K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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( 旅行記 )アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅・・・・・・・・・・・・・木村草弥
map-franceフランス地図

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旅物語_0001

フランス美しい村
↑ 『フランスの美しき村』新潮社刊2002年初版 2009/11/15五刷



     アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅(1)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・JTB旅物語主催2013/09/20~09/27・・・・・・・・

2013/09/20 関西空港を10:00にルフトハンザ・ドイツ航空LH741便で出発。全日空との共同運行コードシェア便である。
euro2013kix_07747-400.jpg

この機材は、ボーイング747-400、いわゆるジャンボジェットで、ひところ花形だったが、燃費が悪いため日系エアでは引退したが、国際的にはまだまだ動いている。
因みに、成田線では最新のエアバス製の総二階のA380-800が就航しているが、関空─KIX は古い機材のままである。
ただ、このジャンボ機は巡航速度が速いので、ヨーロッパに約12時間で着けるので乗客には有難い。
私は歳のことを考えてビジネスクラスにした。この旅では私だけ。 
スターアライアンスなので、ANAのマイレージにマイルを貯める手続きをした。

関西空港の受付カウンターで同行のT氏と知り合いになり、メールアドレスや住所など教えてもらったのは彼一人である。
元・某都市銀行の支店長などを歴任された方で、K大学法学部卒。昭和十四年生まれという。
今回の旅で孤立せずに過ごせたのは彼のおかげであり、ここに名前を記して厚く感謝するものである。

ほかにも私の名刺をあげた人は数人いるが、彼らが私に連絡をくれるかどうかは判らない。

また、ビシネスクラスの隣席には中年のドイツ人女性が座り、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』に続く新作『 I N F E R N O 』を読んでいる。
『 I N F E R N O 』とは、イタリアの昔の有名な作家・ダンテの『神曲』の題名である。
名刺も交換したが、製薬関係の会社のドクターとかMBAだとか刷ってある。
プライバシーもあるので会社名なども含めて伏せておく。
因みに『 I N F E R N O 』の日本語版は11/28に出るらしい。

約11時間50分のフライトでフランクフルトに現地時間14:50着陸。現地はまだ昼過ぎである。
EUに入域しパスポートにスタンプを捺してもらう。同行者は31人である。 添乗員は藤原さん。

フランスはあちこち行ったが、こちらのストラスブール、ブルゴーニュは初めてである。
時差ボケで辛いが、218㎞を約三時間かけて、今夜宿泊のストラスブールまでバス移動。今日は金曜日の週末で途中の道路は渋滞して混んでいる。
夕方おそく、宿泊のホテル─「ル・グラン」Le Grand Strasbourg に入る。ここには連泊する。

15893887ル・グランホテル
 ↑ 「ル・グラン」は建物の左端。    ↓ ホテル玄関
27278_31_bル・グランホテル玄関

このホテルは、フランス国鉄のストラブール駅前の大きなロータリーに面したところに建っていて、ロータリーを取り巻くように多くのホテルが見える。
ル・グランのように建物に複数のホテルがあるのはヨーロッパでは当り前。
この建物の右端には「イビス・ホテル」が見える。写真には無いが左手のビルには「メルキュール・ホテル」が見える。
これらのホテルはスタンタードなB級の三ツ星ホテルのチェーンとして知られている。今回の旅のホテルは最終日を除いて、みな、このクラスである。

ここで思い出すのが2003/06/12~06/21に旅した「グリムの森からハンザの道へ」のバスの運転手パトリックがストラスブール郊外に住んでいたことだった。
ヨーロッパは陸続きなので国境はあって無いようなものなのである。

ここで、この地域──「アルザス」について、Wikipediaの記事を引いておく。 ↓

アルザス地域圏(アルザス語:Elsàss、アレマン語:Elsäß、標準ドイツ語:Elsass、フランス語・英語:Alsace)は、フランス北東部に存在する地域圏。
西側の大部分をロレーヌ地域圏と接し、残りはフランシュ=コンテ地域圏と接している。東はドイツとスイスに接する。地域圏内にはバ=ラン県とオー=ラン県二つの県を含む。
アルザスの名前はドイツ語のEll-sassから取られている。地域圏最大の都市であるストラスブール(シュトラースブルク)を首府とする。
アルザスはかつては神聖ローマ帝国の領地であり、17世紀から19世紀にかけて何度もフランスとドイツを行き来してきた。
アルザスの住民の大部分はドイツ系のアレマン人一派であるアルザス人で、人口130万人の住民がドイツ語の方言であるアルザス語を言語としており、
アルザスはドイツ文化において重要な役割を果たしてきた。


王制時代は「ブルボン家に仕えるドイツ人」と呼ばれていた。首府はストラスブール(独:シュトラースブルク)。
域内面積は日本の兵庫県(約8,394平方キロメートル)と同じぐらい、人口は鹿児島県(約177万人)とほぼ同程度。
南北に細長く展開し、北部がバ=ラン県(「ライン川下流」の意味)、南部がオー=ラン県(「ライン川上流」の意味)にそれぞれ分かれる。
鉄鉱石や石炭を豊富に産出し、ライン川の水運を利用して古くから工業が盛んに行われていたことや、交通の要衝だったことも手伝って長くドイツとフランスの間で領土の獲得競争が繰り広げられてきた。
エルザス人(アルザス人)は明らかな異文化であるフランスとは同化せず、一方でドイツにあってはツァーベルン事件に代表されるように一等国民として扱わなかったために、独自のアイデンティティを保ち続けることとなった。

1870年の普仏戦争や1940年の第二次世界大戦におけるフランス降伏に伴ってドイツに占領されたが、戦後はフランスが再占領し現在に至っている。
この間、強引な同化政策が行われたことで、多くの住民はフランス語とアルザス語のバイリンガルであり、若年層ほどフランス語を多用する。
近年になってフランス政府は同化政策を改めたが、フランス語しか話せない若者も少なくなく、今後の教育方針をめぐる議論は続いている。
ヨーロッパ有数の経済地域であるドイツ・ライン川中流域との結びつきを深めており、生活水準はフランスの中でも高い方に属する。

アルザス=ロレーヌ(フランス語: Alsace-Lorraine、ドイツ語: Elsaß-Lothringen エルザス=ロートリンゲン、アレマン語: Elsäß-Lothringe エルゼス=ロートリンゲ)は、フランス共和国北東部のドイツ国境に近いアルザス地域圏(エルザス)とロレーヌ地域圏(ロートリンゲン)のうちモゼル県を合わせた地域。

鉄鉱石と石炭を産出するため、しばしばフランスとドイツとの間で係争地となったことで知られる。
第二次世界大戦以降はフランス領となったが、中心都市であるストラスブールには、それ以後、欧州の主要な国際機関が多く設置され、国を超え、欧州統合の象徴的な地域となっている。

アルザス・ロレーヌは元々ドイツ語文化圏に属し、特にアルザスで話されるアルザス語は南部ドイツ語の方言であるアレマン語の一つ。
元来はドイツの前身である神聖ローマ帝国の支配下にあり、住民の大多数はドイツ系のアルザス人(アレマン系)だが、『ツァーベルン事件』でドイツ人がアルザス人を侮辱する事件が起こったことをきっかけに、現在のアルザスの住民は「ドイツ人」という概念よりも、民族独自の「アルザス人」という意識が強くなった。

アルザス=ロレーヌ地方は長年神聖ローマ帝国傘下のロートリンゲン公国などの支配下にあった。
しかし17世紀になるとフランス王国が勢力を拡大してストラスブールなどを支配下に置いた。
1736年にロートリンゲン公フランツ3世シュテファンがオーストリア系ハプスブルク家(神聖ローマ皇帝家)のマリア・テレジアの婿に決定すると、フランス王国はロレーヌが実質的にオーストリア公領となるこの結婚に反対した。協議の結果、領土交換が行われ、一代限りのロレーヌ公となったスタニスワフ・レシチニスキの死後には完全にフランス領に編入された。

1871年、プロイセン王国が普仏戦争でフランスを破ると、プロイセンはフランスとの講和条件としてアルザス=ロレーヌを国土の一部とした。
プロイセン王国は「ドイツ帝国」の成立を宣言してこの地域を帝国の直轄統治下に置いた。
ただし元々アルザスの一部であったテリトワール・ド・ベルフォールは併合を拒んで激しく抵抗したためフランス領に留まった。
アルザス=ロレーヌという地域名称は、この時期に存在した「エルザス=ロートリンゲン」(ドイツ帝国を構成する26連邦構成国の一つ)をさすものである。

1919年、ドイツが第一次世界大戦で敗れると、一時アルザス=ロレーヌ共和国が独立を宣言したが、フランスが領有権を主張して認められた。
教育制度はフランス式に改められ、アルザス語の使用が禁止されてフランス語が公用語とされた。
またストラスブール大学に多くの研究者と教育予算があてられ、1929年にマルク・ブロックとリュシアン・フェーヴルの二人の教授により社会史のアナール学派が生まれた。
1930年頃、自治を求める運動が活発化した。
1940年にナチス・ドイツが第二次世界大戦で再びフランスを破って、首都パリを占領すると、再度アルザス=ロレーヌを自国に編入した。
だが、1944年にドイツに抵抗を続けていた自由フランスがパリを奪還して新政府を樹立すると、この地域からドイツ軍を追って再びアルザス=ロレーヌを領有して現行の国境となった。

欧州連合はその主要機関である欧州議会(Parlement européen)の本部を、欧州共同体時代の1979年に中心都市ストラスブールに置いた。
また、欧州審議会(Council of Europe、欧州評議会、欧州会議とも訳される)はそれ以前の1949年に、そして欧州人権裁判所は1959年にストラスブールに置いている。

フランスとドイツとの国境地帯にあり、フランスおよびドイツそれぞれの国から見れば地理的には周辺であるのにもかかわらず、欧州の「中心」地域になっている。
欧州統合を推進するフランスとドイツの中間点にあり、なおかつ欧州の中心ということは歴史をふりかえれば非常に象徴的である。

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↑ 巨大なドームのようなストラブール駅の外観。サマータイムの朝なので画像が暗い。 ↑ ↓ ホテルの自室から望遠で撮影。
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↑ ロータリーの真ん中にはトラムと国鉄駅への地下通路の入口が口を開けている
mkfs_693ストラスブール・トラム
↑ ストラスブールのトラム 
ストラスブール
 ↑ ストラスブールの地図 (折り畳みで、拡げると新聞紙大の大きさになる)

後日談になるが、一行中には40~50代の女の人が多く参加していた。
それらの人たちが口々に言ったのがフランスの作家ドーデの短編小説「最後の授業」だった。
知らない人のためにWikipediaの記事を引いておく。 ↓

『最後の授業』(さいごのじゅぎょう、仏: La Dernière Classe)は、フランス第三共和政時代の初期、1873年に出版されたアルフォンス・ドーデの短編小説集『月曜物語』(仏: Les Contes du Lundi)の1編である。副題は『アルザスの少年の話』(Récit d'un petit alsacien)。『月曜物語』は1871年から1873年までフランスの新聞で連載された。

