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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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高階杞一詩集『いつか別れの日のために』・・・・・・・・・・・木村草弥
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──高階杞一の詩──(5)

     高階杞一詩集『いつか別れの日のために』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・澪標2012/05/30刊・・・・・・・・・

久しぶりに高階杞一さんの詩集を採り上げる。今までに書いた私の記事は ← ここを見てもらいたい。
この詩集は高階さんの第12詩集で、24篇の詩を収録してある。
制作期間は、2008年から2011年にわたる作品群である。装幀:倉本修。

優れた現代詩に贈られる第8回「三好達治賞」(大阪市主催)に、この「いつか別れの日のために」が選ばれ大阪市が3月1日発表した。高階さんは大阪市生まれ。
2000年に「空への質問」(大日本図書)で第4回三越左千夫少年詩賞を受賞されたが、
1990年、詩集『キリンの洗濯』にて第40回H氏賞を受賞されて以後ひさびさの大きい詩賞の受賞と言える。
だから高階さんは「この賞は欲しかった賞なので、とても嬉しい」と仰言っている。心から、おめでとう、と申し上げる。
4月5日に大阪城北詰の大阪市公館で第8回「三好達治賞」贈呈式などの行事が行われる。

この本の「あとがき」に

 <自分が死んだ後の世界のことを考えては、とても不思議な気がしてきます。
   自分がいないのに、世界は何ひとつ変わらずに、朝になればいつもと同じよう
   に陽が昇り、街にはたくさんの人が歩き、信号は点滅をくりかえす。それは何だ
   か、今ある世界とは別な世界のように思えてきます…… >

と書かれている。
丁度この頃、高階さんは食道に異常を感じられ、精密検診をお受けになった。
私は、そのとき、お見舞いのメールを差し上げ、お酒はほどほどにと忠告申し上げた。
幸い、初期のもので治療されて大事には至らなかったが、そのときの体験が、これらの詩群の背後にあると知ってもらいたい。
高階さんの「犬好き」は有名で作品の中にも、いつも登場するが、今回の詩でも「犬」と一緒である。
この首尾一貫した姿勢が好ましい。
私との縁は、私の第一詩集『免疫系』を謹呈した際にお手紙をいただいた時に遡る。

先ず「びーぐる」16号の詩集時評に山田兼士氏が書いた短文を引いておく。 ↓
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高階杞一『いつか別れの日のために』(澪標)著者第十二詩集。死を意識して書かれた二四篇。
だが、高階詩では死でさえ軽快で透明感にあふれている。軽薄ではなく軽快なのだ。その要因は浮遊感と揺動感に満ちた言語感覚。
どれほど深刻なテーマを扱っても必要以上に重くならないのは言葉の浮標(ブイ) のためだ。

もし僕が
明日とつぜん死んだとしても
ペロペロなんかせず
(一度ぐらいはしてもいいけれど)
誰かのやがてあけるだろう扉から
そっと外へ出て
ひとりで好きな方へ歩きはじめてください
ふりむいて
さよなら
なんて言わずにね     (「いつか別れの日のために」末尾部分)
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「loggia52」というサイトに下記のような批評が出ているので紹介する。(どなたのサイトか知らないので失礼します)

 細見和之『家族の午後』、山田兼士『家族の昭和』、それにこの高階杞一『いつか別れの日のために』と、並べてみると、ある共通する特徴が確かにある。
ひとつは、どの詩集も平易なことばが選ばれ、日常のひとこまが詩の展開のベースになっている。また、《家族》というのもキーワードだろう。
 この3人の詩人は、詩誌『びーぐる』の編集同人だから、いわば《びーぐる派》の詩人と呼んでもいいような気がするほど、共鳴しあう部分を持っている。
まあ、それはともかくとして、今日は、『いつか別れの日のために』(澪標)について、メモを取ったのを記す。

