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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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塚本靑史『わが父・塚本邦雄』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
塚本

      塚本靑史『わが父・塚本邦雄』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                      ・・・・・・・白水社2014/12/25刊・・・・・・・・・

「塚本青史」 ← とは、こういう人である。
正式には「靑史」であるが、表記の関係からWikipediaでは「青」の字の表記となっているので、念のため。
念のため、Wikipediaの記事を引用しておく。  ↓

塚本 靑史(つかもと せいし、1949年4月9日 - )は、日本の歴史小説作家。岡山県倉敷市生まれ。父は歌人の塚本邦雄。
靑史が産まれた当時、父・邦雄は商社員として倉敷に在勤していた。邦雄の叔父外村吉之介が館長をしていた倉敷民藝館に間借りしており、靑史はその敷地内で生まれた。
1ヵ月後、邦雄の転勤に伴い島根県松江市へ転居。その地で3年を過ごす。
1952年、大阪府中河内郡盾津町(現東大阪市南鴻池町)へ居を移し、幼稚園から社会人に至るまでその地で育つ。
少年時代の靑史は、野球、魚釣り、昆虫採集が好きなアウトドア派で、父と違ってあまり活字に親しむことはなかったという。
邦雄を訪ねてきた寺山修司や福島泰樹を駅まで迎えに行ったり、三島由紀夫からの手紙をメイルボックスから取り出した青少年時代の経験が、後日文筆に目覚めた動機になっているらしい。
大阪府立清水谷高等学校ではバスケットボール部に所属。同志社大学文学部時代には同人誌『ゐまあごを』に参加し、イラスト作品を発表する。
大学卒業後、京都に本社を置く日本写真印刷(株)へ勤務する。1977年、東京支社へ異動となり、以後は千葉県に在住。
勤務のかたわらイラストレーターとしても活動し、1978年と1981年の『年鑑日本のイラストレーション』(講談社)に作品が掲載されている。
1989年、第11回「小説推理新人賞」(双葉社主催)の最終候補となる。1991年、候補作も含めたミステリ短編集『迫迫』に8篇分の扉絵を配し出版(花曜社)。
靑史は、この一冊で小説家としての地歩を固めた。以後中国史を題材にした歴史小説も展開し、1996年出版の『霍去病』(河出書房新社)が話題になり、文壇デビューを果たした。
1999年3月、日本写真印刷(株)を退職。2000年、父の看病のため東大阪へ帰省(邦雄は2005年6月9日に没)。以後も精力的に作品を発表している。

2012年4月、日本作家クラブ随筆賞受賞。『いすくはし』(平成23年、随筆手帖49号)。
2012年6月、『煬帝』(上下)で「第1回 歴史時代作家クラブ作品賞」受賞。
2014年10月、『サテライト三国志』(上下)で[1]「第2回 野村胡堂文学賞」受賞。

塚本邦雄の著作権継承者でもあることから、塚本邦雄創刊歌誌「玲瓏」の発行人になって、短歌結社の活動を手助けしている。
2003年から、『短歌研究』(短歌研究社)の奇数月号には、邦雄にまつわる逸話を連載している。
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この本の「帯」で、「後記」から引いて、こう書かれている。

<もともと父親の日常など、息子は問題にはしていない。しかし、同じ空間で日常生活してきたことから、不断は公にしていない卑近なことを見聞きしている。
無論、他人に語るべきではないこともあろうが、私しか書けず伝えなければならないこともある。>

この本に関して、アマゾンの書評欄に載る文章を、ひとつ引いておく。

投稿者 大寺萌音 投稿日 2015/5/31

正直なところ、短歌(和歌)や俳句よりも漢詩の方に馴染みがある。
漢詩にかかわる本のレビューはいくつか書いているが、短歌(和歌)にかかわるレビューは『戦後和歌研究者列伝―うたに魅せられた人びと』だけで、しかも同書は「和歌」そのものについて書かれているものではない。そういった私が知る数少ない現代歌人が塚本邦雄である。

本書は、その塚本邦雄について、息子である著者が書いたもので、歌人としての塚本邦雄論ではなく、塚本邦雄という人間に迫るものである。

全体は時系列に沿って、塚本邦雄の人生を辿っている。子どもの頃から辞書を読んでいたこと、戦争中のことなど、いかにもという感じである。
歌人として長く結社に属することなかったものの、幾人かの歌人に強く惹かれ、雑誌を刊行している。
ただ、深く交わった杉原一司は早世(早逝)し、寺山修司はマスコミの寵児となって多忙になり、それぞれの雑誌に熱意を失っていくことも書かれている。
また、愛妻・慶子に寺山、後半生においてマネージメントなどを担当した政田岑生にも先に旅立たれるなど、歌人としての成功とは裏腹な晩年の孤独と軽度だったとはいえ認知症には、胸が痛む。
特に政田とのかかわりで描かれる負の側面については、功成り大家となった人間にありがちなことだけに、塚本邦雄もその弊から逃れられなかったことが悲しい。
(中略)
完全に調べて書いた部分と著者自身の記憶と調査を合わせて書いた部分が混じり合うが、面白いのは著者自身が実際に見聞している後半生だろう。
様々な矛盾を抱えながらも、短歌に深くのめり込む姿が生き生きとしてる。
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上の書評にも少し書かれているが、邦雄の晩年の痴呆症の描写は、なまじ邦雄が有名人であり、博識で古典にも明るく、緻密な頭脳の持ち主であった、と知るだけに、痛々しい。
慶子夫人の死が、そのボケに拍車をかけるようになったらしい描写も迫真的である。
息子だから書けることであり、それを赤裸々に書いた態度こそ「文学者」だと言える。
また「書肆季節社」「政田岑生」に触れた個所なども、近親者なればこそ書けることである。
書肆季節社から本を何冊も買ってきた者として、そうだったのかという感想を抱いた。
荻原裕幸、西田政史らとの葛藤なども初めて知った。
晩年には靑史が邦雄の家に引っ越して面倒を見ていたのたが、2004年頃から、邦雄は靑史に対して「敬語」を使うようになった。
「僕が誰か判ってるんやろな?」 「私の、兄上とお見かけいたします」 「何で兄の方が若いねん?」 「それが唯一、不思議でした」などの描写は痛ましい。
足腰の機能が低下してきたので、邦雄はショートステイのリハビリに行かせていたが、そこで「昼食を喉に詰まらされて、呼吸困難になられましたので病院へお運びしました」と関西医科大学付属病院で亡くなった。
2005年6月9日(木)午後三時五十四分死去。 84歳だった。
前にこのブログにも書いたことがあるが、久保田万太郎の死と同じである。彼も梅原龍三郎邸で誤嚥で死んだのである。

先日六月九日に、塚本邦雄の忌日に彼の記事を載せたので、この本を買ったのも、何かの縁か、符合するものを感じている。


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