あらすじ
ある日、フランス領アルザス地方に住む学校嫌いのフランツ少年は、その日も村の小さな学校に遅刻する。彼はてっきり担任のアメル先生に叱られると思っていたが、意外なことに、先生は怒らず着席を穏やかに促した。気がつくと、今日は教室の後ろに元村長はじめ村の老人たちが正装して集まっている。教室の皆に向かい、先生は話しはじめる。

「私がここで、フランス語の授業をするのは、これが最後です。普仏戦争でフランスが負けたため、アルザスはプロイセン領になり、ドイツ語しか教えてはいけないことになりました。これが、私のフランス語の、最後の授業です」

先生は「フランス語は世界でいちばん美しく、一番明晰な言葉です。そして、ある民族が奴隸となっても、その国語を保っている限り、牢獄の鍵を握っているようなものなのです」と語り、生徒も大人たちも、最後の授業に耳を傾ける。やがて終業を告げる教会の鐘の音が鳴った。それを聞いた先生は蒼白になり、黒板に「フランス万歳!」と大きく書いて「最後の授業」を終えた。

小説が書かれた時代背景
フランスとドイツの国境地域に位置するアルザス・ロレーヌ(フランス語: Alsace-Lorraine、ドイツ語: Elsass-Lothringen エルザス・ロートリンゲン)では古くからケルト人が住んでいた。ローマ帝国に支配された後は、歴史の中で幾度となく領土侵略が繰り返されたことにより、ゲルマン系のアルマン人とフランク人が相次いで侵入してきた。それにより北部ではドイツ語のフランク方言が、南部ではスイス・ドイツ語に近いアレマン語が長らくこの土地で話されるようになった。この地は、元来神聖ローマ帝国に属していたものの、帝国に野心を抱くフランスの侵略の標的となった。しかし神聖ローマ帝国の側では、アルザス・ロレーヌを帝国の領域から切り離してフランスに割譲する事によって、フランスの帝国への干渉を食い止めた(ヴェストファーレン条約を参照)。結局1736年に、アルザス・ロレーヌはフランスに編入された。その間に公用語としてフランス語を用いられたため、アルザス地方の言葉はフランス語の語彙が入ったアルザス語として形成されていった。

1871年に普仏戦争でフランスが敗れると、ベルフォールを除いたアルザスと、ロレーヌの東半分がプロイセン(ドイツ帝国)に割譲される、という複雑な経緯を辿る。普仏戦争に敗戦したフランスに反ドイツ感情が湧き起こったこの頃、毎週月曜日にパリで『月曜物語』の新聞連載が始まった。
ドイツ帝国統治下当時の住民の大多数はドイツ系のアルザス人だったため、フランス語にそれほどなじみがあったわけではなかった。ドイツ統一後もアルザス人は必ずしもドイツから完全な「ドイツ人」とは見なされていなかった節がある。しかし安全保障上の問題からエルザス・ロートリンゲンを必要としていたプロイセンが「統一ドイツ」というナショナリズムを利用して普仏戦争を勝ち抜いたという経緯もあり、後には自治憲法の制定を認めるなど、比較的穏やかな同化政策を取っていたと考えられている。しかしツァーベルン事件の発生後は中央政府および軍との関係が悪化し、自治憲法も停止された。戦間期と第二次世界大戦第一次世界大戦でドイツが敗北した後の1918年11月8日、同地域はアルザス=ロレーヌ共和国(fr)として独立した。アメリカのウィルソン大統領はこれを承認しようとしたが、フランスは拒絶した。11月19日にはフランスによって占領され、この地域は再びフランス領アルザス=ロレーヌとなった。第二次世界大戦時、ナチス・ドイツのフランス侵攻によって同地方は再びドイツ領エルザス=ロートリンゲンとなった。ナチス・ドイツの統治においても同化政策は一定程度踏襲された。

第二次大戦後のフランス化政策
第二次世界大戦後この地区には再びフランス化政策が敷かれたが、テロや独立運動が発生するなど反発が強く、間もなくフランス政府も方針を転換した。1999年のジョスパン改革により、初等教育からドイツ語・アルザス語の教育が認められている。イタリアの南チロル地方ほど明確なドイツ人地区あつかいではないが、バイリンガルを基本として民族的な独自性が尊重されている。ストラスブールにEU議会が設置されたのもこうした背景が大きい。
政治的には、普仏戦争で勝利したプロイセン王国がエルザス・ロートリンゲンでのドイツ式初等教育義務化を実施し、フランス語は外国語教育としてのみ導入されていた時代である。ただしもともと、アルザスにおけるフランス語は公的文書などのごく一部に使用されていたに過ぎず、フランス政府自身がアルザスにフランス語を強制しても定着の見込みはないと諦めていた、という意見もある。

小説の政治的側面
アルザスは以前からドイツ語圏の地域であり、そこに住む人々のほとんどがドイツ語方言のアルザス語を母語としていた。普仏戦争にも従軍したプロヴァンス(同地にはロマンス語系のプロヴァンス語がある)出身のフランス人である作者ドーデは、作中のアメル先生に「ドイツ人たちにこう言われるかもしれない。“君たちはフランス人だと言いはっていた。なのに君たちのことばを話すことも書くことも出来ないではないか”」(その後に、フランツや生徒だけの責任ではない、国語をきちんと指導しなかった我々大人の責任でもある、と反省の弁)と言わせている。

すなわち、アルザスの生徒達は(ドイツ語の一方言であるアルザス語が母語であるため、)国語であるフランス語を話すことも書くこともできず、わざわざそれを学校で習わなければならない状態であったのである。アメル先生は、アルザス語を母語とするアルザス人に対し、フランス語を「自分たちのことば」ないし「国語」として押しつける立場にあったものであり、本小説においてはこの点が隠蔽されていることとなる。

日本ではこの小説は1927年(昭和2年)に教科書の教材として採用された。戦後の一時期、『最後の授業』は教科書から消えたが、1952年(昭和27年)に再登場した。しかし、田中克彦の『ことばと国家』や蓮實重彦の『反=日本語論』などによる、「国語」イデオロギーによって言語的多様性を否定する側面を持つ政治的作品であるとの批判もあった。また、戦後のフランス政府は同地でのアルザス語・ドイツ語教育を容認しており、同作のフランス語純化思想はすでに過去のものとなっている。1985年(昭和60年)からは日本でも教科書に採用されていない。

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       アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅(2)・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・JTB旅物語主催2013/09/20~09/27・・・・・・・・

700px-Panorama_place_stanislas_nancy_2005-06-15スタニスラス広場
 ↑ ナンシー・スタニスラス広場のパノラマ
Nancy-place-stanislas-suedスタニスラス広場
 ↑ スタニスラス広場
o0480064010690730321世紀末のステンドグラス
 ↑ 世紀末のステンドグラス
無題ナンシー・世紀末のステンドグラス
 ↑ 世紀末のステンドグラス
ColA木組みの家
 ↑ 美しい「木組み」の家
1328967116ロレーヌ名物キッシュ
 ↑ ロレーヌ名物キッシュが昼食に出る。

     アールヌーヴォーの美術館のようなナンシー・・・・・・・・・・・木村草弥
     
第二日だが、初日は関空からフランクフルトに着いてEUに入域し、陸路バスでストラスブールに着いてホテルにチェックインしただけだから、今日が実質的に初日である。

先ず「天気」のことについて書いておく。
さすがに、こちらの気温は低い。朝の気温は10度くらいか。今日の予報は「晴ときどき雨」である。日中は最高気温も20度を超えるらしい。
実は、こちらに来る前に着るものの関係もあるので、九月はじめから毎日ネット上で「世界の天気」でストラスブールなどの気温をチェックていた。
八月下旬から九月はじめは、こちらも暑くて最高気温は30度を超えるような日があって、日本と変わらないのかと思っていたら、次第に気温は急に下がりはじめた。
おまけに半月ほどは雨ばかりで心配したが、今週に入ってから「晴」の予報が続くようになった。
予報によると、旅行中の一週間は「晴」の連続で、雨に遭う心配は無さそう。気温も二十度台の後半と、日中は結構暑いらしい。
朝晩の気温は低いから、着るものの選択に苦労しそう。

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 ↑ 最終日まで、行程で利用するバス。 運転手は大きな腹を突き出したフィリップ。

朝8時出発だから辛い。強行軍である。ホテルを出て約185㎞を二時間かけて、街全体がアールヌーヴォーの美術館のような古都ナンシーへ。

Wikpediaによると、ナンシーとは、こんなところである。 ↓

ナンシー(フランス語: Nancy、ドイツ語: Nanzig ナンツィヒ)はフランス北部、ロレーヌ地域圏の都市である。ムルト=エ=モゼル県の県庁所在地。近隣の都市としては、約45キロ北にメスが位置する。鉄鋼業で有名。

ナンシーのスタニスラス広場
896年、ナンシーの名はラテン語化されたNanceiacumとして記された。これはケルト語の人名をラテン語化したものとみなされている。
1073年、トゥール司教ピボンの特許状台帳においては、「ナンシーに捧げられたオルリー」(ラテン語でOdelrici advocati de Nanceio)と記されている。

歴史
ナンシーの誕生は、11世紀のロレーヌ公ゲラルト1世が建てた封建時代の城に関連する。その後彼の子孫によってロレーヌ公国の首都となり栄えた。シャンパーニュ伯継承戦争中の1218年、ロレーヌ公テオバルト1世に支配された。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって町は放火され徹底的に破壊された。その後再建され、新しい城によって拡張、防衛されるようになった。

18世紀、ロレーヌ公の地位にあったポーランド王スタニスワフ1世(スタニスラス)のもとで、街の景観が整えられた。現在も、広場の名前としてスタニスラスの名が残されている。スタニスラスが1766年に死去すると、ロレーヌ公国はフランス王国に併合された。

オーストリアの「女帝」マリア・テレジアの夫で、共同統治者 (Corregens) であった神聖ローマ皇帝フランツ1世・シュテファンはこの地の出身であり、スタニスワフ1世に譲位するまではロレーヌ公であった(ロレーヌ公国を放棄する代わりにトスカーナ大公となった) 。
普仏戦争後の1871年、フランクフルト条約によってストラスブール、メスとともにアルザスとモゼル県はドイツに併合された。ドイツ市民となることを拒んだアルザス人およびモゼル人の実業家や知識人たちが大勢ナンシーに移住してきた。ナンシーは新たな繁栄期と新たな文化の黄金時代を迎えた。15世紀頃から、ガラス工芸が盛んであったが、19世紀後半になると鉄鋼業が盛んとなり、新興の中産階級が台頭した。
1870年代から1900年代までの急激な人口増加で、ナンシーの都市化が無秩序に進行した。1894年に創設されたロレーヌ工芸会社はのちのナンシー派の集団で、エミール・ガレ、アントナン・ドーム、ルイ・マジョルール、ヴィクトル・プルーヴェ、ウジェーヌ・ヴァランたちがいた。

