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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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三井修歌集『海図』を読む・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
海図

──三井修の本──(3)

      三井修歌集『海図』を読む・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                ・・・・・・・株式会社KADOKAWA 2013/12/27刊・・・・・・・

いつもお世話になっている三井修氏の八番目の歌集である。
先ずは旺盛な作歌活動に敬意を表しておきたい。
三井さんは今をときめく短歌結社「塔」の選者であり、また角川書店・月刊誌「短歌」の巻頭作家でもあられ、他の短歌総合誌からの原稿依頼も多いので、歌の数も多いのは当然である。
この歌集には550首の歌が収録されているという。2008年から2012年までの歌だが、前歌集『薔薇図譜』収録のものと時期的に重なっている。

はじめに発行元の「株式会社KADOKAWA」なる見慣れない出版社について解説しておく。「角川書店」のことである。
昨年、統括会社である「角川ホールディングス」は角川書店、角川学芸出版など数社を合併して、この会社として上場した。
むかし風雲児として一世を風靡していた西某のアスキーなども吸収合併したのである。
しかし、いずれにしても社名などを弄り過ぎである。
出版事業だけではなく、角川映画などもあるので会社としての実体に合わなくなったのは理解できるが、「角川書店」の名は「ブランドカンパニー」という見慣れないセクションになった。
せめて本の表示には、「角川書店」の名を出してほしかった。
角川書店から殆どの本を出してもらった一人としての「想い」である。敢えて書いておく。

さて、三井修氏の本のことである。
この歌集の題名の「海図」は、「あとがき」によると

    風の吹く晩秋の午後一枚の海図を求め街へ出でたり

という歌から採られているという。
題名に選ばれた通り、この歌は、この歌集一巻を通底するものとして秀逸である。
上にリンクに貼ったWikipediaに載る略歴の通り、三井さんはアラビア語の専門家として大手貿易商社のアラブ駐在員として、かの地に長く居られた。
いわば、現代のマルコポーロのような存在であったから、その足跡を辿るには「海図」が必要だった。

先にも書いたが歌の数が550首と多いので、私の引く歌の数も多くなってしまうが、ご了承を得たい。

     *帰り道車窓より見る能登の海無数のうさぎがしきり跳びいる
     *六十年前に私が生まれたる川二筋の流れる街よ
     *生まれたる金沢育ちたる能登の いずれも美しいずれも遠し
     *金沢の道路はなべて鍵曲りどこの庭にも雪吊り見せて
     *祝祭のごとくに川を遡上する素魚あるべし能登は今年も
     *父母なくて長の兄すら亡くなりて我が育ち地に知る人少なし
     *バーボンの水割り灯下にふふみつつ思えり月の河ゆく鮎を
これらの歌には、故郷・能登のことが詠われている。
掲出した本の画像に読み取れると思うが、編集者は「帯」に

   <異国で暮らした経験と、
    年ごとに募る望郷の念。>

と書く。 けだし当たっているだろう、と思う。
一首目の「うさぎが跳ぶ」というのは、海に起つ三角波のことを、能登では、こう表現するのだという。
二首目の川二筋というのは、男川と呼ばれる「犀川」と、女川と呼ばれる「浅野川」のことだという。
   <変哲もなき寺にしてこの庫裏に室生照道泣きていたるか>
という歌が、この項目の並びに載っていて、庶子として生まれて寂しい少年期を過ごした「室生犀星」のことどもに触れていて秀逸である。
五首目の歌の「素魚」とは、シロウオ(素魚、学名 Leucopsarion petersii )のことで、、スズキ目ハゼ科に分類される魚の一種である。一種のみでシロウオ属 Leucopsarion を構成する。
透明な体の小魚で、日本、韓国に分布し、食用に漁獲される。シラウオとは生態や姿が似ていて混同しやすい。

     *半年に一回必ず見る夢でパスポート失くし飛行機に乗れぬ
     *神保町一誠堂の二階隅イスラム書あり今も変わらず
     *ニッポンに生まれ働き歌作りアラブへ行きたり のう石仏よ
     *アラビアの黒き原油を封じたるペーパーウエイトに茂吉を押さえる
     *アラビアにありし七年七度を日本の紅葉に逢わざりしかな
     *中東を講じて歌の会に出て家事すれば一日はオムニバスなり
     *入社して覚えしことの一つにて綿糸基準番手デニール換算表
     *句読点一つ打つがに職退きぬIDカード保険証返し
     *ムスリムで宦官鄭和の出帆は永楽三年夏の日のこと

