
万緑の中や吾子(わこ)の歯生えそむる・・・・・・・・・・・・・・中村草田男
「万緑」(ばんりょく)は夏の見渡すかぎりの緑を言う。
元来は季語ではなかった。
草田男は、中国の古詩、王安石の詩の一節 <万緑叢中紅一点>
から「万緑」の語を得て、これを季語として用い、現代俳句の中に定着させた点で、記念碑的な作品である。
一面の緑の中で、生え初めた我子の赤ん坊の歯の白さが健気に自己を主張している。
生まれ出るもの、育ちゆくものへの讃歌が「万緑」の語に託されている。
満目の緑と小さな白い歯、この対比が鮮やかで、俳句的に生きたので、たちまち俳句界に共感を呼ぶ季語となった。
しかし、季語として流行することは、また安易な決まり文句に堕する危険をも含んでいて、この万緑の句も例外ではない。
昭和14年刊『火の鳥』に載る。
ちなみに、高浜虚子は死ぬまで、この万緑を季語としては認めなかった、というのも有名な話である。
葉桜の中の無数の空さわぐ・・・・・・・・・・・・・・篠原梵
初夏、花の去った後の葉桜が、風にゆれつつ透かして見せる様々な形の空の断片を「無数の空」と表現した。
それを「さわぐ」という動態でとらえたところに、この句の発見がある。
掲出の写真を取り込みながら、草田男の句に添えて、この句を載せたいという気になった。
写真のイメージが、この句にぴったりだと思ったからである。
誰でもが見る、ありふれた光景を的確な言葉で新鮮にとらえ直すという、詩作の基本的な作業を行なって成功した句である。
篠原は明治43年愛媛県生まれ。昭和50年没。「中央公論」編集長を経て、役員を務めた。
昭和6年臼田亜浪に師事して以来、斬新な感覚を持って句誌「石楠」に新風を起こした。俳句の論客としても活躍。
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ここで「万緑」「新緑」の句を少し引く。
万緑やわが掌に釘の痕もなし・・・・・・・・・・・・山口誓子
万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて・・・・・・・・・・・・橋本多佳子
万緑や血の色奔る家兎の耳・・・・・・・・・・・・河合凱夫
万緑に蒼ざめてをる鏡かな・・・・・・・・・・・・上野泰
万緑や死は一弾を以て足る・・・・・・・・・・・・上田五千石
動くもの皆緑なり風わたる・・・・・・・・・・・・五百木瓢亭
恐ろしき緑の中に入りて染まらん・・・・・・・・・・・・星野立子
水筒の茶がのど通る深みどり・・・・・・・・・・・・辻田克巳
まぶたみどりに乳吸ふ力満ち眠る・・・・・・・・・・・・沖田佐久子
新緑やうつくしかりしひとの老い・・・・・・・・・・・・・日野草城
新緑に紛れず杉の林立す・・・・・・・・・・・・山口波津子
新緑の山径をゆく死の報せ・・・・・・・・・・・・飯田龍太
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