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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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山田兼士『萩原朔太郎《宿命》論』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
山田

──山田兼士の詩と詩論──(10)

     山田兼士『萩原朔太郎《宿命》論』・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                  ・・・・・・・・・澪標2014/07/04刊・・・・・・・・・・・

私の敬愛する山田兼士先生が、標記の本を出版された。
この本は長野隆編『萩原朔太郎の世界』(砂子屋書房1987年刊)に収録されたのを初めとして、あちこちに発表されたものを、まとめられたものである。
だから、ほぼ三十年近く書いて来られたものである。
先ず、この本の「目次」を出しておく。

目次

序章 大阪八尾と萩原朔太郎
第1章 散文詩集の生成
第2章 抒情の終焉
第3章 詩の逆説あるいは小説の夢
第4章 「蟲」を読む
第5章 「鏡」のうしろにあるもの
第6章 『宿命』再考
第7章 『宿命』の六色—散文詩六篇における色彩について
終章 萩原朔太郎と『四季』
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「序章」のはじめの部分をスキャナで引いておく。 (文字化けは子細に修正したが、まだあれば指摘されたい。すぐに直します)

序章    大阪八尾と萩原朔太郎
●はじめに  二人の隆
萩原朔太郎最後の詩集『宿命』について考えるに際して、まず前提としたいのは、詩人の生涯に関
する重要な、そのわりにあまり知られていない、群馬県前橋と大阪府八尾の両萩原家の確執と交流の
歴史である。特に、大阪八尾と朔太郎の関係について、従来あまり重要視されてこなかった事実を確
認することから、本論を始めることにする。
「大阪八尾と萩原朔太郎」というテーマに即してはじめに紹介したいのは、次のようなエピソード
である。三好達治が「詩人は西からしか出ない」とある人に言ったところ、「三好先生の先生である
萩原朔太郎は群馬県の前橋じゃないですか」と反論され、三好は「いや,あの人はお乂さんが大阪の
人だから」と答えた、という。朔太郎の父密蔵の出身は大阪河内の八尾である。これは有名なエピソ
—ドだが、従来たいして重要視されてこなかった。ところが、一九七九年に萩原朔太郎の親戚にあた
る萩原隆が『若き日の萩原朔太郎』 (筑摩害房)という本を出し、その中で、隆の父萩原栄次宛てに
朔太郎が書いた書簡全八十四通のうち未発表のもの七十三通が初めて公開された。萩原栄次は朔太郎
の従兄である。
『若き日の萩原朔太郎』が出た時点で、私の友人で若き萩原朔太郎研究者であった長野隆(1951~2000
にその本のことを教えられ読んだのだが、なるほどと思いながらも、それ以上あまり
考えることもなく何年かが過ぎた。その間に、筑摩書房の『萩原朔太郎全集』が完結し、若き日の歌
集『ソライロノハナ』も収録された。さらに、「浄罪詩篇ノ—ト」と呼ばれる未発表ノ—トが刊行され、
朔太郎青年期の試行錯誤がかなり明確に知られるようになった。そうした流れと、朔太郎の未発表書
簡七十三通の刊行というのが、いわば朔太郎研究におけるルネッサンスを形成したわけだ。その後、
特に若い研究者たちによって詩集『月に吠える』の生成研究が盛んになった。長野隆はその最先端を
走った研究者である。その後、朔太郎生誕百年にあたる一九八六年に、長野と私がー緒に刊行してい
た『詩論』という研究同人誌で、三回にわたって朔太郎特集を耝み、ここに、私は初めて萩原朔太郎
論を書いた。 一方、長野は「『月に吠える』の思想と方法」という実に厳密な論文を書いて『月に吠
える』成立までの生成過程をみごとに論じた。これに対して、私は最晚年の──そのころから晩年の
詩人というものに興味があったので──昭和十四年に刊行された詩集『宿命』を主題に論文を三本書
いた。それらが翌一九八七年に共著本『萩原朔太郎の世界』 (長野隆編)として砂子屋書房から出た。
その後二〇〇〇年に長野隆が亡くなり、その二年後に『長野隆著作集』全三巻が和泉書院から出てい
る。この責任編集は私が担当した。
それと同じ二〇〇二年に、萩原隆の二冊目の本が出た。『朔太郎の背中』(深夜叢書)。この本が出
たときに、三井葉子さんが主宰する詩誌『楽市』に私は書評を書いた。萩原隆も『楽市』の同人で、
三井さんからの依頼だった。その後、二〇〇九年に萩原隆の三冊目の本『ザシキワラシ』(編集工
房ノア)が出た際に出版記念会で初対面がかなった。朔太郎があと二十年も生きていればこうなって
いたかと思わせる、白皙の老人である。
萩原隆は朔太郎のまたいとこにあたる縁で、八尾と萩原朔太郎の関係についての調査と思考をこれ
らの本にまとめた。その萩原隆が萩原朔太郎を記念した文学賞を創設したいということで三井葉子さ
んに相談していたのだが、その企面が具体化しつつあった矢先、二〇一〇年に萩原隆は亡くなった。
その後、私が手伝うことで、八尾市の「NPO法人やお文化協会」主催による「萩原朔太郎記念とを
るもう賞」という詩集賞が二〇一一年に始まった。新人新鋭に与えるこの賞のキャッチフレ—ズは「求
む!二十一世紀の朔太郎」(三井葉子さんは二〇一四年に亡くなったが、この賞は継続している)。
二〇一一年は朔太郎のの生誕百二十五年ということで、東京世田谷文学館が大きな展示会を行った。
そこには前橋文学館の所蔵する、朔太郎から栄次宛の書簡が多く展示されていた。萩原隆が寄贈した
ものだ。同年、『現代詩手帖』が五月号で萩原朔太郎特集を組んだ際に、私は「萩原朔太『宿命』再考」
という文章を書いたが、その後、他にも朔太郎について二つ書く機会があり、朔太郎についての比較
的長い文章を久しぶりに計三つ書いたことになる。私個人にとっての朔太郎ルネッサンスのようなと
ころに差しかかっていたとも言えるわけだ。以上が、朔太郎をめぐる「二人の隆」と筆者との関係の
あらましである。
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私も三井葉子さんの「楽市」には、誘われて同人の末席を少し汚したので、萩原隆にも二、三度会って会食したこともある。
彼は大阪府立高校の「学校医」を務めていたことがあり、私の中学校同級生が高校校長をしていたときに懇意にしていたというF君と『ザシキワラシ考』出帆記念会で同席したことがある。

論文の詳しい中身を書きたいが、今は、そのゆとりがないので、ご勘弁願いたい。

なお、山田兼司士の著作物については ← ここから「この著者の本一覧へ」に詳しい。

Wikipedia─山田兼士





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