K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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『無冠の馬』─私信と抽出歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・黒松武蔵
mukannouma (2)
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   草弥の詩作品<草の領域>
      poetic, or not poetic,
      that is question. me free !
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      『無冠の馬』─私信と抽出歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・黒松武蔵(「南船」編集人)


ここ南九州の梅雨は例年に増して雨が多く、もううんざりしているところです。
その後、いかがお過ごしでしょうか。
先に、歌集『無冠の馬』を拝受しながら、ご返事も差し上げず、失礼いたしました。
実は、4月25日の南日本短歌大会を、私どもの結社「南船」が担当することになり、ここ五か月ほど掛かり切りでありました。
6月21日の委員会で、その反省と決算報告が終わり、安堵のなかでワープロを叩いております。
御歌集はバラエティに富んでいて、大変面白うございました。遅まきながら一筆いたします。

   • 一斉に翔びたつ白さにこぶし咲き岬より青い夜が来てゐる
   ・白もくれん手燭のごとく延べし枝の空に鼓動のあるがに揺るる
   ・チュ一リップはらりと散りし一片にゴッホの削ぎし耳を想ひつ
   ・午年生まれ ましてや無冠のわれながら馬齢を重ね八十五となる

前半の二首、鮮やかな白の捉え方にはっとさせられました。
一首目の、青い岬の方角から夜がくる、としないで、「来ている」と畳み掛けていて、こぶしの花の白さに見惚れていて、気が付くと辺りが夜になっていた、という、二重の気付きの面白さに感心しました。
白と青、上(翔びたつ)と平(岬)という対象の妙が、この歌を立体的に奥行きを与えて、面白くしていると思いました。
しかも、夜が来てゐる、と口語表現になっていて、ほっとした親しみを添えているように思います。
二首目の、白もくれんが手燭のように揺れている様子を、空の鼓動と比喩しているのも見事だと思いました。
こぶしの花は、様々な形で例えられる素材ですが、それを、空の鼓動と捉えたのは、希有ではないでしょうか。
三首目の、ゴッホの耳とは驚きです。なるほど、形状といい、質感といい分かりますが、ここでゴッホが出てくるとは、意表を突かれました。
意外性が比喩の生命であるとすれば、正しく比喩の王道ですかね。
四首目、無冠のわれ、とはご謙遜かと存じますが、この歌集の「無冠の馬」からの連想を効かして、馬齢を重ねる、しかも「午年生まれ」とありますので無冠の馬・馬齢・午年生と、一種のことば遊びめいた、意味の重ねの面白さが効果的に働いているように思います。行き届いた機知を感じます。

   ・落ちやまぬ椿の花よちちふさを包む現の幻影として
   ・蛍光の消えしかなたに目をやりぬ無音の闇に耳が冴えつつ
   ・忍び足で迫りくる夢ふたつ三つ限りある時間の愛着のやうに

一首目の、椿の花は、つい前出のチューリップの歌を思い出しましたが、チュ—リップは「はらりと散りし」でしたが、こちらの方は、「落ちやまぬ」ですから、しきりに落ちるという、連続した動態が違うのですね。
その意味で、「はらりと散りし」は、一回きりの、正しく一片ですから、同じ落花でもかく違うというわけです。
その、椿の花が女性(にょしょう)の乳房(ちちふさ)を、あたかも包むかのように散りしきるというのですから、落花の同じ表現とはいえ、ゴッホの耳とはかくも違うというわけです。
見事な対照というべきでしょうか。
二首目の、蛍光そのものでなくて、蛍光の消えた彼方を歌っているのが第一に面白い。そして、無音の闇というのも面白い(聴覚と視覚•触角)。
さらに、無音の闇に耳が冴える、という感覚の矛盾の面白さ。つまり、二重三重に仕掛けがあって、この歌は成り立っている。
私は、この歌からとっさに茂吉の
    *くらやみに向ひてわれは目を開きぬ限もあらぬものの寂けさ   (つゆじも)
という歌を思い出しました。私の好きな茂吉のべスト5の中の一首です。
茂吉は闇の中に寂けさを聴いているのですが、ご貴殿の歌も同趣で、闇に聞耳を立てて何かを聴こうとしている。そういう、闇への積極的な対処の姿勢、つまり感受の姿勢は、同じであります。
三首目は、忍び足で迫ってくる夢、というのは八十二歳のわたしも同感であります。
忍び足で来なくても、ちゃんと堂々と正面から来ればいいじゃん、と思いたくなるのですが、この年になってみると、全てが忍び足であったり、後からだったり、思いがけなかったりで、始末に負えません。
限りある時間、とはそのものズバリで、いつもそうした予感ないし閉塞感にさいなまれております。
しかし、そうした時間の在り方に、愛着を抱くとありますところからは、ご貴殿の果敢な生への姿勢が伺えて、敬服いたします。

