K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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ペン胼胝の指を擦ればそのさきに言葉乞食が坐つてゐるよ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
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     ペン胼胝(たこ)の指を擦(さす)ればそのさきに
           言葉乞食が坐つてゐるよ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るものである。
自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。

今どきの若い人のペンの持ち方は変な指使いになっているので、ペン胼胝が、指のどの辺に出来るのか、あるいは出来ないのか、私には判らない。
いちばん自然なペンの持ち方をすれば、親指と人差し指でペンをつまんで、中指に添えて握るので、ペン胼胝は中指の第一関節の前あたりに出来るのが普通である。
「事務屋」として人生の大半を過ごした人には、この「ペン胼胝」があるのが普通だろう。
もっとも、この頃では事務処理もコンピュータになったから入力も「キーボード」で、したがって指先を使うことが多い。
以前は手書き伝票などは何枚複写かになっていて、力を入れて書く必要があったから、職業病として「ペン胼胝」は、その人の証明書のようなものであった。
「ペン胼胝」のことを長々と書いたが、私の歌の本題は「言葉乞食」ということにあるのだった。

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文芸表現者の端くれとして長年やってきたが、文芸表現というものは、つまるところ斬新な「言葉」探しに尽きると言えるだろう。
それを、私は「言葉乞食」と言ってみた。言葉探しにうろうろと歩き回る乞食のような存在だということである。
聖書の言葉に「はじめに言葉ありき」というのがある。
これは、キリストの言葉(教え)が、すべてに優先する、というのが厳密な意味ではあるが、この言葉をもじって言えば、文芸表現者にとっては、何よりも「言葉」が大切であって、
いかに表現する言葉を選ぶかに腐心するかに執着するからである。
「言葉」探しは、散文よりも「詩」においては、特に大切である。
なぜなら、詩は短いから、言葉を、より的確に選ばなければならない。

何度も書くので恐縮だが、ポール・ヴァレリーの言葉に

  <散文は歩行であるが、詩はダンスである>

というのがある。この言葉に初めて遇ったのは、まだ20歳くらいの頃、三好達治の文芸講演会があって、彼の口から聞いて、他のことは忘れたが、この言葉だけは、
今も鮮明に記憶の中にあるのだった。
これこそ、散文と詩との違いを過不足なく、的確に言い表したものであろう。
「詩」の用語というのは、それだけ吟味して選び抜く必要があるということである。
私の詩や歌が、果たして、それを勝ち得ているかどうかは心許ないが、その方向に努めているということだけは言えるだろう。
どうしても「日常」に堕してしまいがちなので、日常の「陳腐」な言葉に埋没してしまっては、いけない。
もっとも、日常の陳腐な言葉でも、使い方によっては「詩語」に転化できるということは、ある。
要は、それらの言葉の使い方が「斬新」であるか、どうかが問題になって来るのである。

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