
↑イスラエルの作詞・作曲家、ナオミ・シェメルの墓。ガリラヤ湖のほとりにあり、ユダヤ人の習慣で訪問者が小石を置いている。
──巡礼の旅──(1)─再掲載・初出2011/06/26(再掲載にあたり構成し直しました)
ナオミ・シェメルの歌『黄金のエルサレム』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
今日はイスラエルの作詞・作曲家ナオミ・シェメルの忌日である。
ナオミ・シェメル(1930年7月13日 ~ 2004年6月26日、英文:Naomi Shemer)は現代イスラエルの最も有名な女性作詞・作曲者で、
イスラエル建国後の重要な場面で多くの歌を発表して、国民から愛唱され、特に「黄金のエルサレム」は第2のイスラエル国歌とまで言われている。

ナオミ・シェメルは1930年に、ガリラヤ湖のほとりのキブツに生まれている。
両親は1920年代にリトアニアから第3次シオン帰還運動で移動してきたユダヤ人で、このキブツの創始者の一家族であり、ナオミは子供時代から特に母からきびしい音楽教育を受けた。
長じてイスラエル国防軍の慰問団で働き、この間にエルサレム音楽・舞踏アカデミー(Jerusalem Academy of Music and Dance)で学んでいる。
結婚して、2児を得ている。2004年、ガンのため73歳で亡くなった。
ナオミ・シェメルは自分で作詞・作曲しているが、女性詩人のラヘル・ブルーシュタイン(Rachel Bluwstein)などの有名な詩にも作曲をしたり、
ビートルズの曲にヘブライ語の作詞をしたりもしている。
イスラエル建国と発展の各過程で依頼されて作った歌も多く、人々の喜び・悲しみ・希望を歌い、多くの人々に愛唱されている。1983年、イスラエル国民栄誉賞を受賞している。
「黄金のエルサレム」 (英語字幕つき) ← クリックして聴いてください。
↑ 一番有名な歌は、1967年のイスラエル独立記念日の音楽祭の招待曲として作られた「黄金のエルサレム」(エルシャライム・シェル・ザハヴ、英文:Jerusalem of Gold)である。
歌の内容はイスラエルの歴史から現代の希望までをカバーしており、含蓄の深いものとなっている。
この歌が作られて直後に六日戦争(第三次中東戦争)が起きて、後でイスラエルがこの戦争で勝ち取った東エルサレムについて(そこにユダヤ人にとって大切な「神殿の丘」と「嘆きの壁」がある)についての4番目の歌詞が追加されている。
この歌があまりにも有名になったため、1968年に国会でイスラエル国歌「ハティクヴァ」に代わる国歌にしようとする動きもあったが、これは否決されている。
今年はイスラエル建国から六十九年。
ユダヤ人にとっては悲願の建国であったが、歴史的にみると、今から三千年も前に古代イスラエル王国は築かれた。
神殿の丘には、エルサレム神殿が建てられ、ユダヤ教の礼拝の中心地として栄えていた。
しかし、紀元66年に始まったローマとのユダヤ戦争で、エルサレムはローマ軍によって陥落し、神殿は壁一枚を残して完全に破壊されてしまった。
神殿の西側に位置するため「西壁」と呼ばれるが、これがいわゆる「嘆きの壁」である。
ユダヤ戦争は、最後の拠点だったマサダの要塞の陥落をもって終結する。
以降、ユダヤの民は世界に離散し流浪の歴史を辿ることになった。
二十世紀になり、第二次世界大戦後にはナチスに迫害されたユダヤ人国家の建国機運が高まり、1948年に国連はイスラエル建国を宣言した。
すると周囲のアラブ諸国は猛反発し、その後の中東戦争へと足を踏み入れることになる。
この歌が作られた1967年当時、エルサレム旧市街やエリコを含むヨルダン川西岸地域はヨルダン領であり、ユダヤ人は自らの聖地で祈りを捧げることも出来なかった。
故郷への想いが綴られた歌詞の一部を下記に紹介する。
黄金のエルサレム
1番
山々の風はワインのように冷ややかで、松のにおいが
夕方の風に乗って太鼓の音と共に漂っていく。
そして木も石もまどろんで夢の中に休むとき、
ただ一人立つこの町は城壁の中にある。
(繰り返し)黄金のエルサレムよ、そして銅と光の町よ、
貴方にとって私は竪琴でありたい。
2番
水ためはどこへ行ったのか、市場は廃墟のようだ。
そして誰も古代の都市エルサレムにある神殿を散策しようとしない(できない)
岩山の洞窟では風がうなりを揚げ(るだけ)、
そしてジェリコを通って死海に下る者は誰も居ない。
3番
ああ、あなた(エルサレム)の歌を歌う日が来たときに、そしてあなたに王冠をかぶせるときに、
私はあなたの子供の中でもっとも若い者よりも小さくなり、あなたの歌い手たちの最後尾につきたい。
さもなくば、あなたの名前が、天使の口付けで私の唇を焼き尽くしてしまう
もし私が、全てが金のあなた、エルサレムを忘れることがあるとしたら。
4番
我々は水ためへ、そして市場に、野原に帰ってきた
つのぶえは神殿の丘に、古代の町(エルサレム)に、響き渡る。
そして岩山の洞窟には、何千もの太陽が昇り輝き、
私たちはジェリコの道を通って、死海へと戻り下っていく。
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この歌が発表された僅か三週間後、第三次中東戦争により、たった六日間でイスラエルは歴史的勝利を収めることになる。
この歌「黄金のエルサレム」は、まるで将来を予言していたかのようだった。
「嘆きの壁」が解放されると市民たちは、そこで真っ先に「黄金のエルサレム」を歌ったという。
↓ 「嘆きの壁」


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エジプトのムバラク政権が倒れて、イスラエルとの共存の模索は宙に浮いた形になってしまった。
ムバラクに徹底的に弾圧されてきたイスラム政党が息を吹き返すのは自明のことであり、彼らがイスラム原理主義に突き進むのかが気がかりである。
「アラブの春」ともてはやされた各国の革命も、その後の推移を見ると、期待外れの観が多い。
政権を取った為政者が強権的な支配を進めることが多く、化石燃料から来る収入も一般庶民には「富」として配分されず、一部の人が恣意的に独占している。
一般庶民は貧しいままで、物価だけが値上がりしているらしい。
イスラエルのユダヤ教徒の中にも対立があり、アラブとの「共存」をめざしていたレビン首相が二十世紀末に暗殺され、以後歴代首相は対アラブ強硬派が政権を占め、
国連決議を無視してヨルダン川西岸にユダヤ人入植地建設を強行してきた。
ナオミ・シェメルは決して無分別の人ではなかったので惜しい人を亡くしてしまった。
イスラエルの生きる道は周辺諸国との「共存」なくしては在り得ないことを認識すべきだろう。
イスラエルについては、後日、十月に記事を四回ほど載せる予定である。
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