
↑ 十七夜 立待月
うつしみは欠けゆくばかり月光の
藍なる影を曳きて歩まむ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載るものである。
「月」は天象としては、いつも我々の身近にあるものだが、太陽のように自ら光を発するものではなく、
太陽の光を反映するものとして、昔から「寂しい」存在として詩歌に詠まれてきた。
掲出した私の歌も老境に入って「欠けて」ゆくだけの「我が身」を「月光」の影になぞらえて詠んだものである。
「月」は「花」と並んで、古来、日本美の中心に置かれるものである。
「花」とは花一般ではなく「桜」のことを指す決まりになっている。
「花」=桜は春を代表するもの。「月」は秋を代表するもの。
月は一年中みられるものではあるが、秋の月が清明であるために、秋を月の季節とするのである。
陰暦朔日は黒い月だが、二日月、三日月、弓張月と光を得て大きくなって満月になり、また欠けて有明月になり、黒い月になる。
朔日の月を新月と言い、新月から弦月(五日目)頃までの宵月の夜を夕月夜という。
夕方出た月は夜のうちには沈んでしまうので夕月という。月白は月の出る前の空のほの白い明るさをいう。
因みに、今日は暦を見ると「十七日月」である。この頃の月を「立待月」という。
満月から二日経って、少し欠けはじめたところである。
これから月は欠けが進み新月(朔日)は十月二十四日となっている。
「万葉集」には
わが背子が挿頭(かざし)の萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし
と詠まれ、
「古今集」には
月見れば千々にものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど
木の間より漏り来る月の影見れば心づくしの秋は来にけり
と詠まれる。
このように、日本の古典には、月は秋の美しいものの頂点に置かれ、「さびしさ」「物思い」「ものがなしさ」などの気持のこもるものとされてきた。
俳句でも、松尾芭蕉の句に
月はやし梢は雨を持ちながら
義仲の寝覚の山か月悲し
月清し遊行の持てる砂の上
其のままよ月もたのまじ伊吹山
秋もはやばらつく雨に月の形
などがあり、月を詠んだ秀句と言われている。
与謝蕪村にも
月天心貧しき町を通りけり
の秀句がある。
このように「月」は歴史の厚みのある代表季題中の代表と言われている。
以下、明治以後の私の好きな句を引いて終わる。
月明や山彦湖(うみ)をかへし来る・・・・・・・・水原秋桜子
月光のおもたからずや長き髪・・・・・・・・・篠原鳳作
東京駅大時計に似た月が出た・・・・・・・・池内友次郎
徐々に徐々に月下の俘虜として進む・・・・・・・・平畑静塔
少年が犬に笛聴かせをる月夜・・・・・・・・・富田木歩
月の中透きとほる身をもたずして・・・・・・・・桂信子
つひに子を生まざりし月仰ぐかな・・・・・・・・稲垣きくの
なにもかも月もひん曲つてけつかる・・・・・・・・栗林一石路
月明のいづこか悪事なしをらむ・・・・・・・・岸風三楼
農夫われ来世は月をたがやさむ・・・・・・・・蛭田大艸
三日月や子にのこすべきなにもなし・・・・・・・・白井郷峰
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↑ 新井優氏撮影─皆既前の月
この画像に添えたコメントで、新井さんは、こう書かれている。 ↓
<月食時に地球に届く微少の青色の光、今回ばかりは青色LEDの開発によりノーベル賞を受賞された三氏(赤崎勇さん、天野浩さん、中村修二さん)を祝福しているように感じているのは、私だけでしょうか。
BlueBeltの参照URL: http://www.astroarts.co.jp/photo-gallery/photo/6733.html > ──借用に感謝する。
一昨夜は久しぶりの「皆既月食」だった。
宵のうちだったので、よく見えた。
皆既になったときは赤黒い月が、むしろ不気味な、という形容がぴったりの様子だった。
こういう月を見ると、昔の人は、気持ちが悪い感情になったというのも、肯ける。
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