ナンシーはフランス第5の金融都市である。国内主要銀行の地方拠点がある。ナンシーにはムルト=エ=モゼル県商工会議所が置かれている。ナンシーはフランス北東部第一の医療都市で、大学付属病院が設置されている[3]。ナンシー市内および都市圏内には多くの私立クリニックがある。

ヴァンドゥーヴル=レ=ナンシーとの間の平野にあるナンシー=ブラボワ・テクノポールは、国内有数の規模を誇る。

ナンシー
 ↑ 日本語版のナンシーのガイド・パンフレット二種 (左は地図、拡げると新聞紙大になる)

n12ナンシーのトラム
ナンシーのトラム

02ナンシー派美術館
↑ ナンシー派美術館
ナンシー派美術館
 ナンシー派美術館のパンフレット

ナンシー派美術館(Musée de l'École de Nancy)は、フランスのナンシーにある美術館である。アール・ヌーヴォーの芸術家たちの作品で知られている。

エミール・ガレのパトロンであったウジェーヌ・コルバンの私邸を改装した美術館で1964年に開館。ナンシー派の芸術家たちの作品を多く所蔵している。庭園も整備されている。

コレクション
エミール・ガレのデザインしたベッドやランプ、ジャック・グリュベールのステンドグラス、ルイ・マジョレル、ウジェーヌ・ヴァランの家具などを所蔵。作品を展示しているというより、工芸品、陶器、ガラス製品、織物等が日常の生活空間の中に作品が配置されている。
01エミール・ガレ
 ↑ エミール・ガレ
04ナンシー派美術館内部②
05ナンシー派美術館内部
 ↑ ナンシー派美術館内部の展示
10美術館の広い庭にある唐傘のような屋根の水族館
↑ 美術館の広い庭にある唐傘のような屋根の水族館

     ストラスブール旧市街の散策・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

昼食後、来た道を引き返してストラブールへ。
800px-Strasbourg_PanoNE2ストラスブール
 ↑ ストラスブールの街 俯瞰
450px-Absolute_cathedrale_Strasbourg_04ストラスブール大聖堂
 ↑ ノートルダム・ド・ストラスブール大聖堂
800px-Strasbourg_Dom_Detail_9ストラスブール大聖堂詳細
 ↑ 聖堂内部の彫刻
800px-Absolute_cathedrale_Strasbourg_03後陣
 ↑ 聖堂外部の壁を支える「後陣」─バットレスという

この教会については私のブログ──巡礼の旅──(21)「ノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂」に詳しく書いておいたので参照されたい。

800px-Strasbourg-6-8_GrandRueストラスブール木組みの家
 ↑ 木組みの家
800px-Strasbourg,_Quai_des_Bateliersストラスブール運河沿いの木組みの家
 「プチ・フランス地区」運河沿いの木組みの家
447px-Strasbourg-27,_quai_des_Bateliers_(1)ストラスブール木組みの家
 ↑ 木組みの家

「木組みの家」は、ここだけではなく、ブルゴーニュ一帯で広く見られるが、フランス北東部のもので、先に挙げた「グリムの森からハンザの道へ」の記事にも書いたように、ドイツの「メルヘン街道」のマールブルクやハン・ミュンデンなどにも同様の木組みの家並が見られる。
これらから言えることは、これらの木組みの家の特徴は、この地域特有のものである。フランスの他の地域では見られない。
アルザス、ブルゴーニュなどの地域は、昔はゲルマンに属していたので、建物の作り方に、それらが出ている、と私は思うのである。
その理由については、先に書いた「アルザス」「アルザス・ロレーヌ」地域圏のところを参照されたい。

プチ・フランス地区
パリから高速鉄道で2時間。ドイツ国境にあるストラスブールには、「La Petite France」という観光名所があり、川辺の家並みが人気である。
でも、なぜ「小さなフランス」がフランスの都市にあるのか。

それは、この地が何度も国を替えたことに原因がある。
もともとケルト人の町だったが、後にゲルマン系のアレマンニア族が侵入。
ゲルマン系つまりドイツ人たちの町となり、さらにその後ゲルマン系のフランク王国に編入される。
次はドイツの原型となる神聖ローマ帝国。
このころ(16世紀はじめ)に、イタリア戦争から帰ってきたフランス兵が休息のために町に立ち寄る。

その際、この町で性病が大流行。
「あのフランス野郎どものせいだ」として、性病患者を隔離・収容した病院を「小フランス(Zum Franzosel)」と呼んだ。
その後、水辺でじめじめして不衛生、皮なめし業や漁師の住むこのエリアを蔑んで「小フランス」と呼び続けたそうである。

それから100年あまり、ストラスブールはフランスに併合される。
言葉も服装も習慣も違う国に併合された。
フランス語が定着するのはずっと後のこと。長い時間をかけて小フランスもフランス語で「La Petite France(プチット・フランス)」と呼ばれるようになった。
(ガイドブックなどでも「プチ・フランス」と書かれているが、正確には「プチット・フランス」というのが正しい。Franceという単語は女性名詞なのでPetiteとなり「プチット」と発音される)


観光地化されるのは20世紀になってからで、名前も家並みもかわいいエリアとなつたという次第。

フランク族はゲルマン系なのに、フランス語はドイツ語と違うのはなぜ?
「フランス」の元となるフランク族はゲルマン系(ドイツ系)だが、フランス語はドイツ語ではない。
なぜか。
フランス人の中で多数派の起源はケルト人(ガリア人)である。
彼らは独自の言語を持っていたが、ローマ帝国に支配されてからは、人々はラテン語を使うようになる。
そして、フランク族の侵入で、ラテン語はゲルマン語の影響を受けて変化していく。
しかし、それはガリア語がローマ語に変わるほどの変化ではなく、あくまでラテン語をベースに、オリジナルの言語、フランス語を作り上げていく。
13世紀頃から標準語としてはパリ周辺の方言フランシア語が定着するが、近年までゲルマン語の影響の少ない南部方言(オック語)との差は相当だ。
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「プチット・フランス地区」の美しい運河沿いの風景を見たあと、トラムが頻繁に行き交う通りで解散して夕食は近くのレストランで摂ることになり、一旦解散。
私はT氏を誘って「ストラスブールのトラム」に乗ってみた。
乗車券は自動発売機なのだが操作の要領がわからず、うろうろしていたら、若い女の子が操作してくれて「一区間」券を買ってくれた。 ↓
トラム
写真が、その券だが、乗るときには、日付と時刻を「刻印」しなければならないが、これもプラットホームに刻印機があり、これも教えてもらって乗車。
切符の「ALLER SIMPLE」という部分が「一区間」を表しているようだ。「ALLER」は「往」の意味である。
切符の「日付と時刻の打刻」の部分を赤ペンで囲っておいた。日、月、年、時刻が打刻されている。
券面の説明を読むと、打刻したら「一時間以内が有効」「復」は含んでいない、と明記してある。
勤め帰りの人たちで一杯である。
二駅乗って下車。反対側のホームから帰りに乗ろうとしたが、教えてもらった操作が出来ないので、二駅なので歩いて戻り、レストランで夕食。

夕食のあと、私たちのバスに拾ってもらって、今夜もストラスブールの同じホテルに連泊である。
 
トラムの写真は、先に載せたが、ストラスブール駅の地下ホームの写真も撮ったのだが、暗くて良い写真ではないので割愛する。
T氏のくれた写真も画像が暗くて不採用にさせてもらった。ご了承を。

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       アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅(3)・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・JTB旅物語主催2013/09/20~09/27・・・・・・・・

フランス美しい村
↑ 『フランスの美しき村』新潮社刊2002年初版 2009/11/15五刷
この本には、フランス全土の「美しき村」のことが書かれているので、個々の村についてはムラがあり、詳しくないところがあるが仕方がない。

いよいよ第三日である。 8:30頃、ホテル出発。
ストラスブールを発って、「アルザス・ワイン街道」と呼ばれる道を走る。
ついでに書いておくと、他にも「グラン・クリュ街道」「ブルゴーニュ・ロマネスク街道」「ボジョレー・ワイン街道」などと続くが、それが出てくる都度説明する。

街中は別として、田園地帯にでると「霧」である。
日中と朝晩の気温差が大きいので朝霧が発生するのである。 進むうちに、じきに晴れる。
毎日記すことはしないが、行程中ずっと朝霧だったことを書いておく。 ただし霧の出た日は日中は「晴れる」というのが天気の鉄則である。これは和洋を問わない。


      フランスの美しき村「リクヴィル」・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

街道沿いにはぶどう畑がつづき、木組みの家が点在する可愛らしい村を縫ってゆく。
約67㎞、一時間ほど走ってリクヴィルに着く。アルザス・ワイン産地の中心だが、小さい村。 Riquewihr と書く。
ここについてはネット上でも、いくつも紀行文が綺麗な写真と共に載っている。そのうちの一つ。→ 上村章文のブログなど参照されよ。

20111022155449c4fリクヴィル
 ↑ ぶどう畑に囲まれた土色屋根のリクヴィル
8D2T8892n1リクヴィル
8D2T8984n1城壁の門をくぐって村に入る
 ↑ 城壁の門をくぐって村に入る
8D2T8982n1昔ながらの木組みの家並み
 ↑ 昔ながらの木組みの家並み
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 ↑ リクヴィル村役場
DSC03399リク①
DSC03408リク②
DSC03424リク③
DSC03407クグロフ
 ↑ 昔ながらの菓子クグロフや塩っからいプレッツェルなども並んでいる。
lrg_12211529看板①
lrg_12211528看板②
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 ↑ ワイン試飲のカーヴの店
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 ↑ 周囲のなだらかな斜面に広がるぶどう畑

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 ↑ 昼食に出たタルト・フランベ(アルザス風ピザ)

       オベルネの新酒ワイン収穫祭・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

lrg_27049192オベルネ標識
 ↑オベルネ 道路標識
オベルネ
 ↑ 拡げると、オベルネのイラスト・ガイド地図
img_195621_25216606_0オベルネ
 ↑ オベルネ 
20120726234710_455599360_2878_9オベルネ
 ↑ オベルネ
fete_automne1オベルネ
 ↑ オベルネ収穫祭
fete_automne9オベルネ
 ↑ オベルネ収穫祭
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 ↑ オベルネ収穫祭
lrg_10720421オベルネ
 ↑ オベルネ収穫祭
lrg_27049392オベルネ
 ↑ オベルネ収穫祭
lrg_27049393オベルネ収穫祭
 ↑ オベルネ収穫祭
lrg_27049429オベルネ収穫祭
 ↑ オベルネ収穫祭

約44㎞は走ってオベルネへ。
写真にも出した「収穫祭」だが、今までは例年十月の第三の何曜日かに行なっていたのだが、その頃には気温も低くて人が集まらないので、
今年から九月二十二日にしたとかで、小さな村が駐車場にも溢れかえるような人混みである。
行列を見る日向は暑くて汗だくである。立ちんぼうで、とても疲れた。