   春と習字

 春という字を見ていて
 これは
 三と人と日からできているんだと気がついた
 三人の下に日があって
 春になる

 君と僕のほかにはここに人がいないので
 ここは
 いつまでも春にならない
 のだろうか

 春にならない家で
 君はメールを見たり
 本を読んだり
 僕はメールを見たり
 お酒を飲んだり
 たまには詩を書いたりもして

 ときおり
 ここへ来るはずだった
 もう一人のことを思い出したり
 しながら
 僕は
 書き損じた春を
 何枚も何枚も
 まるめてはゴミ箱へ捨てた

 どのことばも易しい。
描かれている詩の世界も詩人の日常の何でもないひとこまをベースにしている。
にもかかわらず、この詩の場合は、最終連に、心の埋められない隙間がのぞくことによって、一気に詩はもう一段、深い層へと静かに読む人を導いていく。
だれもが思い当たる情感である。どんな人でも、自分の体験や経験を手がかりに、詩の世界へと入っていくことができる。それが高階の詩の強みである。
とはいうものの、それは詩が想像力の強度を持っていないと人の心を動かすことはなかなかむずかしい。
彼は、そのむずかしさを感じさせないで、その困難なことをやりおおせている。
詩の技術的な巧さもそれを可能にしている大きな要因として挙げられることも指摘しておきたい。
 この詩集は、『早く家へ帰りたい』(1995年刊)という詩集、さらに『夜にいっぱいやってくる』(1999年刊)に引き継がれたモチーフ、
すなわち、それらの詩集から伏流していた、子供を失ったかなしみが、かたちを変えて詩人の心の岸に流れ寄っている。
しきりに登場する飼い犬は失った子供の影を帯びているのは言うまでもないだろう。あらたに以前の詩集から加わったのは、自らの死についての思いである。
 こうした、深い喪失感と、それと交差する自らの死に対する感慨が、静かなノスタルジアの情感を掻きたてる。
さらには、どう言えばいいのだろう、自分が生きていることに対する潜在的な含羞とでもいうのだろうか。うしろめたさというのだろうか。
それが詩を書かせるのだと思う。書かないでは、生きてはゆけないような自分にひそむ含羞が彼のことばを生かしめている。
そして、この詩集ばかりでなく、彼の詩の特徴である、誰かに静かに話しかけるようなスタイルが、そうした含羞を包み込むのにうまく作用している。
 もう一つ、これはさらにいい作品。

  ガリガリ

 庭で遊ぶのにあきると
 犬は
 おうちにいれて
 と縁側の戸をガリガリします

 もっと外で遊んでいなさい
 と言ってもききません
 いれてもらえるまで
 ガリガリします

 障子や網戸は破れ
 犬はうれしそうですが
 人間は何だか落ち着かなくて困ります

 静かなお昼

 障子や網戸の破れた家で
 ひとりでご飯を食べたりしていると
 どこからか
 ガリガリと戸をひっかく音が聞こえてきます
 縁側からではありません

 犬と私はふり返り じっと耳を澄ませます
 それはどこか遠くから
 おうちにいれて
 と
 聞こえてきます
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「洪水~漂流記録~」というサイトに載る批評を引く。

2012年08月29日

高階杞一詩集『いつか別れの日のために』

透明感にしびれる。「透明感にあふれた」というよくある表現ではあきたらず、「透明感をきわめた」と言いたくなるような作品たち。人間が透明人間になることはまだできていないようだが、詩が透明になることは実現されたのか。詩のスケルトンが洗われる霊的なまでのすがすがしさがある。「答は空」という詩を紹介する:

こどもと散歩をしながら
聞いてみる
ねえ
この世で一番のお金持ちは誰だか知ってる?
こどもは首をかしげてぼくを見る
ぼくは得意げに言う
答は空
見てごらん
あんなに立派な太陽や
白いきれいな雲を持っている
夜には月や星まで出してくる
どんなお金持ちもあれは買えない
どう、すごいだろ?