   ・茶の花の散るを寂しと思ひゐる父の蔵書に古き書き込み
   ・大津絵の鬼が笑まへる店先をかすめるごとく山車曳かれゆく

お父上は、何か文芸(或いは芸事)に関わりをお持ちの方だったと拝察されますが、そうしたお父上の何気ない蔵書への書き込みに、目ざとく反応するご貴殿の感性に打たれることはいうまでもないのですが、同時に、ご貴殿が反応(或いは共感)せざるを得ないお父上の感性の世界と、いわば共通項で結ばれる、そうした親子関係を希有のことに存じ、また羨ましく存じます。
二首目は、全くの写実ですが、着眼の面白さは格別と思います。静(大津絵の鬼)と山車の動の対照的なところも惹かれる一つですが、その大津絵の鬼が笑っているというところが、憎らしいです。
私も、大津絵は学生時代、三井寺でしたか、ともかくお寺の展示物をガラス越しに拝見して、太い輪郭線と鬼の顔が幾らかユーモラスに描かれているのを、印象として覚えております。
後年、棟方志功を知るに及んで、その絵の類似性に面白さを覚えたものです。
これで「無冠の馬」が終わりました。

が、この先、この調子でいくと…と危惧されますので、ここで転調とまいります。
実は、スリランカは二つほど紹介したいことがあります。
私は、2 0 0 1年クィーンエリザベス2世号(通称QE2)で、神戸から口ンドンまでクルーズの旅をいたしました。
QE 2がペルシャ湾へ行けたのは、それが最後で、後はインドのムンバイから南アフリカ経由でカナリア諸島を巡って、ロンドンへというコースになってしまいました。あわや、セーフでした。
その折、スリランカは国内事情(政情不安)で、観光ができず、埠頭に市場がたって、買物をしました(紅茶をどっさり)。夕ラップに近いところでは、一箱が5ドルだったのが、一番遠いところでは2箱を6ドルに(沢山買うからと)負けてもらったものでした。
象と、上半身裸の男子の太鼓踊りの歓迎がありました。同地での私の歌2首
     *赤白に身を飾りたる六人のリズム激しき踊りとぎれず
     *上半身ほぼ裸にてスカートの白のひらめきに太鼓はげしき
もう一つ、私の教えた生徒で、現在熊本の崇城犬学芸術学部の准教授(彫刻)をしているKなる女性がおりますが、この女史がスリランカの仏像にはまっておりまして、『スリランカの仏像』という本まで出しております。スリラン力の仏像と結婚してしまいました。それほど魅力的なのですね。

   ・巨いなるドームのごとく横たはるストラスブール駅朝もやの中

旅の歌として、なんとのんびりとして爽やかな情景かと、うっとりししてしまいます。ストラスブールということばの響きもよし、横たわるという表現もよし、すっかり気に入りました。
この歌に接しただけで、行ってみたくなります。ドイツ風の木組みの家多し…、わかるわかると納得です。
そうは言いながら、実は、私はこの木組みの家という代物を、実際には目にしておりません。
それでも、映画やビデオでお馴染みとあって、ぱっとイメージが湧いてきますから、不思議といえば不思議です。恐ろしいすり込みです。

   ・'祇園祭の鉾に掛かれる「胴掛」のゴブラン織はリヨン産なり

リヨンは、NHKの「街かど」でしたか、織物の工房を巡る番組があり、昔から伝統のある布の産地として紹介されておりました。
また、花を飾る街、大きな城塞や教会のある街という別の印象もあります。フランス屈指の文化都市としても名も馳せております。
実は、大学時代の親友(私は、当時詩人の伊東静男に熱を挙げていて、卒論もこの人)が文芸部で一緒だったのですが、仏文のその友人がリヨン大学に留学していて、帰国後、大学の教授をしていました。
定年後、バカンスでリヨンの知人の家が空くから、夏に一緒に行かないかと誘いを受けたことがありました。その頃、妻の具合が悪く、海外旅行も断念していたときでしたので、残念ながら見送ったのでしたが、今もって心残りです。
出掛けていたら、フランスの文化に直接触れて、感慨を歌に残せただろうにと、今更のように惜しまれてなりません。フランスは、通過点として、パリ観光をしただけです。昼間のエッフェル塔とモンマルトル、夜のリドぐらいです。