オベルネとは、こういうところである。 ↓

オベルネ (フランス語:Obernai、ドイツ語:Oberehnheim)は、フランス、アルザス地域圏、バ=ラン県のコミューン。

由来
最古に記録されたオベルネの名称はEhinhaimまたはEhenheimである。これはゲルマン語源のober-に由来する。heimとは村、ehnとはライン川の支流の名称である。Obernaiのつづりは、古いアルザス語がフランス語化したものであるらしい。

歴史
オベルネ一帯は、7世紀にアルザスの公爵の領地だった。またオベルネは、アルザス公爵エティション=アダルリックの娘でアルザスの守護聖人である聖オディールの生誕地である。生まれつき盲目であったオディールは父親に疎んじられ、ブルゴーニュの修道院で育てられ洗礼を受けた。このとき奇跡が起こり、オディールは視力を取り戻したと伝えられている。エティション=アダルリックは山を提供し、そこにホーエンベルク修道院を建て、オディールは初代修道院長となった。オベルネから15km離れたところにあるこの修道院は、アルザスの巡礼地となっている。

オベルネが最初にその名を表すのは778年である。それはホーエンベルクとニーダーミュンスターの両修道院に依存していた。

ホーエンシュタウフェン家が11世紀後半にオベルネ城を建築している。12世紀のオベルネの繁栄の時代は、いまもコミューンの風景の中に名残をとどめている。1240年代、オベルネは都市に昇格し、1280年代に帝国都市となった。市民が聖母マリアに捧げた教会と鐘楼を建てたのもこの時代である。1354年には十都市同盟に加盟した。

帝国都市であったオベルネは神聖ローマ皇帝の直接支配下にあり、都市が皇帝に守られるのと引き換えに皇帝を支持し資金と兵士を供給していた。帝国の中では小さな存在であるオベルネは、行政権を持っていた。独自に税を徴収し、司法権を行使し、刑場も構えていた。オベルネには公共の秩序を保つための法律があり、14世紀後半に記された羊皮紙には、市が犯罪者から罰金を徴収していたことが記されている。オベルネには13世紀からハンセン氏病患者のコロニーがあり、14世紀には病院がつくられた。14世紀には公衆浴場が市内に三箇所あった。中世後期のオベルネは、堀で囲まれ、38の塔と12の門を備えた二重の城壁に囲まれていた。

15世紀から16世紀がオベルネの絶頂期であった。1562年、皇帝フェルディナント1世がオベルネを訪問している。

17世紀の三十年戦争でオベルネは荒廃し、スウェーデン軍、帝国軍によって占領された。1679年、ナイメーヘンの和約により、オベルネはフランス王国に併合され、神聖ローマ帝国時代にあった政治的自治が失われた。

普仏戦争後、オベルネを含むアルザスがドイツ帝国に併合され、1918年まで支配された。

    映画「ハウルの動く城」のモデル・小さな運河の街コルマール・・・・・・・・・・・木村草弥

この後は約48㎞移動して、映画「ハウルの動く城」のモデルになったとされる小さな運河の街コルマールを散策する。
この日は日曜日で、あいにくほとんどの店は開いておらず、「小ベニス」と呼ばれる運河の辺りを散策するのみである。日差しが強く暑い。
コルマール
 ↑ 拡げると、コルマールの地図のパンフレット
アルザス・ワイン
 ↑ 「アルザス・ワイン・ルート」パンフレット─拡げるとコルマールを中心にワイン街道の地図になっている。
    この表記を見ると、コルマール辺りは「アルザス」と呼ばれる地域なのだと、よく判る。地名の発音からしてドイツ語風である。
1463425473_3a1cf8c21c_zコルマール運河
↑ コルマール運河
305736088_7890608640_zコルマール木組みの家。建物の上部が出っ張っているのは昔の税金対策の名残
↑ コルマール木組みの家。建物の上部が出っ張っているのは昔の税金対策の名残とか
1622809735_7a7390be24_zコルマール 小ヴェニスと呼ばれるエリア
 ↑ 小ヴェニスと呼ばれるエリア
4845827962_1fcc19ed92_zドミニカン教会の広場
 ↑ ドミニカン教会の広場
112793307_70480ab729_z看板①
 ↑ 何とも可愛らしい看板
5328047526_0474f9d286_z酸っぱいキャベツの漬物シュークルート(サワークラウト)
 ↑ 酸っぱいキャベツの漬物シュークルート(サワークラウト)

すごいボリュームがあり、これを食べたのが悪かったのか、翌朝、激しい下痢に見舞われ、ワインや肉をパスするなど、ひどいめに遭う。
同行のO氏から下痢止め薬をもらうなどして、やり過ごす。O氏には感謝したい。
虚弱体質の本性が突発したのである。
なお後日談になるが、先にかいたT氏も帰国便の飛行機の中で激しい下痢に襲われたという。
私だけでなく、みな疲れが胃腸に来るのである。


コルマールのことをWikipediaから引いておく。

コルマール(フランス語:Colmar, 標準ドイツ語・アレマン語(アルザス語):Kolmar(コルマールまたはコルマー))は、フランス東部、アルザス地域圏の都市である。

オー=ラン県の県庁所在地。面積は 66,57km²、人口は1999年現在、約6万5千人。隣接都市を併せた人口は約8万6千人、都市圏としては約11万6千人の人口を有する。標高は197m。

主な産業は電気機器 電機部品製造 製薬業。

コルマールはかつての神聖ローマ帝国自由都市であり、歴史ある街である。
コルマールに触れた最古の文献は823年のものであり、そこではこの街はコルンバリウム(Columbarium, ラテン語で鳩小屋の意)として言及される。13世紀初頭には街に城壁が築かれ、1226年にはコルマールに帝国自由都市の資格が与えられた。

1354年にアルザス10都市が結んだ「十都市同盟」にも、コルマールは参加している。この同盟の目的は、帝国都市としての権益と自由を擁護することにあった。17世紀後半、アルザス地方がドイツ圏からフランス王国に割譲されるとともに、ドイツ文化圏のコルマールはフランス領アルザスの一都市となった。
フランス革命後、1791年の旧地方区分廃止と県の設置に伴い、コルマールはオー=ラン県の県庁所在地となった。普仏戦争でフランスがプロイセンに敗北した後、1871年アルザスはドイツ帝国に割譲され、コルマールはドイツ領エルザス=ロートリンゲン州の一部となった。
1918年にフランスは再びコルマールを自国領に編入した。第二次世界大戦で1941年フランスがドイツに降伏すると、コルマールはバーデン=アルザス大管区に編入された。同地はドイツ国土の一部とされ、1942年にはドイツ国防軍がコルマールに進駐した。コルマールに連合軍が進駐したのは1945年2月である。(コルマールの戦い)

観光
コルマールの旧市街には中世からルネサンスの街並みがよく保存されている。またウンターリンデン美術館はドイツ中世絵画のマティアス・グリューネヴァルトの『イーゼンハイムの祭壇画』をはじめとする中世絵画および工芸品を展示する。 また自由の女神像などを製作した彫刻家フレデリク・バルトルディはコルマールの出身であり、その生家は現在記念館となっている。

日本とのかかわり
郊外には多数の日本企業が進出しており、そのため転勤による日本人住民も比較的多い。日本人児童は現地の学校に編入するのが主であるが、学校側も昔よりは受け入れ慣れしてきているほか、教育面でのサポートとしてコルマール補習校があり、週一で日本の教育を受けることも出来る。また、郊外の村キンツハイム(Kintzheim)には2005年(平成17年)まで、在外教育施設であるアルザス成城学園(中等部・高等部)があった。
英国オックスフォード大学院留学中であった浩宮徳仁親王と、ハーバード大学在学中であった小和田雅子が、1984年(昭和59年)9月に会っていたと一部マスコミ記事で報じられたことがある土地でもある。但しコルマールでの二人の出会いは公式には認められていない。

5550003687_803f13fc9b_zベッコフという郷土料理
 ↑ 「ベッコフ」という郷土料理   ↓ その由来の物語
かつてアルザスの主婦たちは毎週月曜日は洗濯の日と決まっていたそうな。
そして手仕事の洗濯は、やっぱり一日掛りの大変な仕事であったそうな。
朝から夕方まで一日洗濯から手の離せない主婦たちは、前日の日曜の夜に牛や豚や羊やらの肉の切れ端を土地の白ワインと一緒にベッコフ鍋に漬け込んでおいて、翌朝に野菜をその鍋に何でも入れて洗濯に向かう途中、なじみのパン屋へ預けていったそうな。
パン屋は朝早くからパンを焼き始め昼過ぎには仕事は終わっていたのだろう。預かったベッコフ鍋にあまり生地で隙間を押さえまだまだ十分に熱い仕事の終わった石窯に入れておいてあげる。

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18:30頃、今夜宿泊の「ノボテル・コルマール」に入る。ここもAccorHotelチェーンの客室66の三ツ星ホテル。
市内中心部より車で約5分、コルマール空港近くに位置するホテル。低層の建物で紫の「NOVOTEL」のロゴが目印。
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        アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅(4)・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・JTB旅物語主催2013/09/20~09/27・・・・・・・・

lys0621ブルゴーニュ太公宮殿
 ↑ ブルゴーニュ大公宮殿
Dijon-egli-4サン・ベニーニュ大聖堂
 ↑ サン・ベニーニュ・ド・ディジョン大聖堂
01488099008ノートルダム・ド・ディジョン教会
 ↑ ノートルダム・ド・ディジョン教会
lrg_10961369ノートルダム・ド・ディジョン教会 ふくろう像
 ↑ ノートルダム・ド・ディジョン教会 ふくろう像
450px-Dijon_coin_du_miroir_054ディジョン中世の家
 ↑ ディジョン─中世の家

          かつてのブルゴーニュ公国の首都ディジョン観光・・・・・・・・・・・・・木村草弥

いよいよ第四日目になった。
コルマールを朝発って259㎞約三時間半走って、かつてのブルゴーニュ公国の首都ディジョンに着く。
旅はいつでも「移動」に大半の時間がかかるのが難である。

ディジョン(Dijon)は、フランス中部に位置する都市。ブルゴーニュ地域圏の首府、コート=ドール県の県庁所在地である。
かつてはブルゴーニュ公国の首都であった。マスタードの生産地として知られる。