これらの歌には総合商社の駐在員としての「たつき」の日々のことが詠われている。
一首目の歌は、前の歌集でも詠われたことがある記憶があるが、それだけ真に迫った「夢」なのだろう。
夢というのは現実には有り得ないことも「深層心理」として突然出てくるもので,同様な夢は私にも経験がある。
それも壮年期、初老の頃のことで、今の私のように老年期に入ってしまうと、見ることもなくなるのが、むしろ哀しいものである。
六首目の歌のように、中東の専門家として、シンポジウムなどの講師として話をさせられるのである。そして、歌会に出席し、家事をこなす、忙しい作者の姿が彷彿とする。
「オムニバス」という表現が何とも、ぴったりである。こういう日常の些事も歌になるという「お手本」のような歌である。
その次の歌の「綿糸基準番手デニール換算表」というのも、商社マンとして「売り込みなど」何でもやらなければならない立場を想像させて秀逸である。
最後の歌にある「ムスリムで宦官鄭和」というのは不明にして私は知らなかったので、蒙を啓いていただいた。感謝申し上げる。

この歌集には「継母」を詠ったのがいくつかある。
ここに引用することはしないが、亡くなった実母と、継母との関係というのは、さぞや微妙なものがあるのであろう。

     *眠りへと落ちゆく刹那胸中の雪野を母が過りぬ 多分
     *スポイトに冬のインクを吸い上げる兄の形見の黒パーカーに

ここに詠まれる「母」が実母なのか継母なのか、私には判じかねる。
二首目には早く亡くなった兄のことが詠まれる。

     *この朝磯菊咲きたり長の子に赤子が生まれ磯菊咲きたり
     *一年に二時間のみを帰りくる長の子寡黙その二時間も
     *髪切りてうなじ涼しき幼子は二十二世紀までを生くべし
     *乙の子は大学院生この朝も洗面台で鉢合わせする
     *卓上の子のケータイに着信の点滅あれど触れないでおく

これらの歌からは作者には二人の男の子があり、そのうちの長男は、すでに結婚して「孫」が居ること。
めったに実家には来ないことなどが判る。今どきの家庭事情などというものは、みな、こんなものであろうか。
息子にしろ、娘にしろ今どきの親子関係なんて、こんなものであろうか。濃密な親子の会話など望むべくもないか。
一首目の歌は「磯菊咲きたり」というフレーズのルフランが生きている。修辞上の手本のようで的確である。 学ばれよ。
以下、私の好きな歌を順不同で引いて終わりたい。

     *蝶ひとつ宙に放ちて少年は自が指先の銀微光見る
     *尻尾すと立ててすっくと四肢伸ばし猫はたまさか直線から成る
     *国立の駅近くなる<邪宗門>壁に蔦這う茶房なりしが
     *見舞いには鶏卵なりき籾殻を探れば白きぬくとさありき
おっしゃるように昔は病気見舞いというと「卵」を持参した。 農村では自家で飼うニワトリの卵だった。
「鶏卵」で思い出すのは、「塔」主宰夫人の河野裕子が親しい人には「玉子ご飯」にせよと生卵を贈る癖があったらしい。
「塔」の某女史にも、そんなつもりで贈ったが、その家はインテリで、「生卵のご飯かけ」というような習慣がなかったので困惑したという話が巷間伝わっている。
いかにも河野裕子らしい、関西人らしい「おせっかい」の典型である。 その裕子も死んで何年も経つ。儚いものである。
     *ドロップの缶を逆さに振りて出す最後の一粒薄荷味なり
     *スプーンにて朝の卵の頭を叩くルッコラの苦さ噛みしめながら
     *思いいしよりも小さき流れなり野火止用水雨の中なり
     *身の丈に生きむ例えば夏の土手次々追い越されながら歩まん
     *昼に飲む焼酎<残波>紫の薄く透けいるカットグラスに
この歌は巻末に載るもので、「波」と「ひる」という言葉を使った題詠の試みによるものである。
主宰される同人誌「りいふ」の企画によるものだと思われるが、そんな企画を離れても、佳い歌である。
     *「御主ゼス・キリスト御パッションの事」フロイス訳福音書の一章
     *平文氏著『和英語林集成』は動詞を<活きコトバ>と称す
この二首はルイス・フロイスの辞書に当たったところから作歌されたものであろうが、読書人として秀逸の歌である。
     *今日のわがVAIOは機嫌悪ければひと休みさせ水割り作る
     *ハングルの如き文字と思いつつ「咎」という字を白紙に書く
     *設定を誤りトースト焦げいたり機密情報漏洩したり
この歌は、掲載順から見て、以前の作だろうが、現今の「機密情報漏洩」罪などと考え併せて、今日的意味を有していると思う。
     *朝得たる比喩の一つを抱卵のごとくにひと日温めいたり
     *富士見坂今は富士など見えずして春の猫行くしたり顔して
     *木箆よりベシャメルソースの滴垂る創世神話の第一章めき
     *今日のこの空こそ真澄というべしや発ちたる鳥のたちまちに消ゆ
     *伝言板いつから駅に消えたるや昆虫の如き若きら行き交う

こうして見てくると、作者の「才」(ざえ)が、さりげなく詠まれながら、きらりとして光るのを感じ取るのである。
多くの読者の共感を得るのは間違いない巧著である。
ご恵贈に感謝して、ここに紹介する次第である。 有難うございました。


   

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