   ・休息のホテルの昼に同行のU氏離婚の秘め事洩らす

一読して、ちょっと短篇めいた面白さだなと感じ入りました。第一、外国のホテル、それも昼間でしょう。そういう場所・時間に離婚の話ですか。敵も然る者ですね。
一昨年でしたか、大学の仲間たちが、私の歌集出版に合わせて、柳川でクラス会を企画してくれましたが、その折の歌にこんなのがあります。
     *船頭の秘めごとめきし話なども聞かされてをり川下りつつ
旅先というのは、雰囲気として、そういう話題が生まれ易いのでしようか。
見知らぬ土地、その場かぎりの人たち。その中で、妙なかたちの仲間意識みたいなものが成り立ち易いのかも知れません。

   ・回廊の連子窓に見放くる下界には樹林の先にシェムリアップの町
   ・夕陽あかき野づらの果てを影絵なして少年僧三人托鉢にゆく

一首目、遥かな思いといいますか、クメール王朝期のゆったりとした時間の流れが、今に引き継がれているかのような錯覚を覚えます。
樹林の先に…というのも遥かな思いを誘いますが、その先にシェムリアップの町が遠望されるというのもまたいい。
先に、ストラスブールという言葉の響きの良さに触れたと思いますが、このシェムリアップという町の名も、そうしたストラスブール効果と同じように、どこか懐かしい響きがあります。
私には、一種音楽的にさえ聞こえてくるから不思議です。
二首目、どこか童謡の「月の砂漠」を連想させます。とりわけ、下の句の描写が無駄な表現がなく、きっちりと書き割りの中に納まっていて、ある種、絵はがきを見ている思いがします。
ここでも、ゆったりとした時間の流れを感じてなりませんでした。影絵(シルエット)なして、という表現効果は、少年僧三人という数詞との対比で、歌を立体的なものにしているように思います。

   ・牛に引かす荷車に木舟のせてゆく先はトンレサップか
   ・水牛に水浴びさせる少年の総身に水滴したたりやまず

トンレサップ湖は、NHKの特集で見ましたが、雨期と乾期で、湖水の深さが大いに異なるため、舟での湖上生活や魚業もそれに巧く合わせているとのこと、お作を拝見して納得がいきました。
二首目の、少年の総身に水滴がしたたり止まないとい描写は、逞しい少年の肌の色つやまで見えてくるようで、そこを流れ落ちる水滴の輝き具合と一緒になって、爽快感あふれるシーンを現出しているように思いました。

「ギリシア補遺」からは、印象に残りました歌を挙げるだけに止めて、この稿を終わりたく存じます。ご了承ください。
   ・石棺の四面に描くフレスコ画ミノアの人の死者の儀式ぞ
   ・黒衣なる聖職者が八百屋の店先で買ふ葡萄ひと房

あと、「幽明」から少し引きます。
   ・PSAの示す数値よ老い初めしうつしみに点す哀愁の翳
   ・猛々しき男ならざる我ながら男を止めよと言はるる哀れ
   ・「夫婦して癌と共生、なんちやって笑はせるわね」妻がつぶやく
   ・誕生日三月五日にと空輸されし薔薇シャンペン・ゴールド見分け得ぬ哀し
   ・夢うつつに希ふ心理のもたらすか幻の孫の血液型を言ふ
   ・たやすくは人は死ねざり赤だしのごときを妻は吐きつづけ 果つ
   ・哀しみとポテトチップスと比べつつしあはせ計れば鳴る赤ケトル
   ・さまざまの過去を抱きて来し人ら菜の花の黄に鈴鳴らしゆく

平成27年7月6日         黒松武蔵
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黒松武蔵氏については歌集『とかげ再び』を贈呈されたときに文章を書いたことがある。 ← アクセスされたい。




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