じって泣いている、
その声が高まる、太陽が傾くとともに、
甘え声とも聞こえる苦悶の響きとなり、
心を奪うとともに引き裂きもする。

その嘆きをいくらかなりと鎮めようとして、
雪が落ちてくる、長い糸屑の緒を引いて、   
血の色をした落陽の中を落ちてくる。

そして大気は秋の吐息のようだ、
この単調な夕暮れに、大気はかくも穏やか、
風景もゆっくりその身をいたわる。
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曲を聴けるようにと、ネット上をいろいろ調べてみたが、まだ見つからない。見つけたら追加で載せる。

ご承知のように、この詩は「ソネット」という形式で作られている。「脚韻」を踏んだ詩である。
ソネットには、4433、4442とか、国によって形式が異なる。
日本語は言語の特性上から「脚韻」は発音した場合に目立たないので、いろいろ試みられたが成功していない。
日本詩では和歌、短歌の時代から「頭韻」が成功している。
中国由来のものだが「漢詩」は脚韻で効果的である。
西洋でも、これ以外に他の「韻」が試みられた。
例えば、イタリアのダンテ「新曲」などは、俗に「三韻詩」と呼ばれる「テルツァリーマ」という韻踏みの形式で全篇が詠まれている。

CLAUDE~1
 ↑ ド・ビュッシー

 ↑ ド・ビュッシーについては『「牧神の午後」への前奏曲』を採り上げた際に詳しく書いた。

22177001781ヴェルレーヌ
 ↑ ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)(1844年3月30日 ~ 1896年1月8日)は、フランスの詩人。
ポール・ヴェルレーヌ、あるいは単にヴェルレーヌとも呼ばれる。ステファヌ・マラルメ、アルチュール・ランボーらとともに、象徴派といわれる。
多彩に韻を踏んだ約540篇の詩の中に、絶唱とされる作品を含みながら、その人生は破滅的であった。

日本語訳では上田敏による「秋の日のヰ゛オロンのためいきの……」(落葉=秋の歌)、堀口大學による「秋風のヴィオロンの附節ながき啜泣……」(秋の歌)、「巷に雨の降るごとく……」などの訳詩で知られる。

生涯と作品
彼の一生には、酒・女・神・祈り・反逆・背徳・悔恨が混在した。
晩年には文名を高めデカダンスの教祖と仰がれたが、初期の作品の方が評価されている。

生い立ち
1844年-1864年
ドイツに接するモゼル県のメスに生まれた。父は、ベルギー生まれのフランス軍人。母は、パ=ド=カレー県アラス近郊の生まれ。経済的な環境は恵まれていた。父の退役後一家はパリに出(7歳)、ポールは小学校の寄宿舎に入り、次いでボナパルト中学(Lycée Bonaparto)(現在のコンドルセ中学(Lycée Condorcet )に、さらに修辞学級に進むが卒業には至らなかった。大学入学試験に合格し(18歳)、パリ市役所書記になる(20歳)。
1858年(14歳):習作をヴィクトル・ユーゴーに送る。このころ、ボードレールの『悪の華』などの詩集を乱読する。
1863年(19歳):雑誌に匿名の投稿をする。パリの文人らを知る。

青年期
1865年-1871年
父を喪う(21歳)。マチルド・モーテ(Matild Mauté)と婚約し(25歳)、翌年挙式。間もなく普仏戦争(1870年7月19日 - 1871年5月10日)に召集された。1871年のパリ・コミューン鎮圧(5/20 - 28)の騒擾を、パリのパンテオン近くの自宅で避けた。失職した。長男ジョルジュ誕生(27歳)。
1866年(22歳):詩人らが稿を持ち寄った第1次「現代高踏詩集」(Le Parnasse contemporain)に、7篇を寄稿。
1867年(23歳):サテュルニアン詩集(Poèmes saturniens)を従姉の費用で処女出版。ブリュッセルで「女の友達」(Les Amies)を匿名で刊行(後に「雙心詩集」に収録)。
1868年(24歳):文壇の知人を増やす。「女の友達」で、軽罪裁判所に処罰される。ブリュッセル在のユーゴーを訪問。
1869年(25歳):「よき歌」の数篇を書く。艶なる宴(Fêtes galantes)刊行。
1871年(27歳):第2次「現代高踏詩集」に、5篇を投稿。

結婚1年後、ランボーと会い、妻に乱暴を繰り返した上、彼と同棲し、イギリス・ベルギー・北仏を転々した。母と妻が説得に来ても、置き去りにして逃げ、妻に絶縁状を書いた。ユーゴーに妻との交渉を懇願した。ロンドンで病臥し、母を呼んだ(28歳)。転々するブリュッセルで、ランボーをピストルで撃ち、収監された(29歳)。妻の別居請求(この時点では離婚はしていない)が認められたことを獄中で知り、落胆し、カトリックに帰依した(30歳)。一年半後出獄し、元妻との和解をはかる一方、旅先でランボーと格闘した(31歳)。
1872年(28歳):婚約時代のマチルドを歌った優しき歌(La Bonne chanson)、戦乱に遅れて発行。
1874年(30歳):言葉なき恋歌(Romances sans paroles)が友人の手で刊行され、獄中の著者に届けられる。
1875年(31歳):第3次「現代高踏詩集」への投稿を忌避される(このとき、マラルメも同様)。

1875年-1885年
イギリスの中学に教職を得た(31歳)。アルデンヌ県の学校に転じ、生徒中の美少年リュシアン・レチノアに惚れ(33歳)、授業をおろされ、リュシアンと英国へ渡り、教職を得た。元妻との和解をまたはかり、黙殺された(35歳)。リュシアンを伴い帰国し、その郷里に滞留(36-37歳)。母と暫くパリに住み、市役所への復職をはかり果せず、西郊の学校に就職した(38歳)。リュシアンが死に(39歳)、その故郷で堕落放浪の日を送った(-40歳)。泥酔して母の頸を絞め、入牢。出獄後またリュシアンの故郷を放浪した(41歳)。
1881年(37歳):叡智(Sagesse)刊行、売れ行き振るわず。
1882年(38歳):雑誌に、「昔と近頃」の数詩篇と、獄中作の詩法(Art poétique)を発表(「詩法」は後に「昔と近頃」に併載)。
1884年(40歳):評論、呪われた詩人たち(Les Poètes maudits)刊行。

栄誉と窮乏
1885年-1896年
パリへ戻り、無一文。ホテル住まいした。左膝を患い、一時慈善病院へ(41歳)。経済的援助をした母死亡、葬儀には病気で不参。ホテルを追い出され(42歳)、以降慈善病院を転々(42歳-)。慈善病院から娼婦ユージェニー・クランツの家へ転じ、情夫となった。生活費のため、オランダへ講演旅行(48歳)。ユージェニーに駆け落ちされ、慈善病院入院。娼婦フィロメーヌ・ブーダンに連れ出された。国内およびイギリスへ講演旅行をした(49歳)。ユージェニーと和解しまた同棲した。入院2回(50歳)。文部省から救済の500フランを受け取る。パンテオン近くの自宅で、娼婦に看取られて死去。遠からぬサン・テチエンヌ・デュ・モン教会で葬儀。マラルメ、フランソワ・コペー(fr:François Coppée)ほか参列者多数。ただし、入営し病中の息子ジョルジュは不参。パリ市17区のバチニョル墓地(Cimetière des Batignolles)に埋葬(51歳)。



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