
一文字に引き結びたる唇の
地蔵よ雷雨の野づらをゆくか・・・・・・・・・・・木村草弥
この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
「地蔵菩薩」は五十六億七千万年先に弥勒下生、という仏教説話に基づいて衆生を救いにやって来るという。
特に、子供の守り神として古くから庶民に信仰されている親しみのある仏様である。
だから路傍や墓地の入り口に鎮座する「六体地蔵」などで目にするものである。
掲出した歌の一つ前に
風化の貌(かほ)晒せる石が記憶する蜜蜂の羽音と遠雷の響きと
という歌があるが、これも一体のものとして鑑賞してもらいたい。
時まさに「雷雨」の季節であるから、ふさわしいと思う。
私の歌のイメージは、雷雨の中もいとわずに子供たちを引き連れて地蔵が野づらを渡ってゆく、という空想である。

「雷」を「いかづち」と言うが、これは元は「いかつち」で、「いか(厳)」「つ(の)」「ち(霊)」の意味であり、「いかめしく、おそろしい神」の意であった。
だから古くから「いみじう恐ろしきもの」(枕草子)とされてきた。そんな恐ろしい雷雨でも、地蔵には何ら支障はないのである。
そんなことを考えながら、以下の雷雨の句を見てもらいたい。雷は「はたた神」とも言う。
はたた神過ぎし匂ひの朴に満つ・・・・・・・・川端茅舎
夜の雲のみづみづしさや雷のあと・・・・・・・原石鼎
はたた神下りきて屋根の草さわぐ・・・・・・・・山口青邨
赤ん坊の蹠(あなうら)あつし雷の下・・・・・・・・加藤楸邨
遠雷や睡ればいまだいとけなく・・・・・・・・中村汀女
遠雷のいとかすかなるたしかさよ・・・・・・・・細見綾子
激雷に剃りて女の頚(えり)つめたし・・・・・・・・石川桂郎
遠雷やはづしてひかる耳かざり・・・・・・・・木下夕爾
真夜の雷傲然とわれ書を去らず・・・・・・・・加藤楸邨
鳴神や暗くなりつつ能最中(さなか)・・・・・・・・松本たかし
睡る子の手足ひらきて雷の風・・・・・・・・飯田龍太
大雷雨国引の嶺々発光す・・・・・・・・鬼村破骨
| ホーム |