歴史
新石器時代から人が定住していた。
ディジョンは、リヨン=マインツ間の通商路にローマ人によって建てられた都市Castrum Divionenseが始まりである。
1世紀の終わりには、近郊のシャロン=シュル=ソーヌからラングルの間を結ぶローマ街道が通っていた。2世紀には、市街地が既に繁栄していた。
3世紀の民族移動時代には、蛮族の侵入を受けた。聖ベニグヌス(フランス語名ベニーニュ)がこの地にキリスト教を伝え、殉教した。
メロヴィング朝時代に、ディジョンを意味するDivioという地名が遅れて歴史に登場した。
5世紀より、ラングル司教座がディジョンに置かれ、聖ベニーニュを埋葬した修道院が崇敬を受けた。
6世紀、トゥールのグレゴリウスは、自著Histoire des Francs ( Historia Francorum )の中で、ディジョンを『堅固な城壁のあるカストゥルム(Castrum)』として記述を残している。10世紀のイタリア人聖職者グリエルモ・ヴォルピアーノは、イタリアやフランスを巡礼してまわったが、ブルゴーニュでも他と等しく逗留し、990年には当時重要な巡礼地であった、ディジョンのサン=ベニーニュ修道院の聖職者となった。

1031年、ブルゴーニュ公ロベール1世が公国の首都をディジョンとした。

1137年、ディジョン中心部が大火で灰と化した。歴代の公爵は、城壁を以前の物よりさらに大きい物へと再建した。この城壁は18世紀まで、旧市街を守っていた。
12世紀終わりから13世紀にかけ、サント=シャペル、サンテスプリ病院、ノートルダム教会といった貴重な建物で市は飾られた。

1363年から1477年まで続いたヴァロワ家のブルゴーニュ公時代が、経済的に豊かで芸術・科学や学問が盛んとなった、最も繁栄した時代であった。
公国は、現在のオランダにまで領域が及んでいた。フィリップ豪胆公は、一族の墓所としてシャンモル修道院を建設し、数多くの芸術作品で飾り立てた。
フィリップ善良公は1432年にオテル・デュカル(公爵宮殿)を再建した。宮殿内の礼拝堂では、金羊毛騎士団の会合が開かれた。

シャルル公は内政を顧みなかった。彼はフランス王との争いに敗れ、1477年に死んだ。ルイ11世はブルゴーニュ公国を併合し、自分用の宮殿をディジョンに建設した。

1513年9月、同年6月のノヴァラの戦いで大勢のスイス兵と戦って敗退した、司令官ルイ・ド・ラ・トレモイユは、支払いの約束された40万エキュを持って立ち去ることができなくなった。
これらの金が思いがけなく引き渡され、ノートルダム・ド・ディジョン教会に保存されている『黒い聖母』へのとりなしとされた。

ブルゴーニュ議会がボーヌからディジョンへ移されると、官位を持つ貴族らがこぞってディジョンに邸宅を建てた。
対抗改革の後、ディジョンには新たな教会、礼拝堂、修道院が建てられた。
フランス王(アンリ4世だと言われている)が、ディジョンを『間抜けどもの都市』(ville aux cent clochers)と呼んだという。
市の経済活動においては、ブドウ栽培の開発がとりわけ無視できない。18世紀は、ディジョンの繁栄の新時代であった。1731年には司教座が置かれた。

近郊のル・クルーゾで採掘される石炭と鉄の運搬のため、ブルゴーニュ運河が1832年に開通し、ディジョンは重要な経済都市となった。1851年、パリ=ディジョン間の鉄道が整備された。この結果、ディジョンの経済成長が急速に進んだ。

1870年10月30日、普仏戦争にフランス第二帝政が敗れて新たに臨時政府が樹立される中、プロイセン軍がディジョンを占領した。11月26日、ジュゼッペ・ガリバルディ率いる共和派義勇軍(ヴォージュ軍)と、フランス正規軍のシャルル・ブルバキ将軍が攻勢を開始した。しかしプロイセン軍の妨害でブルバキ軍は合流に失敗してスイス国境に追いやられ、ヴォージュ軍は一旦オータンに引き返してプロイセン軍と戦った。プロイセン軍はオータンを攻めあぐねてディジョンに戻り、やがて別の攻撃を行う必要から一時的にディジョンからも後退した。

1871年1月21日、戦力を補充したヴォージュ軍は再度の進軍に乗り出し、これにプロイセン軍もディジョン西方から防衛軍を引き返させた。戦いでヴォージュ軍はリッチョッティ・ガリバルディ隊が第61ポメラニア連隊の連隊旗を奪取する戦功を挙げ、1871年1月25日にプロイセン軍はディジョン確保を諦めて後方に下がった。入城したガリバルディとヴォージュ軍は共和派の住民から歓迎されたが、反対に保守派の住民からは外人部隊としてプロイセン同様に敵視された。臨時政府がパリ防衛の為に他の拠点を捨て駒にすると、ヴォージュ軍もディジョンから撤収を余儀なくされ、プロイセン軍が二度目のディジョン占領に成功した。

普仏戦争で自国の防衛設備がいかに旧態依然としたものか思い知らされたフランス政府は、ドイツ国境に近いディジョンの防衛設備を見直し、増強した。市内の各所に小要塞、兵舎、武器庫が造営された。ルイ11世の建てた宮殿は、この時の都市改造によって破壊された(Place fortifiée de Dijon)。

1940年から1945年にかけナチス・ドイツに占領され、フランス・イギリス・アメリカの合同軍によって解放された。

戦後、1945年から1967年まで市長を務めたフェリックス・キールの元で、ディジョンは都市化が進んで都市圏と市街圏が拡大した。
ディジョン
 ↑ ディジョンの地図 (拡げると新聞紙大になる)

見どころ
サン=ベニーニュ・ド・ディジョン大聖堂

ノートルダム・ド・ディジョン教会の黒い聖母    ↓
800px-Notre-Dame_Dijon_Vierge_noire黒い聖母

サクレ・クール・ド・ディジョン教会
数多くの戦禍に巻き込まれながら、かつての繁栄の時代を物語る建物が現存する。特に中心部には、12世紀から15世紀にかけ建てられた半木造の建物が残っている。
ブルゴーニュ公爵宮殿 - 1365年完成の、ルネサンス様式の城。
ルイ14世時代、宮廷の主席建築家ジュール・アルドゥアン=マンサールによってゴシック様式を基礎に再建され、1680年完成した。
現在はディジョン市役所とディジョン美術館が入っている。
ディジョン美術館に収蔵されている作品のほとんどが、歴代の公国の王によるコレクションで、質においてはルーブルにも匹敵すると言われる。
ただし、我々は限られた時間のツアーなので、美術館は詳しくは見なかったので、悪しからず。

サン=ベニーニュ・ド・ディジョン大聖堂 - 通称ディジョン大聖堂。13世紀完成。ローマ時代の納骨堂を含む、ゴシック様式の大聖堂。
元々は、サン=ベニーニュ修道院付属教会から発展したものである。2002年からディジョン大司教座が置かれている。
サン=フィリベール・ド・ディジョン教会 - ディジョン大聖堂に近接する。ゴシック様式。
ノートルダム・ド・ディジョン教会 - 13世紀完成。ゴシック様式。6世紀から7世紀の作とされる、黒い聖母像がある。
教会内礼拝堂には、ラ・シュエット(La Chouette、フクロウ)と呼ばれる彫刻がある。これは幸運をもたらすお守りとみなされ、願をかける人々が左手で触っていく。
現在のフクロウ像は複製品で、原型のフクロウ像は2001年1月に何者かによって壊された。以来、像の周りを監視カメラが作動している。
シャルトルーズ・ド・シャンモル修道院 - シトー会派。ブルゴーニュ公家の菩提寺。フランドル、ネーデルラント出身芸術家の作品で飾られている。
サクレ・クール・ド・ディジョン教会 - 1938年完成。ネオ・ビザンティン建築
サンテチエンヌ・ド・ディジョン教会 - 古代のカストゥルム時代の信仰の地であった。かつては修道院に付属していた。教会は1731年完成。フランス革命後に廃止され、現在は市の経済局と、フランソワ・リュド美術館が入っている。
サクレ・ド・ディジョン美術館

教育
ブルゴーニュ大学 - 26,700人の学生が学ぶ。

食品
ディジョンは美食の都として知られる。エスカルゴ(カタツムリの料理)、ブルゴーニュ産トリュフ、パン・デピス、ブフ・ブルギニョン(牛肉のワイン煮)、クレーム・ド・カシスの原料となる黒スグリなどが、ディジョンの味覚の代表である。

R0012605マスタード 老舗
 ↑ リヨン名産・マスタード─老舗MAILLEの品
b0043980_148542ディジョン、マスタード老舗
 ↑ マスタード老舗─MAILLE─リベルテ通、百貨店ラファイエットの筋向かいにある。
   凱旋門とノートルダム教会を結ぶ目貫きの通りに面していて、日本人観光客が群がって買っている。
   五種類ほどの小瓶をセットにしたものが手頃な値段なので「おみやげ」に適しているからである。
 
マスタード
ディジョンはマスタードで有名だが、現在ではマスタードの種のほとんどは輸入されている。ディジョン・マスタード(moutarde de Dijon)と呼ばれる伝統的なマスタードは強い風味を持っている。ディジョンでは変わったフレーバーのマスタードも作っており、陶器のポットに入れて売られていることが多い。アメリカなどでも「ディジョン・マスタード」という名前の商品は購入できるが、ディジョンで作られた本物ではない。本物を手に入れたかったら、瓶に入ったフランスから輸入されたものを選ぶ必要があるが、変わったフレーバーのものをフランス以外で手に入れることは難しい。

地理
ブドウ栽培地帯の中にあり、グラン・クリュ道途上にある。パリの南東300km、ジュネーヴの北西200km、リヨンの北180kmの地点にある。南は80km離れたボーヌまでグラン・クリュ道が続く、ブドウ畑で覆われた一帯である。西は標高500mほどの石灰質の高原となっており、無数の谷や窪地がある。東は、ソーヌ川平野の発端であることがはっきりとわかる、標高240mほどの高原である。

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 ↑ デイジョン・トラム(ネット上から借用。借用に感謝します)

page_escargo6_1エスカルゴ・ブルゴーニュ風

 ↑ この日の昼食に「エスカルゴ・ブルゴーニュ風」が出る。 美味しかった。
かつてはブドウの葉につく害虫だったが、食べたら美味なので飼って当地名産の食材としたのである。ガーリックとバターで味付け。 

b0144347_21593332グラン・クリュ街道
 ↑ グラン・クリュ街道沿いのぶどう畑
6105947490_910f2b8f7aグラン・クリュ街道標識
 ↑ グラン・クリュ街道標識

     グラン・クリュ街道のぶどう畑の丘陵「コート・ドール」をドライブ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「コート・ドール」とは、ドール=黄金の、丘の意味である。
見出しの「クリュ」Cru とは「ぶどう生産地」「ワイン生産地」の意味で、「グラン・クリュ」=grand cru とは「特産地」ということになる。

