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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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<明星の出でぬる方の東寺>などて迷ひを抱きませうぞ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
24最御崎寺
 ↑ 四国霊場第24番札所「最御崎寺」

  ■<明星(あかぼし)の出でぬる方の東(ひがし)寺>
     などて迷ひを抱きませうぞ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


昨日付けで玉井さんの本を採り上げた関連で私の「四国遍路」の歌を出しておく。
角川書店「短歌」2007年2月号に「艸木茂生」のペンネームで「明星の」14首の歌を編集部寄稿依頼として発表した。
全文は、詩集『免疫系』(角川書店)で読んでほしいが、「四国遍路」に関する部分を、今日は書いてみる。 
自歌解題の形になる。

先ず、掲出歌のことから。
高知県室戸岬の突端に、四国霊場第24番札所「最御崎寺」(ほつみさきじ)というのがある。
下記に、そのお寺の簡単な説明文を貼り付けておく。

本尊: 虚空蔵菩薩
真言: 「のぅぼう、 あきゃしゃ、 きゃらばや、 おん あり、きゃまり、 ぼり 、そわか」
詠歌: 「明星の 出でぬる方の 東寺 暗き迷いは などかあらまじ」
縁起: 正しくは最御崎寺と言うのですが、普通、東寺と呼ばれており、室戸岬の突端の山の上にあります。
弘法大師が19才の時、仏法の迷いを払わんとして、大和の国大峰山から高野山ヘ、更に阿波の太龍寺へ登り、命がけの難行苦行をされましたが、悟りを開くことができませんでした。そして次に来られたのが、この室戸だったのです。果てしなく広がる太平洋の自然を前にして、雨の日も風の日も勤行を続け、ついに悟りを開かれたのでした。「法性の 室戸と言えど 我住めば 有為の波風 立たぬ日ぞなし」と詠まれたように、東の空に光を放つ明星の暗示により悟りを開かれました。そこで山の上にお寺を建てられましたのが、この24番東寺で、本尊の虚空蔵菩薩はお寺の創建と共に大師が刻まれたものです。

この歌の前に

     ■最御崎(ほつみさき)いづれば虚空に風立ちて御厨人窟(みくろど)といふ洞の見えつつ・・・・・・・・木村草弥

という歌がある。
私の歌は、上記の説明文にあるように、ご本尊の虚空蔵菩薩の名前をいただいて「虚空に風立ちて」と表現している。
<>の中には、ご詠歌にある「明星の出でぬる方の東寺」をコラージュとして引用させてもらい、かつ、「迷いはなどかあらまじ」を私なりに砕いて歌の中に取り込んだものである。
この辺りのくだりは千数百年の謂れのあるものであり、その謂れに素直に私の歌を添わせた方がいいと思って作ったのが私の表現になっている、と理解してほしい。

ここは、文字通り「室戸岬」の突端の岩の上にある寺で、いつ行っても風が強い。
ここには野生の椿の林があり、そのトンネルの中をくぐって室戸岬灯台に行けるようになっている。椿のトンネルが防風林となって、椿の林の中は風もなく穏やかである。
この寺を出て少し行くと、空海も籠ったという洞窟がある。
私の歌では「御厨人窟」としてあるが、これは現地での説明文によるものだが、こう書いてある。

800px-Mikurodo_01みくろど
↑ 御厨人窟 (みくろど) 

  < 岬から1キロほど離れた海岸に、「御厨人窟 (みくろど) 」という海食洞穴があります。
  この洞穴にこもり、虚空蔵菩薩への祈りを唱え続けていた真魚の口に、ある日突然“光り”が
  飛び込みました。

  その瞬間、世界のすべてが輝いて見えたらしいのです。
  洞穴から見える外の風景は、「空」と「海」だけでしたが、その二つが、今までと全く違って、
  光り輝いて見えました。そのときから、真魚は「空海」を名乗るようになりました。

  「光り」が入ったときに、空海は“悟った”のでした。求聞持法を会得し、無限の智恵を手に
  入れたのです。 求聞持法会得に至るまで、空海は四国のけわしい山々で修行をするのですが、
  このとき修行したといわれるところが、「四国八十八ヶ所」のお寺になりました。 >

