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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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久保田登編『定型の広場─吉野昌夫評論集』・・・・・・・・・・木村草弥
久保田登

──新・読書ノート──

      久保田登編『定型の広場─吉野昌夫評論集』・・・・・・・・・・木村草弥
                      ・・・・・・・・いりの舎2014/10/26刊・・・・・・・・・・

この本の「校正」を担当された山本登志枝さんから本書を贈呈されたものである。

先ず、吉野昌夫という人は、こういう人である。  ↓

吉野 昌夫(よしの まさお、1922年12月19日 - 2012年7月1日)は、歌人。
東京都生まれ。東京大学農学部農業経済学科卒業。府立高等学校(現・首都大学東京)在学中の1942年、北原白秋創刊の歌誌『多磨』に入会し、木俣修に師事。
翌年、学徒出陣。1953年、歌誌『形成』創刊に参加、編集に当たり、1983年の木俣没後は責任編集者を務めた。1997年、歌集『これがわが』で第4回短歌新聞社賞受賞。

著書
『遠き人近き人 吉野昌夫歌集』新典書房、1956年 形成短歌新書 のち短歌新聞社文庫 
『評論木俣修作品史』短歌新聞社、1973年
『夜半にきこゆる 吉野昌夫歌集』短歌新聞社、1975年 形成叢刊
『白秋短歌の究極』短歌新聞社、1977年
『木俣修の秀歌』短歌新聞社、1979年 現代短歌鑑賞シリーズ
『あはくすぎゆく 吉野昌夫歌集』短歌新聞社、1980年 形成叢刊
『歴日 吉野昌夫歌集』短歌新聞社、1981年 現代歌人叢書
『ひとりふたとせ 吉野昌夫歌集』短歌新聞社、1988年 形成叢書
『吉野昌夫集(現代短歌入門自解100歌選)』牧羊社、1988年 
『昏れゆく時も 吉野昌夫歌集』短歌新聞社、1989年 現代短歌全集
『北原白秋の秀歌 鑑賞』短歌新聞社、1995年 現代短歌鑑賞シリーズ 
『これがわが 吉野昌夫歌集』短歌新聞、1996年
『ひつそりありし 吉野昌夫歌集』短歌新聞社、2006年 
『定型の広場 - 歌は音楽、心の調べ─吉野昌夫評論集』久保田登編、いりの舎、2014年
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以上はWikipediaに載るものだが、彼がどういう職業にあったかなどは一切判らない。こういうものでは不完全極まりないと言わざるを得ない。
(追記)この記事を載せたら、山本さんからご連絡があり、吉野氏の本業などをお知らせいただいたので追記する。

<吉野さんの職業ですが、大学を卒業後、農林省に入られ、
 その後、農林漁業金融公庫設立と同時に、農林省を退職し、入庫(三十歳)。
 名古屋に二回ほど転勤しています。
 六十歳で、職をしりぞかれました。最後の役職は理事です。>

この本の[目次]を出しておく。

Ⅰ 定型の広場―定型は歌を音楽するステージ。檻ではない。/歌は音楽 心の調べ/私の中の北原白秋/私の中の土屋文明/木俣修晩年の秀歌50首―妻を歌う

Ⅱ 白秋の「近代」/正師・白秋―修と柊二/木俣修と柊二―二様の誠実/反撥が生んだ個性―「反撥」にこだわらざるを得ない弁/
宮柊二歌集『日本挽歌』―魂の写実/歌は面影―宮柊二小論/宮さんにいただいた詩

Ⅲ 将た生きむとす―白秋の戦時詠/宮柊二おける戦争と平和/戦争の石文

Ⅳ 学徒出陣と短歌/危うさの上で/納得ずくの生と歌/戦後の生活と短歌/年のはじめの―茂吉と文明/心の記憶

装画・吉野信子
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私は「吉野昌夫」は、全く知らない。名前を仄聞するのみである。
そんな私が、彼の本に言及するのも躊躇するが、少し書いてみる。

この本のⅡ.で宮柊二のことがまとめて書かれている。
それは勿論、木俣修と宮柊二が、北原白秋門下だったからだが、戦後は「形成」「コスモス」という大きな短歌結社を始めた当事者だからであろう。
私事だが、私は「コスモス」創刊同人だった安立スハルさんからの縁で短歌の世界に足を踏み込むことになったので、宮柊二には深い親近感を抱いている。
だから、本書のⅡ.の部分は詳しく読んでみた。
宮柊二には『山西省』のような中国戦線での従軍体験詠などの優れた歌があるが、この本でもⅢ.にも「宮柊二における戦争と平和」の文章など誠実味あふれる佳いものである。
図版として最初に掲げた「帯」の文章にも見られるように、吉野昌夫は「学徒動員による戦時体験の傷を終生負いつづけた」ようである。
そこから宮柊二の作歌姿勢にも相通じるものを感じ取ったようである。
宮柊二については、私もこのブログに記事を書いたことがあるので参照されたい。

