
↑ ヴェズレーの丘と教会

↑ ヴェズレーの丘 サント・マドレーヌ聖堂

↑ ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃

↑ 柱頭彫刻①
──巡礼の旅──(19)
ヴェズレー「サント・マドレーヌ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥
聖マドレーヌというのは「マグダラのマリア」のことである。
かつては娼婦であり、キリストの教えにより悔悛し、復活したキリストを最初に見た、という彼女の遺骨を納めているという。真偽のほどは置いておく。
人々がそれを信じたという事実が肝要なことなのである。
ここはスペイン西北端サンチアゴ・デ・コンポステーラへ続く大巡礼路の出発点のひとつであり、長い参道が修道院まで続く。
1146年には聖ベルナルドゥスが第二回十字軍を説いた場所でもある。西正面の外観は十九世紀の作なので大したものではない。
サント=マドレーヌ大聖堂 (Basilique Sainte-Madelaine) は、フランスの町ヴェズレーの中心的な丘の上にあるバシリカ式教会堂。
この教会と丘は、1979年にユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ヴェズレーの教会と丘」)。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の始点のひとつという歴史的重要性もさることながら、大聖堂のティンパヌムはロマネスク彫刻の傑作として知られている。
Wikipediaに載る記事を引いておく。 ↓
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861年にヴェズレーの丘の上にベネディクト会士たちが建立した。
その際に、修道士の一人がマグダラのマリア(サント=マドレーヌ)の聖遺物を持ち帰るためにプロヴァンス地方のサン=マクシマンに派遣された。
878年には、この初期カロリング様式の教会は、ローマ教皇ヨハネス8世によって、現存する地下納骨堂ともどもマグダラのマリアに捧げられた。
ジョフロワ修道院長 (l'abbé Geoffroy) はマグダラのマリアの聖遺物を公開し、それが様々な奇跡を起こしたとされる。
これによって、巡礼者が押し寄せ、ひいてはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路に組み込まれることになったのである。
こうした評価は村を都市へと発展させる原動力となった。
巡礼者たちは引きもきらず、その中にはブルゴーニュ公ユーグ2世(1084年)や、イングランド王リチャード1世(1190年に第3回十字軍遠征に先立って)、フランス王ルイ9世(1248年)なども含まれることとなる。
アルトー修道院長 (l'abbé Artaud) は、1096年から1104年に内陣も翼廊も新築した。
ただし、この新築にかかる費用の負担に反発した住民たちが暴動を起こし(1106年)、この時にアルトーは殺された。
なお、この時点では身廊はカロリング様式のままだったが、1120年7月25日に1127人の犠牲者を出した大火災に見舞われたことで、身廊も建て直された(1138年に完成)。
なお、今に残る正面扉上の美しいティンパヌムが彫られたのもこの頃のことである(1125年 - 1130年)。
1146年の復活祭の日(3月31日)に、クレルヴォーのベルナルドゥスは、丘の北斜面にて第二次十字軍を派遣すべきであると説いた。また、1166年にはカンタベリー大司教トマス・ベケットが、この教会で、イングランド王ヘンリー2世の破門を宣告した。
教会の人気は、1279年にヴェズレーへ持ち去られたはずの聖遺物と称するものがサン=マクシマンで発見されたことで、凋落の一途をたどった。
この教会は1162年にはクリュニー修道院から分離し、オータン司教からフランス王の監督下に移っていたが、1217年にはフランシスコ会に引き取られ、1537年に還俗した。
1569年にはユグノーによる略奪を受けた。その後、1790年にはフランス革命の中で小教区の一教会となった。この頃、教会参事会室だけは良好な状態で保たれた(現在も付属のチャペルとして残存している)ものの、ほかは建材調達のための石切り場と化し、自慢のティンパヌムも酷い有様だった。1819年にはサン=ミシェル塔に落雷があった。
こうした度重なる損壊に対し、プロスペル・メリメの発案に従って、ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュックに再建が委ねられた(1840年)。
この再建工事は1876年に完成し、1912年に再び巡礼の拠点となった。
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一連の教会群は、ヴェズレーのなだらかな丘の上に建っている。

↑ だらだら坂の舗道に埋め込まれた巡礼路を示すホタテガイ
サント・マドレーヌ聖堂のもう一つの見所は、100点にもおよぶ身廊(正面から内陣へと向かう東西に細長い空間)と側廊(身廊の左右にある通路)を仕切る柱にある柱頭彫刻である。
建築と調和したロマネスク彫刻はこの時代の美術を代表するもので、各地の文化的素地の多様性、人々の想像力の豊かさ、深い宗教精神を伝えているという。
柱頭彫刻はギリシャ時代からあったが、ギリシャのものは主に植物的な文様であり、物語的な柱頭彫刻はロマネスク芸術から始まったそうである。
一、二引いて解説してみよう。

↑ エジプト人を殺すモーゼ

↑ ダビデとゴリアテ
ダビデは植物の花弁にのっかかって切り込んでいる。これはダビデが小さい子供であることを強調している。
ダビデが少年の頃に巨人戦士ゴリアテを倒す聖書物語は、信仰の厚いダビデの勇気と、神を嘲って武力に頼る暴虐なゴリアテの決闘の結末から、
信仰の大切さを学ぶ教訓として語られる、欧米人にとってなじみの深い話だそうである。

↑ 「洗礼者志願室」入口上部のティンバヌム壁画
この壁画の主題は「使徒に布教の命令を伝えるキリスト」ということだが、中心にほぼ両手を広げたキリストが居て、その手の先から神の啓示である光線が出、それらを畏怖の念で受け取る使徒たちが取り巻く。
それらの使徒の下段と外側の半円には「地上」のローマ人、ユダヤ人、アラブ人、インド人、ギリシャ人、アルメニア人などが刻まれ、これらはすべて神の宇宙にある人間であり、キリスト教の「普遍性」を意味するという。
さらに、半円形壁画の外側は十二か月の仕事を具体的に描いている。
一月は農夫がパンを切り、二月は魚を食べ、三月は葡萄の木を手入れし、四月は木の芽で山羊を育てる。・・・・・
九月は麦を櫃に入れ、十月は葡萄を収穫し、十一月は豚を殺し、十二月は男が肩に老婆を背負う。
この最後は「過ぎてゆく年月」を象徴する。したがって、これらは自然の一年の円環的構造と人間との関わりを示すとされる。
この自然の時間を基底としながらも、直線的なキリスト教的時間、すなわち前世の原罪、現世の贖罪、来世の救済が展開される。
昔は字を読めない人が大半であり、しかも時代は中世であり、終末思想が強かった時代であり、キリストに救済を求める気分が支配していた。
だから信者や修道士を脅し、戒めるような主題が柱頭に並んでいる。
写真には一部しか出せなかったことも了承されたい。
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