K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統べられつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
img008エッサイの樹
 
        「はじめに言葉ありき」てふ以後われら
          混迷ふかく地に統べられつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


「エッサイの樹」というのは、「旧約聖書」に基づいてキリストの系譜に連なるユダヤ教徒の系統図を一本の樹にして描いたものであり、
西欧のみならず中欧のルーマニアなどの教会や修道院にフレスコ画や細密画、ステンドグラスなど、さまざまな形で描かれている。
掲出の写真はブロワの聖堂の細密画である。

誤解のないように申し添えるが、「ユダヤ教」では一切「偶像」は描かない。
キリストは元ユダヤ教徒だが「キリスト教」の始祖でありカトリックでは偶像を描くから、エッサイの樹などの画があるのである。
偶像を描かないという伝統を、同根に発する一神教として「イスラム教」は継承していることになる。

この歌は私の第四歌集『嬬恋』(角川書店)に載せたもので、自選60首にも収録したので、Web上でもご覧いただける。「エッサイの樹」と題する11首の歌からなる一連である。

p10-11エッサイ南面フレスコ

写真②はルーマニアのヴォロネッツ修道院の外壁の南面に描かれた「エッサイの樹」のフレスコ画である。
ルーマニア、ブルガリアでは、こういう風に修道院の外壁にフレスコ画が描かれることが多い。西欧では、先ずお目にかかれない。

「ステンドグラス」に描かれたものとしてシャルトルの大聖堂の写真を次に掲げておく。
右端のものが「エッサイの樹」。
f0095128_23431642シャルトル大聖堂エッサイの樹

img028今治教会のステンド
写真④に掲げたのは、今治教会のエッサイの樹で、シャルトルのブルーといわれるシャルトル大聖堂のエッサイの樹の複写である。細かいところが見てとれよう。

なお先に言っておくが「エッサイ」なる人物がキリストと如何なる関係なのか、ということは、後に引用する私の歌に詠みこんであるので、
それを見てもらえば判明するので、よろしく。
いずれにせよ、昔は文盲の人が多かったので、絵解きでキリストの一生などを描いたものなのである。
p03000エッサイの樹の祭壇

写真⑤はブラガ大聖堂の「エッサイの樹」の祭壇彫刻である。
こういう絵なり彫刻なり、ステンドグラスに制作されたキリストの家系樹などはカトリックのもので、プロテスタントの教会には見られない。
とにかく、こういう祭壇は豪華絢爛たるもので、この「エッサイの樹」以外にもキリストの十字架刑やキリスト生誕の図などとセットになっているのが多い。

私の一連の歌はフランスのオータンの聖堂で「エッサイの樹」を見て作ったものだが、ここでは写真は撮れなかったので、失礼する。
以下、『嬬恋』に載せた私の歌の一連を引用する。

  エッサイの樹・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

「エッサイの樹から花咲き期(とき)くれば旗印とならむ」とイザヤ言ひけり

エッサイは古代の族長、キリストの祖なる家系図ゑがく聖堂

ダビデ王はエッサイの裔(すゑ)、マリアまたダビデの裔としキリストに継ぐ

その名はもインマヌエルと称さるる<神われらと共にいます>の意てふ

聖なる都(エルサレム)いのちの樹なる倚(よ)り座(くら)ぞ「予はアルパなりはたオメガなり」

樹冠にはキリストの載る家系樹の花咲きつづくブルゴーニュの春

オータンの御堂に仰ぐ「エッサイの樹」光を浴びて枝に花満つ

とみかうみ花のうてなを入り出でて蜜吸ふ蜂の働く真昼

大いなる月の暈(かさ)ある夕べにて梨の蕾は紅を刷きをり

月待ちの膝に頭(かうべ)をあづけてははらはら落つる花を見てゐし

「はじめに言葉ありき」てふ以後われら混迷ふかく地に統べられつ
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ここに掲出した歌の中の「はじめに言葉ありき」というのは、聖書の中の有名な一節である。あらゆるところで引き合いに出されたりする。
それが余りにも「規範的」である場合には、現在の地球上の混迷の原点が、ここから発しているのではないか、という気さえするのである。
だから、私は、敢えて、この言葉を歌の中に入れてみたのである。
前アメリカ大統領のブッシュが熱心なクリスチャンであったことは良く知られているが、彼は現代の「十字軍」派遣の使徒たらんとしているかのようであった。
中世の十字軍派遣によるキリスト世界とアラブ世界との対立と混迷は今に続いている。
はっきり言ってしまえば「十字軍派遣」は誤りだった。今ではバチカンも、そういう立場に至っている。
頑迷な使徒意識の除去なくしては、今後の世界平和はありえない、と私は考えるものであり、
この歌の制作は、ずっと以前のことではあるが、今日的意義を有しているのではないか、敢えて、ここに載せるものである。
2007年に起こったアフガニスタンでの韓国人「宣教団」の人質事件なども同様の短慮に基づくものと言える。
イスラム教徒はコーランに帰依して敬虔な信仰生活を営んでいるのであり、それを「改宗させよう」などという「宣教」など、思い上がりもいいところである。
誘拐、人質と騒ぐ前に、お互いの信仰を尊重しあうという共存の道を探りたいものである。


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