途中にはワインのシャトー(醸造所)の案内標識が見られる。
移動途中なので 銘酒「ロマネ・コンティ」の畑を見に行く
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 ↑ 石垣に囲まれた「ロマネ・コンティ」の畑
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「ロマネ・コンティ」は一本数十万円もするものだから、手が出ないので、せめて「ぶどう畑」だけでも見ようというものである。
「ロマネ・コンティ」は年間6000本とか8000本しか瓶詰めしないと言い、それだけ厳選されているので超高価になるのであった。
れわれ以外にも観光バスやタクシーで畑を見にくる人が多いのには、あきれかえるばかりである。タクシーで乗り付けた中国人の数人がいた。
せめてネット上からワイン瓶の画像を出しておく。 ↓

romane1ロマネ・コンティ
DSCF1220_convert_20090223095405ロマネ・コンティ

夕方はやく、今夜宿泊の「メルキュールホテル ボーヌ サントル」MERCURE HOTEL BEAUNE CENTRE に入る。
ここは部屋数107のホテル。
オスピス・ド・ボーヌから歩いて5分位。カルフールの横にあり、とても便利な立地。ここには連泊する。 ↓
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Photos de Mercure Beaune Centre - Images pour Hôtel

夕食はブルゴーニュ名物の「ブフ・ブルギニョン」─牛肉の赤ワイン煮。「ブフ」とはフランス語で牛肉の意味である。 ↓
ff5603fdブフ・ブルギニョン
 
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       アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅(5)・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・JTB旅物語主催2013/09/20~09/27・・・・・・・・

第五日である。
今朝も早い出発である。ホテルを出て約119㎞二時間走ってヴェズレーに着く。
ヴェズレー(Vézelay)はフランス中部のブルゴーニュ地方、ヨンヌ県の古都である。

丘の上にあり、マグダラのマリアの遺骸(頭蓋骨)を移送したと主張するサント=マドレーヌ大聖堂などがある。
「ヴェズレーの教会と丘」という名で1979年にユネスコの世界遺産に登録されている。中世自由都市のひとつ。
この地で聖ベルナールが第二次十字軍を提唱した。ロマン・ロラン終焉の地でもある。

町の通りに埋め込まれている帆立貝の文様は、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの道しるべである。道はここから遠く、ピレネー山脈を越えてスペインへと続く。
ヴェズレーから国境を越え、イベリア半島北西部に続く巡礼道である。
この道も「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」として世界遺産に登録されている。
私のブログで──巡礼の旅──(19)の記事を、まるごと引いておく。  ↓

20121206131023tpBAヴェズレーの丘と教会
 ↑ ヴェズレーの丘と教会
vezelay30ヴェズレー サント・マドレーヌ聖堂
↑ ヴェズレーの丘 サント・マドレーヌ聖堂
vezelay04サント・マドレーヌ聖堂ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
 ↑ ナルテックスの「聖霊降臨」1125年頃
vezelay07柱頭彫刻①
 ↑ 柱頭彫刻①

──巡礼の旅──(19)

     ヴェズレー「サント・マドレーヌ聖堂」・・・・・・・・・・・木村草弥

聖マドレーヌというのは「マグダラのマリア」のことである。
かつては娼婦であり、キリストの教えにより悔悛し、復活したキリストを最初に見た、という彼女の遺骨を納めているという。真偽のほどは置いておく。
人々がそれを信じたという事実が肝要なことなのである。
ここはスペイン西北端サンチアゴ・デ・コンポステーラへ続く大巡礼路の出発点のひとつであり、長い参道が修道院まで続く。
1146年には聖ベルナルドゥスが第二回十字軍を説いた場所でもある。西正面の外観は十九世紀の作なので大したものではない。

サント=マドレーヌ大聖堂 (Basilique Sainte-Madelaine) は、フランスの町ヴェズレーの中心的な丘の上にあるバシリカ式教会堂。
この教会と丘は、1979年にユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ヴェズレーの教会と丘」)。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の始点のひとつという歴史的重要性もさることながら、大聖堂のティンパヌムはロマネスク彫刻の傑作として知られている。

Wikipediaに載る記事を引いておく。 ↓
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861年にヴェズレーの丘の上にベネディクト会士たちが建立した。
その際に、修道士の一人がマグダラのマリア(サント=マドレーヌ)の聖遺物を持ち帰るためにプロヴァンス地方のサン=マクシマンに派遣された。

878年には、この初期カロリング様式の教会は、ローマ教皇ヨハネス8世によって、現存する地下納骨堂ともどもマグダラのマリアに捧げられた。
ジョフロワ修道院長 (l'abbé Geoffroy) はマグダラのマリアの聖遺物を公開し、それが様々な奇跡を起こしたとされる。
これによって、巡礼者が押し寄せ、ひいてはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路に組み込まれることになったのである。

こうした評価は村を都市へと発展させる原動力となった。
巡礼者たちは引きもきらず、その中にはブルゴーニュ公ユーグ2世(1084年)や、イングランド王リチャード1世(1190年に第3回十字軍遠征に先立って)、フランス王ルイ9世(1248年)なども含まれることとなる。

アルトー修道院長 (l'abbé Artaud) は、1096年から1104年に内陣も翼廊も新築した。
ただし、この新築にかかる費用の負担に反発した住民たちが暴動を起こし(1106年)、この時にアルトーは殺された。
なお、この時点では身廊はカロリング様式のままだったが、1120年7月25日に1127人の犠牲者を出した大火災に見舞われたことで、身廊も建て直された(1138年に完成)。
なお、今に残る正面扉上の美しいティンパヌムが彫られたのもこの頃のことである(1125年 - 1130年)。
1146年の復活祭の日(3月31日)に、クレルヴォーのベルナルドゥスは、丘の北斜面にて第二次十字軍を派遣すべきであると説いた。また、1166年にはカンタベリー大司教トマス・ベケットが、この教会で、イングランド王ヘンリー2世の破門を宣告した。
教会の人気は、1279年にヴェズレーへ持ち去られたはずの聖遺物と称するものがサン=マクシマンで発見されたことで、凋落の一途をたどった。
この教会は1162年にはクリュニー修道院から分離し、オータン司教からフランス王の監督下に移っていたが、1217年にはフランシスコ会に引き取られ、1537年に還俗した。
1569年にはユグノーによる略奪を受けた。その後、1790年にはフランス革命の中で小教区の一教会となった。この頃、教会参事会室だけは良好な状態で保たれた(現在も付属のチャペルとして残存している)ものの、ほかは建材調達のための石切り場と化し、自慢のティンパヌムも酷い有様だった。1819年にはサン=ミシェル塔に落雷があった。
こうした度重なる損壊に対し、プロスペル・メリメの発案に従って、ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュックに再建が委ねられた(1840年)。
この再建工事は1876年に完成し、1912年に再び巡礼の拠点となった。
一連の教会群は、ヴェズレーのなだらかな丘の上に建っている。
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vezelay26ホタテガイ
 ↑ だらだら坂の舗道に埋め込まれた巡礼路を示すホタテガイ

サント・マドレーヌ聖堂のもう一つの見所は、100点にもおよぶ身廊(正面から内陣へと向かう東西に細長い空間)と側廊(身廊の左右にある通路)を仕切る柱にある柱頭彫刻である。
建築と調和したロマネスク彫刻はこの時代の美術を代表するもので、各地の文化的素地の多様性、人々の想像力の豊かさ、深い宗教精神を伝えているという。
柱頭彫刻はギリシャ時代からあったが、ギリシャのものは主に植物的な文様であり、物語的な柱頭彫刻はロマネスク芸術から始まったそうである。
一、二引いて解説してみよう。
vezelay09エジプト人を殺すモーゼ
 ↑ エジプト人を殺すモーゼ
vezelay10ダビデとゴリアテ
 ↑ ダビデとゴリアテ

ダビデは植物の花弁にのっかかって切り込んでいる。これはダビデが小さい子供であることを強調している。
ダビデが少年の頃に巨人戦士ゴリアテを倒す聖書物語は、信仰の厚いダビデの勇気と、神を嘲って武力に頼る暴虐なゴリアテの決闘の結末から、
信仰の大切さを学ぶ教訓として語られる、欧米人にとってなじみの深い話だそうである。

昔は字を読めない人が大半であり、しかも時代は中世であり、終末思想が強かった時代であり、キリストに救済を求める気分が支配していた。
だから信者や修道士を脅し、戒めるような主題が柱頭に並んでいる。
写真には一部しか出せなかったことも了承されたい。

CD.jpg

ヴェズレーの丘の頂上の教会で解散して、各自シヨッピングなどしながら丘の下のバスに戻る。
と言っても田舎の村で大した店があるわけではない。
私は途中のCD屋で聖歌のCD「Les Chants du Ciel」を買った。17ユーロほどである。 ↑

昼食は、丘の下のロータリー前のホテルで、魚料理である。

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beaune2005ボーヌ俯瞰図
 ↑ ボーヌ俯瞰図
musee-de-l-hotel-dieuオテル・デュー
 ↑ オテル・デュー
1004beauneボーヌの城壁
 ↑ ボーヌの街は城壁に囲まれていた。 写真は残る部分。

lrg_20197853ボーヌ
musee-du-vin-de-bourgogneワイン博物館
 ↑ ワイン博物館
imagesCAKH8503聖母子
 ↑ 聖母子像 
      
      ワインの聖地・ボーヌ・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

ヴェズレーには約一時間ほど散策して、119㎞約二時間かけて引き返してボーヌに戻る。

先ずWikipediaに載る記事を引いておく。 ↓

ボーヌ(Beaune)は、フランス東部、ブルゴーニュ地域圏コート=ドール県の群庁所在地。ボーヌ周辺はブルゴーニュ・ワインの産地として有名で、毎年11月にこの都市のオスピスで開かれるワインのオークションは国際的に名高い。

ボーヌのオスピス(ホスピス, 施療院)
1443年にブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロランが創設したもので、貧しい人たちに無料で医療を施した。入院の条件は、貧者であることただひとつだった。
王侯貴族から寄進されたブドウ園とそこから生産されるワインで、費用は埋め合わされていた。
この建物は、屋根瓦が、黄色や赤、茶色とカラフルで、しかもブルゴーニュ風の文様を描くようにデザインされていてとても美しい。
こうした施療院は、当時、オテル・デュー(神の宿、Hôtel-Dieu)とも呼ばれた。
現在では、その当時の薬品、医療器具を展示した医学博物館になっており、またワインオークションの会場としてよく知られている。
現存するオテル・デューの中でも最も有名な施設のひとつ。この施療院ブランドのワインもある。

イベント
「栄光の三日間(Les Trois Glorieuses)」
11月の第3日曜日をはさむ土曜日~月曜日の3日間にわたって開催されるワイン関連の祭り。
特に日曜日にオスピスで行われるワインオークションは国際的にも関心を集め、その年のワインの相場を占うものだとする見方もある。

ボーヌ生まれの有名人
ガスパール・モンジュ(Gaspard Monge, 1746年-1818年)- 数学者
フェリックス・ジアン(Félix Ziem, 1821年-1911年)- バルビゾン派の画家

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ボーヌというと、先年亡くなったフランス文学者の畏友・田辺保の本『ボーヌで死ぬということ』を思い出す。
↑ この本は、「オテル・デュ」施療院のことどもに触れて書かれている。彼はカトリック信者だった。