玉井清弘さんの『時計回りの遊行』では「御蔵洞」(みくろど)と表記してあるが、玉井さんの本の記述の方が訓み方が自然であると思う。

26金剛頂寺
 ↑ 第26番札所「金剛頂寺」

  ■薬師(くすし)なる本尊いまし往生は
      <月の傾く西(にし)寺の空>・・・・・・・・・・木村草弥


掲出歌につづいて、この歌が載っている。室戸岬から少し戻ったところにあるのが第26番札所「金剛頂寺」である。

本尊: 薬師如来
真言: 「おん ころころ せんだり まとぅぎ そわか」
詠歌: 「往生に 望みをかくる 極楽は 月の傾く 西寺の空」
縁起: 大同二年(807年)、勅願により弘法大師が開基した寺です。本尊の薬師如来は弘法大師が刻まれたもので、現在まで一度も人の目に触れたことのない秘仏です。
海抜160mの山の上にありますが、室戸岬の最御崎寺と相対しているところから、最御崎寺を東寺、こちらを西寺と呼んでいます。昔は沢山の僧侶や修験者などがいた大きいお寺でした。
今から500年前の文明年間、火災のため焼け、再建されましたが、明治時代に再び火災に遭い、全焼しました。しかしすぐ又再建され、現在も諸堂備わる立派なお寺です。宝物館や鯨館も新しく建てられています。これらは西寺の檀家で、太洋漁業の南氷洋の捕鯨船の砲手となり、やがて会社の重役さんにまで出世した人が、鯨1万頭を捕った記念にこちらに寄贈したものです。
明治時代までは室戸沖でも沢山の鯨が捕れたそうです。よく、「鯨一頭、七浦栄える」と言われていますが、大漁の時には浜は大変な景気で、道行くお遍路さんにも鯨の肉を接待したそうです。ところがお遍路さんには肉類は禁物で、折角もらってもお大師様の手前食べるわけにいかず、民家に持って行ってお米と替えてもらったそうです。

上記の説明文にもある通り、ご本尊は薬師如来であり、私の歌は、ご詠歌の「往生」と「月の傾く西寺の空」のフレーズを借用している。
因みに、四国88ケ寺のうち、ご本尊が一番多いのが薬師さんであり、全部で23ケ所ある。これを見ても、昔は如何にも病気などが多かったので、その平癒のために「お薬師さま」を祀って祈願したかが判るのである。

henro遍路

これらの歌の前には

 ■渦潮を見つつ辿れる海道は落花しきりの鳴戸の春ぞ ・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥

 ■さまざまの過去を抱きて来し人ら菜の花の黄に鈴鳴らしゆく

 ■鎮魂の念(おも)ひやまずも南(みんなみ)の里べの土を踏みて歩めば

などの歌が連なっているが、四国霊場巡りは阿波・徳島から始まるのだが、折しも桜の季節の終りで、菜の花の咲く頃だったということである。
先年にも書いたが、この千二百キロとも千四百キロとも言われる「四国遍路」は、阿波の「発心の道場」、土佐の「修業の道場」、伊予の「菩提の道場」、讃岐の「涅槃の道場」と繋がっている。
ここで「四国八十八箇所」のリンクを貼っておくので参照されたい。

私の行程は、2008年一月で伊予(愛媛県)を打ち終えて、二月からは最後の讃岐(香川県)を二回に分けて辿ることになった。
巡拝することを「打つ」というが、これは昔は「納め札」に「片木」を使っていたことに由来するという。
俳句の季語では遍路は「春」の季語だが、前にも書いたように、夏は梅雨の季節をはじめとして「降雨」に遭うのが巡礼には辛く、また夏の「酷暑」も苦しい。また冬も外歩きは寒くて辛いものである。私たちのようなバスによる略式の巡拝でも、一日中寒気の中を歩くのは身にしみるものがある。
今まで書いてきた中に「空海」「虚空蔵菩薩」などが出てきたが、仏教ないしは「密教」というのは深い智慧を有したものであり、軽々しく語ることは出来ないが、ネット上で見られる教義のさわりを、以下に貼り付けておく。

 虚空の音を聞く、虚空を見る

虚空蔵求聞持法

----「虚空蔵」とは

弘法大師空海は、若い時に「虚空蔵求聞持法」というマントラ・ヨーガの瞑想修行を
海辺の洞窟の中で体験しました。この修行により、彼は抜群の記憶力が得られ、
その後の成功につながったと信じられています。

この「虚空蔵」とは、サンスクリット語のアーカーシャガルバのことで、
神智学のブラバッキー女史や人智学のシュタイナーが「アーカーシャに参入する」
と語っているところでもあるのです。

「虚空」とはなんでしょうか? 一般的には空間には何もないと信じられています。
しかし、真言密教ではその
「虚空」にこそすべてのものが収められており、虚空蔵、虚空蔵菩薩がいる
と述べているのです。
 
----「求聞持(ぐもんじ)法」とは

ビックバンという宇宙創造の時は、何もない虚空から物質が産み出されたのです。
密教では物質の構成要素として地・水・火・風の物質性を考え、
そこに重々無尽(融通無碍)に浸透している、虚空(空・エーテル・氣)を考えました。

弘法大師空海は、その虚空の空間に入ると
「五大に響きあり、十界に言語を具す」
(物質と精神には響きがあって、それぞれに言葉を用意している。声字実相義)と述べています。

求聞持法とはアーカーシャの音を聞くという体験なのでしょう。
同じ体験をした行者(ヨギ)がインドにいます。
パラマハンサ・ヨガナンダは自署「あるヨギの自叙伝」の中で 
「創造の波動オームとして、宇宙に鳴り響いている宇宙原音に意識を合わせたヨギ(ヨガ行者)は、
 その音を直ちに自分の理解できる言葉として聞くことが出来るのである」と述べています。

