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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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三井葉子さんの極私的思い出など・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
びーぐる三井

三井
  ↑ 『<うた>と永遠 三井葉子の世界』 2001/06/30深夜叢書社刊

──三井葉子の詩・句──(11)

       三井葉子さんの極私的思い出など・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

今年、一月二日に亡くなった三井葉子さんを追悼する特集号の「びーぐる」24号が出た。
三井葉子さんを追悼する「論考」「エッセイ」などが多く掲載されている。
「びーぐる」編集同人の山田兼士、細見和之の両氏は「萩原朔太郎記念とをるもう賞」の選考委員でもあり、また大阪文学学校の関係からも三井さんと深い交流があった。
「びーぐる」24号に載っている山田兼士先生の評論と、「コワイワナア─三井葉子さん追悼」 ← の二篇をリンクに貼っておくので、ご覧ください。

私も第一詩集『免疫系』を発刊して以来、三井さんと付き合うことになり、三井さん主宰の「楽市」の末期の同人に名を連ねていたので、この機会に三井さんの思い出など、少し書く。

三井葉子さんについては、掲出した『<うた>と永遠 三井葉子の世界』責任編集・斎藤慎爾 が詳しい。
この本には、三井さんが大量の資料を提供されて編集されたのであろう。
自筆と思われる「年譜」も詳しい。 古本も出回っているので、お読みいただきたい。
私は、三井さんと知り合って、しばらくしてから古本で大半の著書を手に入れた。
詳しいことは、この本や「びーぐる」でお読みいただくとして、私は<極私的>な思い出を書いてみたい。

オランダ直送の薔薇のこと
ごぞんじのように、オランダは園芸大国で、「切り花」や「球根」などを世界に輸出している。
その中に「東インド会社」というのがあり、(これは昔オランダが海外に植民地を抱えていた頃に活躍した国策会社の名前である)日本に出張所があって広く「花」の通信販売を手がけている。
ひよんなことから、この会社からバラの切り花を亡妻や親しい女の人に贈るようになった。
知り合ってから、三井葉子さんにも彼女の誕生日一月一日に合わせて年末に「真紅のバラ」を届けるようになった。
新年早々には配送がないので、十二月三十日指定で、お誕生日のお祝いのコメントをつけて届けていた。
亡くなられる前の年末にも自宅の方にお届けしたが、入院中で、しかも重篤な容体とは知らなかった。
したがって届いたという連絡もなかった。
オランダ直送のバラは、とても日持ちがよくて、お礼の電話のときに、三井さんも、そうおっしゃった。
女の人は、お花をもらうのが大好きであり、亡妻しかり、親しい女友達しかり、三井さんも喜ばれた。

三井葉子さんは、ええ衆のお嬢さんである
三井さんの生家は北河内で田畑百町歩を所有する屈指の地主であり、かつ事業として釦製造会社を経営する家であった。
「生駒山」まで他人の土地を踏まずに行ける」と豪語するほどだったらしい。(もっとも、これは地主たちの常套句であって、実際には生駒山まで行くには何千、何万町歩も必要とする)
戦後の農地改革で広大な農地はタダ値同然に取り上げられ、一族は残った財産をめぐってドロ沼のような親族争いが起きたらしい。
三井さんは一人の弟さんと組まれたらしいが、三井さんの葬儀の際には、その人の名前と姿があった。
自筆年譜にも一端は書かれているが、私には多少のことは洩らされた。
二十歳のときに山荘博氏と結婚されたが、その嫁入りのときは「女中さん」を連れての嫁入り、だというから、この一事を知るだけでも羽振りの良さは判るというものである。

塚本邦雄との交友について
三井さんに恵贈した私の第一詩集『免疫系』をご覧になって手紙をいただいた。
それまでは、三井さんは私には未知の人である。
お手紙には塚本邦雄と親しかったこと、詩人であった角田清文、書肆季節社の政田岑生らと交友があり、その縁で初期の「楽市」誌は書肆季節社から出ている、ことなどが語られた。
塚本邦雄は私の第二歌集『嘉木』を読売新聞の時評で採り上げてくれたが、そんな関連で三井さんが親近感を持っていただいたのかと思われる。
今も書架には角田清文の詩集『桂川情死』が残っているが、これは私が若い頃に買った本である。
三井さんからは書庫の整理をするのだと何冊かの他人の詩集を、亡くなる一年前かに贈っていただいた。

王朝派詩人と呼ばれる所以
第五詩集『夢刺し』、第八詩集の『浮舟』の頃には、集中して中世の和歌なんかに取材する詩集が並ぶ。これが「王朝派」詩人と呼ばれる所以である。
それが三井さん独特の世界として展開されるので、たやすく、はないのである。
私などは短歌をやっていて、中世の古今和歌集などの古典にも親しんでいるので違和感はないが、現代詩人は概して、こういう「伝統」とは「切れて」いると主張する人が多い。
だから余計に難解ということになろうか。三井さん独特の「言い差し」に終始するので判りづらい。
そういう意味では三井さんは「頑固」である。