「オテル・デュー」では音声ガイドを聴きながら歩くが、反応も遅く、不完全なものだった。
入口の昔の表示によると「ホステル」と表記していたことが判る。 ↓ 
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見学コースのハイライトの「最後の審判」の絵の部屋は、押すな押すなの超満員である。 ↓

800px-Polyptyc_last_judgment-r最後の審判
↑ 「最後の審判」 作者 ロヒール・ファン・デル・ウェイデン 1445~1450年頃
 
あと、すぐ向かいのワイン・カーヴでワインの試飲を楽しむ。
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 ↑ ワイン・カーヴ(地下のワイン貯蔵庫)
lrg_27045787ワイン市場
 ↑ ワイン市場の建物

ここを見学した後は自由行動になり、夕食はイビス・ホテルで食べる。
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       アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅(6)・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・JTB旅物語主催2013/09/20~09/27・・・・・・・・

P1020950ぶどう畑
 ↑ ぶどう畑が延々とつづく
6058794959_e4cf6a3263ボージョレ
↑ ボジョレ─ワイン街道の標識
6059324560_4d3e410709ワンの村
 ↑ 「ワン」村の看板─Oingtと書いて「ワン」とはフランス語特有の表記
6058785137_c6913ef559ワン風景
↑ ワン風景 高台にある
6058786933_2bf818f724ワン
6059332740_a3b730e7edワン
src_26399000ワン
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 ↑ ワンの高台からの眺望
フランス美しい村
↑ 『フランスの美しき村』新潮社刊2002年初版 2009/11/15五刷

      「フランスの美しき村」ワン・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥 

いよいよ六日目、ボーヌを朝出て、約二時間、140㎞をボジョレー・ワイン街道を走って「フランスの美しき村」の一つ「ワン」に着く。
オレンジ色の石壁の家並が美しい村を散策する。村は高台になっていて、うねうねと、だらだら上りである。
リヨンの北西41㎞にあり、もとワン城の城壁に完全に囲まれていたが、現在は入口の「ニズィ門」だけに跡が残る。
城の礼拝堂は、現在、村の教会になっており、九月の最初の週末には音楽祭が開かれるという。村の人口は523人だと言う。
高台にある村の周りは、すべて広大なボジョレー・ワイン畑が取り巻いている。
ご承知の通り、「ボジョレー・ヌーヴォー」(Beaujolais nouveau)は、新酒を仕込んで、すぐ賞味するというフルーティなワインで、日本人にはとても人気があるが、人によって好き好きである。
結構な値段になる割には、たいして旨くないという人もある。
毎年騒がれている、ボジョレー・ヌーヴォーだが、その解禁日は、毎年11月の第3木曜と決まっていて、2013年は11月21日。日付が変わった、午前0:00に、販売が開始される。
日本で騒いでいるのは、もちろんワイン会社のマーケティングや販売戦略なのだが、時差の関係で、先進国の中で一番早く解禁されるためである。
とにかく日本人は、軽い、フルーティな新酒が好きな人種である。

grape収穫
120930-211収穫
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この後、約38㎞一時間走って、最終地のリヨンを観光する。

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 ↑ 昼食を食べたレストラン(ベリクール広場の脇にある)
f0140365_21502833リヨン風サラダ
 ↑ 昼食に出た「リヨン風サラダ」 野菜の上に半熟タマゴが乗るものを称するらしい。

あと、先ず、リヨン歴史地区を一望する「フルヴィエールの丘」へ。

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 ↑ フルヴィエール大聖堂(ノートルダム大聖堂)──この建物は新しい。
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 ↑ 黄金の聖母像をかかげる古い聖堂──大聖堂の脇にある。 詳しくは ↓

先ず、ノートルダム大聖堂のことを書いておく。
フルヴィエールのノートルダム大聖堂、あるいはフルヴィエール大聖堂( Basilique Notre-Dame de Fourvière )は、フランス・リヨンのフルヴィエールの丘にあるバシリカ式教会堂。
献金により、1872年から1896年にかけて、街を見下ろす位置に建てられた。
パリのサクレ・クール寺院同様、1870年のリヨン・コミューンにおける、社会主義勢力に対するキリスト教勢力の勝利の象徴となっている。
ピエール・ボッサン Pierre Bossan による設計は、ロマネスク建築とビザンチン建築、2つの建築様式の特徴を備え、当時としてはまれなことにゴシック建築様式は採用されなかった。
すばらしいモザイク、ステンドグラス、 及び使徒ヨハネのクリプトを特徴とする。
バシリカではガイドツアーも催行されており、聖美術館 Museum of Sacred Art も含めると年間150万人の訪問客を迎える。

ボッサンによるバシリカの最初の設計は、1843年のペスト流行200年記念に続く1846年に遡ると思われる。 この時彼はパレルモにいた。

ノートルダム大聖堂が建つ土地は、かつてはトラヤヌスによる古代ローマのフォルム「フォルム・ウェトス forum vetus 」であり、その名前の由来となっている。
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 ↑ 丘への途中にある古代ローマ円形劇場跡。いまもコンサートなどに使われる。

フルヴィエールの丘の頂上にバシリカは印象的にそびえたっており、リヨンの街のいたるところから眺めることができる。
結果的に、フルヴィエール大聖堂はリヨンの街の象徴となった。
バシリカは主要な塔4基、鐘楼1基を備え、最上部に金色の聖母マリア像を頂く。
特定の時間にはバシリカの北塔に上ることができ、そこにはリヨンの街とその郊外の眺望が180度開けている。

フルヴィエール大聖堂は実際には2つの教会からなり、1つの教会の上にもう1つの教会がある。
上側のサンクチュアリはたいへん装飾的であるが、一方下側は非常に簡素なデザインである。
フルヴィエールは聖母マリアに奉献されている。
1643年のペスト流行からリヨンの街が救われたことを感謝して小さな教会堂が建てられ、19世紀中ごろには200周年を記念して、金の聖母マリア像が捧げられた。
毎年12月8日(無原罪の聖母の祝日)、リヨンは街の救済を聖母マリアに感謝して街中にキャンドルをともし、これは「光の祭典 Fête des Lumières 」と呼ばれている。

普仏戦争では、プロイセンの軍隊はパリを陥落させ、リヨンに向かって南進していた。 教会で再び聖母マリアに祈りを捧げると、軍隊は停止し撤退していった。
勝利を祝してバシリカの建設が1872年に始まり、1884年に完成した。 内装の完成にはさらに時間を要し、最終的な完成は1964年になった。

1982年には、ラジオ・フルヴィエール( fr:Radios chrétiennes francophones の前身)のアンテナが塔に立てられている。

フルヴィエールのノートルダム大聖堂は、1998年、リヨン歴史地区の一部として、UNESCOの世界遺産に登録された。

Lyon_20060705リヨン・フルヴィエールの丘から俯瞰
↑ リヨン・フルヴィエールの丘から俯瞰
15253989-lyon-cityscape-from-saone-river-franceフルヴィエールの丘
 ↑ フルヴィエールの丘と教会
20130416174919wsリヨン・ベリクール広場
a0258141_0241958リヨン・ベルクール広場
 ↑ ベルクール広場 Place Bellecour

ベルクール広場はリヨン市の中心部にあり、ローヌ川とソーヌ川にはさまれている。ヨーロッパでもっとも大きな広場のひとつで、東西 300m,南北 200m の長方形の広場。
1715年以来、周囲をマロニエ並木と道路で縁取られて中央にはルイ14世の騎馬像が建ち、カフェや観光案内所もある。ベルクール広場の周辺はホテル、レストラン、ショップが立ち並ぶ賑やかな一角。夜にはライトアップされる。

      フランス第二の都市リヨンでポール・ボキューズのディナーを賞味・・・・・・・・木村草弥

リヨンについてWikipediaから記事を引いておく。  ↓

リヨン (Lyon) は、フランスの南東部に位置する都市で、ローヌ=アルプ地域圏の首府、ローヌ県の県庁所在地である。

概要
リヨンの近郊にはリヨン市の人口を含め、164万8216人が住み(1999年)、都市圏としてはフランス第二の規模を持つ。
フランスにおける金融センターのひとつであり、多くのフランスの銀行の本店が置かれる。永井荷風が横浜正金銀行の社員として滞在したこともある。

ローマ帝国のガリア属州の植民市ルグドゥヌムとして古代から栄えた物資の集散地であり、中世には市の立つ町としてヨーロッパでも有数の交易地として栄えた。また、絹織物の産地としても知られる。旧市街はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

地理
北東から流れ込むローヌ川と、北から流れ込むソーヌ川がリヨンの南部で合流する。ソーヌ川の西側は石畳の街並みの残る旧市街で、リヨンの象徴サン・ジャン大教会の建つフルヴィエールの丘がある。

ローヌ川の東側はクレディリヨネタワーを筆頭に近代的な建物が並ぶ地域である。そのさらに東には、新興の住宅地域が広がっている。

歴史
紀元前43年に、ローマの植民市ルグドゥヌムとして建設され、2世紀には皇帝属州ガリア・ルグドゥネンシスの中心都市としてさかえた。カロリング朝のもとに司教座がおかれ、後の何世紀もの間、大司教に支配され続けた。1245年に第1リヨン公会議、1274年には第2リヨン公会議がひらかれた。14世紀初めフランス王国に併合され、このころから絹織物の交易の一大中心地として発展した。フランス革命が始まると、反革命派が反乱を起こし、それを鎮圧した共和国軍がリヨンの大虐殺を引き起こした。工業化がはじまった19世紀前半にヨーロッパ最大の絹織物・繊維工業都市となった。第二次世界大戦中は、ドイツ軍に対するレジスタンス運動の拠点のひとつだった。戦後は北アフリカの旧フランス植民地から多くの移民をむかえた。

日本との関わり
1855年にスペインで発生した蚕の病気がヨーロッパ全土に広まり、リヨンの絹織物産業に大打撃を与え、失業者が増大した際、日本の蚕が病いに強いこと、日本でも上質の絹が生産されていることが伝えられ、リヨンから横浜へ生糸と蚕を買い付けに来る人が殺到した。そのため生糸価格は暴騰、粗悪品が出回り、日本の生糸の評判が落ちた。需要拡大のため明治政府はリヨン近郊出身のフランス人技術者ポール・ブリュナーを招き、1872年に富岡製糸場が造られた。
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私の住むところは織物に使われる「金糸・銀糸」の全国の殆どを生産するところである。
私の小学校の同級生の親友S君のところも、この仕事をしているが、つい最近はヨーロッパも不況でダメらしいが、
数年前までは景気が良かったで、フランス向けの輸出で大儲けしたらしい。
それらの輸出先が、ここリヨンなのであった。
祇園祭の山・鉾にかけられている「胴掛」という織物・ゴブラン織は、ここリヨン製だと言われている。 付記しておく。
 
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 ↑ リヨンのトラム

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 ↑ 今夜、宿泊のホテル・PARK & SUITES APPART HOTEL(キッチン付のアパートメント・ホテル)