馬場あき子編 『現代百人一首』に、吉野昌夫の作品が一首引かれている。

  <  暗闇にも休みなく「時」は流れゐて枕もとの時計の追ひすがる音        吉野昌夫  >

また、こんな歌もある。   ↓

   自転車をおりることなく投函し梅の花さく道より帰る

   起きるにはまだ早ければ床の中にとどまりて二度なき生をかなしむ


これらは、吉野昌夫氏の歌集『これがわが』の歌である。

ネット上に出ている西巻真の「ダストテイル─短歌と散文のブログ」に、吉野昌夫の第一歌集『遠き人近き人』に触れたものがあるので参照されたい。
これによると、吉野昌夫には一時、極端な「破調」の歌が作られた時期があり、これらは土屋文明の影響だろうと書かれている。

ここで、本書に載る、短いが、本の題名の「副題」になっている文章を引いておく。

      歌は音楽 心の調べ       吉野昌夫

  照る月の冷(ひえ)さだかなるあかり戸に眼は凝らしつつ盲(し)ひてゆくなり   北原白秋

昭和十二年九月、糖尿病と腎臓病に起因する眼底出血によって白秋は視力に異常を覚えるよ
うになり、十一月十日神田駿河台の杏雲堂病院に入院した。白秋が自ら編集しその目で完成を
確かめた生前最後の歌集『黒檜』(昭15• 8)はこの歌から始まっている。 病室のベッドに差
し込む晚秋の冷えびえとした月の光に不自由な眼を凝らしながらやがては訪れるであろう失明
の恐怖とたたかっていたのである。<月読は光澄みつつ外に坐せりかく思ふ我や水の如かる>
という歌が次に続くが、「月読」は月を神格化した呼称でその月に「眼は凝らしつつ盲ひてゆ
くなり」「かく思ふ我や水の如かる」と無理にも平静を装い、諦めの境地につこうとしている
が、この二首と見開きの頁には東大寺法華寺の月光菩薩の写真が別刷で挿入されている。いよ
いよの場合を覚悟しつつも言外では「月読」=月光菩薩に運命を預けて掌を合わせないではい
られない心のうちが窺われて嘆きは深い。年来の主張「新幽玄」をつきぬけた境地を拓いた
一首と言つてよかろう。
  ニコライ堂この夜摇りかへり鳴る鐘の大きあり小さきあり小さきあり大きあり
入院して一力月余り、ベッドで迎えたクリスマスイブの作。ニコライ堂は病院のすぐ近く窓
から見える距離にある。折しも聞えてきた鐘の音……。街路からも見えるあの鐘楼の大きな鐘
小さな鐘が一斉に鳴りわたってクリスマスイブを摇りかえしている音だけの世界……。視力が
衰えて耳は一層鋭敏になっていた。その耳が集中して捉えたこの一首には不思議な臨場感があ
る。「大きあり小さきあり小さきあり大きあり」の音の遠近法であろう。音といえばこの歌は
三十一音ならぬ三十九音と大きな字余りだが音の緩急が字余りを惑じさせない。「歌を音楽す
る」と言った白秋の音感は、うねり、緩急をもったダイナミックな音量バランス、緊密なこと
ばの結びつきによってガランガランと鳴りわたる鐘の音を音楽的に再現、寸分の隙を感じさせ
ない定型短歌の調べにのせている。初出では<ニコライ堂この夜さやけく鳴る鐘は大きあり小
さきあり小さきあり大きあり>であったが、「この夜さやけく」を「この夜揺りかへり」と一
音字余りにすることにより一首に躍動感を与えより音楽的に鐘の音を活写。「さやけく」の類
型感をも払拭している。「鐘は」は「鐘の」になって生命感を獲得している。白秋は見えない
眼で視心で聞いている。
定型短歌の基調五七五七七そのものに則った一首目。その調べを本質において捉え、その音
楽性を極限まで活用した二首目。白秋は歌いたいと思う心の核心に迫り一首一首動かせない一
首限りの調べを作曲しようと思っていたのではないか。

(草弥・注─傍点、ふりがななどは省略した。また、スキャナで取り込んだので、どうしても「文字化け」が生じる。
 仔細に修正したが、まだあれば指摘してください。すぐに直します。)

折角ご贈呈いただいたのに、不十分な紹介で申し訳ないが、この辺りにしたい。
ご贈呈に深く感謝申し上げる。


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