虚空の音を聞く

あなたも雑踏の中でさまざまな音を聞いているうちに、自分の携帯電話の音が聞こえてきた経験はありませんか?
ケイタイを取り出すと鳴っていないのに、音が聞こえた経験です。
私たちの脳内には今までに記憶していた音が残っているのです。

この記憶が感覚器官に伝わることにより、音を聞いたという意識になるのです。
つまり耳の記憶を引き出して来ることができれば、音がなくても音を聞いたという体験が得られるのです。

臨済宗を復興した白隠禅師は、隻手(せきしゅ)の声という公案を考えました。
隻手とは片手のことです。この隻手の声がわずかでも耳に入る時には、超能力(六神通)を得るというのです。

心理学者カール・ユングの言うように、心の奥に人類の叡智が集まった集合無意識があれば、
そこに入って音を聞くことができるのではないでしょうか?
ちなみに空海は、「乾坤は経籍の箱なり(宇宙はお経の本箱)」と言っています。
あなたも虚空の音を聞いて見ませんか?

虚空を見つめる
---青空を見つめる修行法

チベット仏教の修行法には、岩山の洞窟に登り、青空を見つめる修行法があります。
オーストラリアの原住民アボリジニにも同じような修行法があります。
アボリジニは岩山の上で青空を見つめると、過去の先祖の記憶がよみがえってくるといいます。

私も何度かこの瞑想法に挑戦しました。
最初は遠方の山や町を眺めていました。視線を前方に向けると静かに雲が流れています。
雲に焦点を会わせ前方を見つめたままでいると、視界から雲が消えてしまいます。
雲のあった位置に視線を固定しようとしているうちに、自分の目の機能、
焦点を合わせようとする機能があることを発見しました。

眼球を支える筋が顔の横にあり眼の焦点を動かしているのです。
この筋に意識を置くと、目が開いているのに外部の状況を見ないことができるのです。
その状態を保つと視野は180度に広がりますが、意識は外には行かず内部を見つめるようになります。
コツは、意識が外の動きに引っ張られないように、意識を呼吸に置くことです。

この瞑想法はネパールのミルクババジをインタビューしている時学びました。
小さな祠に突然入ってきた一人の若者が、ババジの顔の前でカメラのフラッシュを焚きました。
ババジは瞬き一つせずにフリーズしたようになっていました。気配を察し心を内側に向けたのです。
残念ながらそのときの若者は、日本人でした。

意識によって欲望をコントロールする

感覚対象(色・声・香・味・触・法)は感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)が感じるから存在するだけではなく、
感覚の記憶を思い出すだけでも感覚対象があるように思えるのです。

高野山の修行中、仏さまの観想が難しかったので、観想の対象を食べ物に切り替えました。
禁酒禁煙・肉類なしの食生活でしたので真っ先にビールを観想しました。
コップに滴る水滴やビールの泡など微細に観想できるのです。
のど越しのよいイメージも観想でき、ついでにすし屋に入りトロなどを・・・・・!

私達は日々の生活の中でこのように観想しているのでしょう。その欲求がつのると欲望になります。
意識によってこれをコントロールすることが出来れば、一段上の意識になれるのです。

真言密教の月輪観・瞑想法は、このイメージ瞑想の基本です。
心に真実の象徴である月・光明・蓮・阿字のイメージを刷りこむことにより、
心身を変容させようとするテクニックなのです。
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四国遍路でお寺を巡拝するときに 「般若心経」 を唱えるが、この般若心経というのは、「観自在菩薩」=観世音菩薩=お釈迦様が、「舎利子」=舎利弗という弟子に語るという体裁を採ったものであり、仏教教義のエッセンスであると言われている。
以下は、その解説文のはじめの部分である。

■「磨訶般若波羅密多心経、これをつづめて、般若心経という経文は、わずか266字から成り立っています。これは、釈迦牟尼仏が、十大弟子の一人舎利弗に対して、観世音菩薩が深い最高の統一に入って、正しい覚り、つまり正覚を得た宇宙観、人間観を説いたものです。」とありますように、「般若心経」は、お釈迦さんが舎利弗に対して説かれたもので、一般の初心者を相手にした教えではありません。十大弟子である舎利弗は、もともとすごく頭のいい人で、霊能力もあり霊性高く悟りが非常に高い、そういう心境のお弟子さんに対して説いた教えですから、理解するのは容易ではありません。・・・・・・・・

■この般若心経の中で、一番の極意は、「色即是空 空即是色」という言葉で表現されています。「色即是空 空即是色」というのは、いろんなお坊さんや宗教学者が解釈していますが、「空」については虚無的な解釈が多くて、わかっているようでわかっていない、と五井先生はおっしゃっています。

■「色」とはどういう意味かというと、物には色がついていますから、あらゆるものを総称して「色」と言います。目に見える物質だけでなく、目に見えない想念も、すべての現象も「色」に含まれます。「色は空に異ならず、空は色に異ならず」ということは、この世のすべての物質や想念や現象は空なんだ、という意味です。言い方を変えれば、この世の不完全な現象は実在するものではない、という意味です。・・・・・・・


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