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 ↑ ポール・ボキューズのアレンジした料理店・ル・ノール
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↑ ポール・ボキューズ
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「美食のリヨン」と呼ばれるが、リヨンの食について少し書いておく。

ボージョレ、ローヌ、ブルゴーニュといったワインの産地に囲まれ、ブレス産の鶏肉(AOC品質保証)やシャロレー牛の生産地に近いリヨン。
おいしい農作物が至るところで採れる、地理的に食材に恵まれた町だ。
パリにミシュランの星を獲得しているレストランが密集するにもかかわらず、「美食の町」と呼ばれ続けるリヨン。その魅力に迫る。

シンプルで質の高い「母の味」
リヨンは食材に恵まれてはいるものの、庶民の料理は内臓類や、淡水魚がベースとなっている。
ブションと呼ばれるリヨンの大衆食堂で出てくる代表的な郷土料理は、牛の胃にパン粉を付け焼いた「タブリエ・ド・サプール」、豚の血と脂身の腸詰め「ブーダン・ノワール」、豚などの臓物を詰めたソーセージ「アンドゥイエット」、カワカマスをすりつぶし、卵やパン粉を混ぜて蒸した「クネル」、鳥レバーのムース「ガトー・ド・フォワ・ド・ヴォライユ」、フロマージュ・ブランに調味料を加えた「セルヴェル・ド・カニュ」など。決して高級な料理ではない。

19世紀末、社会構造の変化に伴い、ブルジョワ階級の料理人として雇われていた女性は独立して働くようになった。
このことに加え、産業の発展や第1次世界大戦の勃発により、男性が重労働に従事せざるを得なくなったため、この時代にレストラン業を守ったのが「メール・リヨネーズ(リヨンの母)」と呼ばれる女性たちであった。
彼女たちは、家庭料理とブルジョワ料理を融合させ、シンプルで質の高い料理を作り出した。
その中の1人に、メール・ブラジェがいる。
1926年、タイヤ製造会社のミシュランは、車産業の発達とともに増える長距離旅行者のために、レストランの格付けを開始した。
メール・ブラジェは33年、女性として初めてミシュラン三つ星を獲得した。そして彼女の弟子の1人が、現在フランス料理界の巨匠として世界に名をはせるポール・ボキューズなのである。

時代の寵児、 ポール・ボキューズ
地味だったフランス料理を開拓し、「ヌーヴェル・キュイジーヌ」と呼ばれる新しい革命を料理界にもたらしたポール・ボキューズ。
彼無しで、リヨンが世界中に「美食の町」として知られるようになることは不可能であっただろう。
二十歳にして「ラ・メール・ブラジエ」などで見習いを始め、50年代以降、巨匠フェルナン・ポワンの下で本格的に修行を積み、57年、生家のレストラン「ポール・ボキューズ」を継ぐ。
58年にミシュランの一つ星を獲得し、61年にはフランス最優秀職人(Meilleur Ouvrier de France:通称 M.O.F.)を取得。
その後、65年に獲得した三つ星を、現在に至るまで40年以上維持している。
70年代にはフランス料理研究家、辻静雄から招待を受け来日。日本のフランス料理を進化させた他、懐石料理・京料理の料理法や盛り付けに大きく影響を与えた。
辻とボキューズの深い友情は日仏両方の料理業界に影響を及ぼし、辻調グループは80年にリヨン郊外にフランス校を設立している。

ボキューズは87年に国際フランス料理コンクール「ボキューズ・ドール」を、90年にフランス料理専門学校「アンスティテュ・ポール・ボキューズ」を設立。特に2年に1度リヨンで開催されているコンクールは、他に例を見ない基準を誇り、現在でも 料理人が最もあこがれるコンクールの1つとされている。

リヨンの今
現在リヨンの料理業界で最も注目を浴びている中心人物はニコラ・ルベックとマチュー・ヴィアネ(M.O.F.)だ。
ルベックは昨年 Lyon Confluenceと呼ばれる新開発地区に、大規模な高級ブラッスリー RUE le becをオープン。
ヴィアネは由緒ある「ラ・メール・ブラジエ」を買い取り、伝統を守りながらオリジナリティーを加えた料理を生み出している。

またリヨンでは、ここ数年日本人の料理人が驚く活躍ぶりを見せている。今年は新居剛(Au 14 Février)と鷹野孝雄(Takao Takano)が一つ星を獲得した。
リヨンの日本人料理人の中で先駆者と呼ばれる石田克己(En mets, fais ce qu'il te plaît)に続き、辻調の卒業生である西垣明(L’oursin qui boit)、畠山智博(Tomo)、そしてリヨンの郷土料理を和風化させている内村和仁(Le Canut et Les Gônes)、と新たな才能が次々とここリヨンで開花している。
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今宵は、今度の旅の最終日である。
日本でも有名なシェフ─ポール・ボキューズのアレンジしたフランス料理を賞味する。
と言っても、フランス料理もピンからキリまであり、私たちのツアーで食べられるのは、ほんのサワリである。
と言うのは旅程表には「ブラッスリー」と書いてあるからで、フランス語では、軽い食事やお酒が呑めるフランスの庶民的なレストランのこと。
過大な期待は持たずに臨んだ。

夕食を終わったら、もう九時過ぎである。宿泊のホテルに戻る。 
このホテルは事前のネット上では、さんざんの酷評だったので心配したが、良いこともないが、目茶苦茶でもない。

明日は朝からリヨン空港に行って、フランクフルト乗継ぎで帰国するばかりである。明日の朝の出発は7:15とのことで、あわただしい。
スーツケースの荷造りなどを済ませなければならない。

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       アルザス・ブルゴーニュのワイン街道とフランスの美しき村8日間の旅(7)・・・・・・・・・木村草弥
                 ・・・・・・・JTB旅物語主催2013/09/20~09/27・・・・・・・・

いよいよ最終日である。
ホテルから「リヨン空港」に向かい、フランクフルト行の飛行機に乗る。

ルフトハンザ
 ↑ 帰りのフランクフルト→ 関西空港の搭乗券
フランクフルトで乗り継ぎ、13:40発LH740便ルフトハンザドイツ航空で関空に向かって発つ。
帰りは偏西風に乗るので、飛行時間は約10時間50分と、往きとは一時間短い。
機中泊で、関空には、翌朝07:30 に着く。

(お断り)
写真はたくさん撮ってきたが、ろくな画像がないので、とりあえずアップしておいて、同行者から写真を提供されたら、後日あらためて追加したい。

カレンダー
↑ 海外旅行に行くと、私は必ず翌年のカレンダーを買い求めるが、こちらは見当たらず、あちこち聞いてみたが、ようやく最終日になって見つけた。
「ブルゴーニュ」とカタカナが書いてあるのが、ご愛嬌である。 ディジョン名産の「マスタード」の写真も載る。
小さな版のものである。あと一つワインのカレンダーも買ったが、これはスキャナにかからないのでやむく割愛する。

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こちらについてのガイドブックは「地球の歩き方」などがあるが総花的で参考にならない。
むかし読んだものだが、当地の文化について深く詳しい本を四冊出しておく。

饗庭
 ↑ 饗庭孝男『ヨーロッパ古寺巡礼』新潮社1995/05/20刊
ブル
 ↑ 饗庭孝男編『ブルゴーニュ 歴史と文化』小沢書店1998/03/21刊 
ブル
 ↑ 辻啓一『ブルゴーニュ黄金の丘で』集英社1994/06/25刊
フランス
 ↑ 清水徹・根本長兵衛編『世界の歴史と文化 フランス』新潮社1993/02/20刊





   
コメント
コメント
お疲れさまでした。
フランスの村めぐり素敵ですね!
総勢31名での移動は大変だったでしょうね。

私などは勝手に単独行動するので、ガイドさんを困らせてしまいます。
という訳で、色々調べて、結局はツアーと変わらぬ旅程を組むことになるのですが・・・。

2013/09/30(月) 06:54:12 | URL | Bittercup #- [ 編集 ]
さっそく見ていただいて有難うございます
■bittercupさま。
朝のウォーキングから帰って汗をシャワーで流して、しばらく休息して起きたら、
あなたのコメントが入ってました。
時刻を見ると、あなたも朝は早いのですね。
個人旅行では行きたいところへは行けますが、
時間と経費がかさみます。
今回は自由行動の設定はなかったのですが、
多くのツアーは「自由時間」がありますから、
結構、好きなところが見られます。
では、また。
2013/09/30(月) 09:23:55 | URL | sohya #- [ 編集 ]
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このコメントは管理人のみ閲覧できます
2013/09/30(月) 22:59:20 | | # [ 編集 ]
素敵!
ワオッ!!
素晴らしいご旅行でしたね。ドーデの最後の授業は、国語の教科書のなかでもとても印象深いものです。私は、西洋史を学びたいと思ったほど(実際はしなかったのですが・・)ヨーロッパのれきしが大好きなんです。
それにしても、どこも美しいいところばかりでため息が出ます。
行きたいのですが、時間とお金が・・・いつか、これを参考に必ずヨーロッパに足を踏み入れようと思ってます^^;

短時間に旅行記をここまでまとめられる草弥さまのパワーに敬服いたします。
いいものを拝見しました。ありがとうございます
2013/10/03(木) 17:28:12 | URL | われもこう #- [ 編集 ]
さっそく見ていただいて有難うございます
■われもこう様。
さっそく見ていただいて有難うございます。
ひさしぶりの遠距離の旅で、さすがに疲れました。
この記事を集中して書いたあと、放心状態です。
今日十月四日は、ようやく涼しくなりましたが、
それまで異常に暑く困惑いたしました。
そんな日々の疲れも出るようです。
あなたも、ご自愛ください。
では、また。
2013/10/04(金) 10:48:13 | URL | sohya #- [ 編集 ]
素晴らしい旅でしたね〜♡
アルザスの収穫祭やブルゴーニュはコート・ドールの畑の風景etc…うっとり拝見させていただきました♪
郷土料理もどれも美味しそうで、またすぐにフランスに行きたくなってしまいました★
実はリヨンへ来年行こうと思っているんです!
ぜひぜひ参考にさせていただきます!
2013/10/07(月) 00:58:37 | URL | Tutti #4nojMgsc [ 編集 ]
リヨンは「食のリヨン」というそうです
■Tuttiさま。
読んでいただいて有難うございます。
もとより拙いものです。
「リヨン」は、フランス第二の都市圏として
有力なところです。
パリに「リヨン駅」がありますが、リヨン行きの発着駅です。
スイスのジュネーブ発のTGVも、ここを通ってパリに至ります。
それにリヨンは「織物」の街です。
織物産業が、ここに集約しています。
京都の祇園祭の鉾にかけてあるゴブラン織りは、
ここで生産されたものと言われます。
ぜひ、いらっしゃい。 では、また。
2013/10/07(月) 08:55:47 | URL | sohya #- [ 編集 ]
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