エッセイが面白い
三井さんには『二両電車が登ってくる』 『大阪弁歳時記 ええやんか』 『猫版大阪弁歳時記 よろしゃんナ』などの大阪にまつわる「エッセイ」がある。
これらは新聞などに連載されたものをまとめたものだが、面白い。
もっとも「大阪弁」とは言っても、三井さんの語られるのは「河内弁」であって、大阪言葉の正統としては「島の内」言葉というのがあるのである。

独特の句読点の打ち方
ごぞんじのように日本語には、読みやすいように適宜「句読点」をつけることになっている。
文章の段落として、一息つくところに「読点」(、)文章の終りに「句点」(。)を振るのが常道である。
三井さんの文章では、それが「逆」に振られることが多い。初期から中期の作品には見られないが、晩年になると、これが頻発する。
ましてや「私信」になると、毛筆を使われるので、判りにくいこと、はなはだしい。みんな困ったのではないか。

句集『桃』 『栗』をめぐって
三井さんには、掲出の俳句の句集が二冊ある。いずれも京都の洛西書院の刊行である。
平井照敏との交友の中で勧められて始められたようである。
平井照敏亡きあとも毎月、東京の句会に上京されるほど熱心だったらしい。その結果が、この二冊である。
私も恵贈されて拝見したのだが、三井さんは俳句では「旧カナ」を採っておられたということだったが、「かなづかい」が新旧混交している。
『栗』を刊行されて間もなく、三井さんから電話があって「鈴木漠」氏が、かなづかいの間違いを四十ケ所あまり指摘し来られた、とおっしゃり、洛西書院に文句を言って、刷り直しをしたいが、校正をしてもらえないか、ということだった。
私は短歌作りには旧カナを採用していて慣れているので、どうぞ、と申し上げたが、その後なにも言って来られなかったので、そのままになっている。
三井さんは「校正」というようなことには熱心でなかったのか。
現代詩作者でも、どういう風の吹き回しか、旧カナの詩を書かれたりするが、間違いが多い。
名前はあげないが、恵贈された詩集を読んで、間違いを指摘してあげたことがある。
現代詩人は新カナで作品を書く人が殆どで、何の因果か、慣れない旧カナで詩を書いたりするから間違うのである。
生まれたときから「新カナ」しか習っていない人が「旧カナ」を採用するには、それなりの覚悟と勉強が必要なのである。
俳句でも短歌でも「結社」に属しておれば、主宰や同人が指摘してくれるので勉強できるのだが、詩人は、そういう場がないのか。

三井さんには詩集が多い
三井さんの本や年譜を見てみると、ほぼ一年半から二年おきくらいに詩集が出ている。
これは三井さんが熱心に詩を書かれたことにもよるが、金銭的に恵まれた家庭であったことも影響しているだろう。
先にも書いたように財産があるから上梓する資金に困ることがなかった。
一介の主婦が、こんなにも本を出せる訳がないのである。
晩年には何人かの「孫」の名前が登場するが、それまでは肉親の名前を作品の中に出されることはなかった。

『萩原朔太郎記念 とをるもう賞』のこと
この賞の創設については、萩原朔太郎の「またいとこ」である萩原隆が三井葉子さんに相談したことが発端になっているらしい。
萩原隆は萩原一族の本家であり、八尾の地で代々医師を営んできた家系である。隆は亡くなったが、ご子息が開業しておられる。
彼は大阪大学医学部の出身だが、医院開業の傍ら府立高校の学校医をしていた。
私の旧制中学の同級生で大阪府立高校長をしていたF君がおり、彼・隆とは親しかったらしく、『ザシキワラシ考』の出版記念会には一緒に出席したことがある。
そういえばF君も名前は同じ「隆」だったので、在職中も親しかったのだろうか。

新しい文明の利器には疎かった
三井さんはケータイも使えず、ようやくFAXだけは使えるようになられたが、ワープロ、パソコンなど何も操作できなかった。
これは私の推測だが、お嬢さんだったから、自転車にも恐らく乗れなかったのではないか。
中年以後には「ローケツ染め」に凝っておられた時期があるらしい。ローケツ染めの作品などが『三井葉子の世界』の本に写真がでている。
詩の合評会では、凄く厳しい批評をなさった。
短歌の世界でも昔は批評がものすごく厳しかったらしい。短歌も俳句も昔は男の世界だったから、それでもよかったが、今では女の人ばかりである。
だから今では下手な作品でも、いいところを採り上げるようにして褒めないといけない。すぐに辞めてしまうからである。
そういう意味からも三井さんの指導は前時代的だなと思ったものである。
指導で思い出したが、三井さんは「音訓表」や「おくりがな」では「当用」漢字の頃の指導をされた。
今は「常用」漢字の世界で「おくりがな」も「活用語尾だけ送れ」という時代である。合評会で、当用漢字のおくりがなに固執して執拗に間違いと指摘されるので、私から一言申し上げたことがある。
いま思い出したが、女性にありがちなことだが、三井さんも「蔭で人の悪口」を言う人だった。聴いていて、いい気分ではなかった。

三井葉子さんの経歴については  → WIkipedia─三井葉子

とりとめもない、駄文に終始したが、キレイごとは「びーぐる」などに一杯載っているから、お許しいただきたい。
また、気がつけば補足したい。




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