FC2ブログ
K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
202007<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>202009
原田亘子詩集『バンソウコウください』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
原田

──新・読書ノート──

      原田亘子詩集『バンソウコウください』・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
                    ・・・・・・・私家版2015/05/25刊・・・・・・・

この詩集の「あとがき」で、原田さんは、こう書いている。

<国分寺の小さなキャラリーで一人の女の子に会いました。
 一目見て、この子と一緒に詩集をつくりたい、つくられたらいいな、と思いました。
 その思いがかないました。生きているって、なんとありがたいことでしょう。
 誰のこころの中にも棲んでいる少女(少年)と手を離さなければ、風も樹も草も、空の青さや白い雲も、
 洗いたての自分にしてくれる。風と風のすきまから愛がそよいでくる。
 そんなことを、国分寺のギャラリーで出会った少女におしえられた気がしています。
 その少女を描いてくださった版画家の三好まあやさん、
 そしてオロオロしながら詩(のようなもの)を書きつづけてきた私にとってのミューズである高橋順子さんに、
 こころから感謝申しあげます。>

図版で出した表紙絵などは三好まあやさんのものである。

この本については「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」に採り上げられている。 ↓
----------------------------------------------------------------------------
原田亘子『バンソウコウください』

2015-07-14 10:42:58 | 詩集

原田亘子『バンソウコウください』(私家版、2015年05月25日発行)

 原田亘子『バンソウコウください』のタイトルになっている詩は、ひざ小僧をすりむいた子どもが「バンソウコウくれませんか」と家を訪ねてきたときのことを書いている。
見知らぬ子だけれど手当てをしてやる。子どもは手当てが終わると、「戦士のような勢いで」ぱっとは帰っていく。「とり残されたわたしは/束の間のナイチンゲール」。
そのことを「いい夢をみたのかしら」と思う。その「内容」よりも、

 あのぉ
 バンソウコウくれませんか

 という子どもの口語とタイトルの「バンソウコウください」が違うことが、私にはとてもおもしろかった。子どもの「声(ことば)」はそのまましっかり聞き取っている。
しかし、原田はそれを「タイトル」にしていない。自分で言い換えている。
 ここが、とてもおもしろい。
 「……くれませんか」と「……ください」と、どちらがていねいな言い方か、地方によって(個人によって)受け止め方は違うだろうけれど、私は「……くれませんか」の方が、「もし……していただけるなら」という前提を含んでいると感じるので好きである。店で物を買うときも「……はありますか」よりも「……はありませんか」という方が相手を気づかっているとは思うのだが、九州では「……はありませんか(……はないですか)」と言うと「ありませんか(ないですか)、とは失礼だ。ないと思うなら聞くな」という反応がかえってくる。「……はありますか」だと、もし、ない場合に、相手を傷つけることになると私は考える方なのだが……。
 原田はどっちだろう。そして、子どもはどっちだろう。
 私には、子どもの方には、もしあるならば、という気持ちがあると思う。こんなことを知らない人に頼んで申し訳ないのだけれど、「できるなら」助けてくださいという気持ちがあると思う。
そのおずおずとした感じが「あのぉ」という呼びかけにも含まれている。そう感じる。
 原田も、それを聞き取ったと思う。聞き取ったけれど、そしてそのことばをそのまま書き留めもしたのだけれど、タイトルにするときちょっと気持ちが変わった。そんなに気をつかわなくてもいいのに。「バンソウコウください」で大丈夫なんだよ。私の方がナイチンゲールになることができてうれしかったんだよ。助けられたのは私なんだよ。ありがとう。そういう気持ちがバンソウコウ「くれませんか」を、バンソウコウ「ください」に変えたのだ。自然に、そう変わってしまったのだ。
 原田のことばのなかには、そういう動き(変化)が自然に起きている。他人のなかで動いたこころをそのまま正確に受け止めるだけではなく、受け止めたあと、そのこころがもっと自由に動いていくのを支えるような力がある。少年の喧嘩を描いた「折れた樹の枝」にもそういうことを感じだ。
 でも、ここで引用するのは、そういう子どもとの対話、人間との対話ではなく、少し違った「出会い」。「花大根」という作品。

春になると
散歩道の側溝に
きまって咲く花大根
今年は赤まんまも
となりでいっしょに咲いている

どうして?
お日さまもあたりにくいのに
聞いてみようと
のぞきこんだら

ヌッ、と
大きな白い猫が顔をだした
自分の家のドアを開けるような
顔をしている

大切な庭先に
入り込んでしまったのかしら

「気をつけてよ」
少し汚れたお尻をふって
花大根のむこうを
歩いて行った

 猫だから「気をつけてよ」というような「日本語」を話すわけではない。けれども原田には、そう聞こえた。原田は瞬間的に猫になっている。
そのとき、そこには猫だけがいるのではなく、原田が出会ったひとの姿も重なっているのだが、この瞬間的な変化のなかに原田の「反省」のようなものが含まれる(他人との対応の仕方が含まれる)のがおもしろい。「そうか、他人の領分にはかってに踏み込んではいけないのだな。知らず知らずに他人の領分に踏み込んでしまうことがあるのだな。申し訳ないことをしたなあ」と振り返っている。人柄が、滲み出ている。
 そして、このこころの動きは、実は猫に出会う前からはじまっている。


今年は赤まんまも
となりでいっしょに咲いている


 この「となりでいっしょに」が原田の生き方の基本なのだ。だれかのとなりでいっしょに生きている。
いっしょに生きているひとのこころを受け止めながら、それを支えると言ってしまうとおおげさだし、なにか違ったものになるのかもしれないけれど、しっかりと受け止め、自分の生き方をととのえる(自分の行動のあり方を振り返る力)にしている。「お日さまもあたりにくいのに」とかってに考えたけれど、そこに生きている草花、猫にとっても「大切な」場所なんだと気づく。そして、ことばが変わっていく。
 自然に、そういうことをしてしまう人なのだろう。文学の価値は作者の「人柄」によって決まるものではないけれど、私は「人柄」が感じられる作品が好きだ。
------------------------------------------------------------------------------
この本には全部で37篇の詩が収録されているが、その中から、いくつか私の目にとまったものを引く。

    スイートコーン

  とれたての
  とうもろこしは
  太陽からもらった歯並び
  ひと粒ひと粒が
  黄金にかがやいて

  口にふくむと
  大地の甘さと
  空の逞しさを
  語りだす

  歯切れよく
  スイートに

    手と手

  霧の深い朝は
  手をつないで
  登校した

  一人では
  生きられない

  小さな手と手は
  よくわかっていた


    真紅の女(ひと)

  角をまがって
  思わず
  後退りした

  目の前に
  真紅の女がいる

  帽子もスーツも
  ストッキングもハイヒールも
  帽子に付いている花までも
  赤一色に染まっている

  その姿で
  何事もなく、と言いたげに
  悠然と歩いて行った

  見まちがえたのかしら わたし
  ポインセチアの花の精を

  十二月の空の下だもの


    恐山のかざぐるま

  かざぐるまは
  風とはあそびません
  ここでは
  かざぐるまは
  かなしみの井戸から
  涙をくみあげる
  風車(ふうしゃ)です

  いろとりと゜りの
  かなしみが
  天にとどいて
  救われますように

  祈りのこころを
  絶えまなく
  くみあげています
  風が強ければ 強いほど
  空にむかって

-----------------------------------------------------------------------------------
原田さんについては、拙ブログで『忘れてきた風の街』 ← で採り上げたので参照されたい。



コメント
コメント
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
copyright © 2020 Powered By FC2ブログ allrights reserved.