五月のよく晴れた朝
もしもぼくにこどもがいたら
こんな話をするのになあ
と思いながら
犬といっしょに
若葉の美しい道を歩いていました
犬はぼくを引っぱり
先へ先へと急ぎますが
人間のぼくはそんなに速くは進めません
歩くことに
疲れて 立ち止まったり
時に振り返ったり
そんなぼくに
さっき
立ち止まったところから
今も動かずにいるこどもの声が
明るく
ひびいてきます

  空ってすごいね

  空ってすごいね お父さん

この透明感はもちろん高階氏のいまの生の光景のありようと密接なつながりがあるのだろう。澪標刊。
(池田康)
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Wikipediaに載る記事を引いておく。

高階杞一(たかしな きいち、1951年 - )は日本の詩人。

大阪市生まれ、神戸市在住。大阪府立大学農学部園芸農学科卒業。神尾和寿とともに詩誌「ガーネット」を創刊(1990年)。
山田兼士、四元康祐、細見和之らとともに詩誌「びーぐる」編集同人。大阪芸術大学非常勤講師。大阪文学学校講師(1994年~1998年)。
大阪シナリオ学校講師(1993年~2005年)。柳波賞審査委員(群馬県沼田市主催)1999年~。

略歴
1983年、戯曲「ムジナ」にて第1回キャビン戯曲賞入賞。
1990年、詩集『キリンの洗濯』にて第40回H氏賞受賞。
2000年、詩集『空への質問』にて第4回三越左千夫少年詩賞受賞。
2004年、高階の詩に曲を付けた混声合唱組曲「キリンの洗濯」(作曲:堀内貴晃)が第15回朝日作曲賞受賞。
2013年、詩集『いつか別れの日のために』にて第8回三好達治賞受賞。

著書

詩集
漠 青髭社 1980.11
さよなら 鳥影社 1983.8
キリンの洗濯 あざみ書房 1989.3
星に唄おう 思潮社 1993.10
早く家(うち)へ帰りたい 偕成社 1995.11
春'ing(はりんぐ) 思潮社 1997.6
夜にいっぱいやってくる 思潮社 1999.4
空への質問 大日本図書 1999.11
ティッシュの鉄人 詩学社 2003.8
高階杞一詩集 砂子屋書房・現代詩人文庫 2004.9
桃の花 砂子屋書房  2005.9
雲の映る道 澪標 2008.9
いつか別れの日のために 澪標 2012.5

編著
スポーツ詩集 花神社 1997.10 川崎洋、藤富保男共編



コメント
コメント
青騎士に似て
   Shoyaさま

 素晴らしい詩人もいらっしゃるものですね。先生にご紹介頂かなければ、多分知り得ることがなかったかもと。つくづく先生の記事群に感謝しています。
 この軽妙さはカンディンスキーやポラックのような、青騎士たちの抽象絵画さえ思いおこさせます。この詩人の持つ独特な空気感やリズム感が、きっとそうさせるのでしょう。しかも明るい色調で描かれた絵画とでも申せましょうか。
 そのなかで果たす親しい犬は、一度塗ってペインティングナイフで、ガリガリと削り取ったようで爽快で痛快に感じられてなりません。ぼくもいつかは逝くあの世界は透明感に満ち溢れている世界であってほしいものですが、欲を言い過ぎましたでしょうか。今夜も有難う御座いました。
2013/03/06(水) 20:49:42 | URL | 硯水亭歳時記 #xxIaUQbE [ 編集 ]
「贈呈式」当日は私も招待者として出席します
■松本さま。
お早うございます。
「贈呈式」当日は私も招待者として出席します。
この人は、独特の「メルヘンチック」な詩を書く人です。
ずっと、このスタイルです。
作曲されて、いくつか歌曲になってます。
それらについては彼についての「過去記事」で書きました。
コメント有難うございます。
2013/03/07(木) 05:21:42 | URL | sohya #- [ 編集 ]
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