K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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たつぷりと/春は/小さな川々まで/あふれてゐる/あふれてゐる・・・・・・・・・山村暮鳥
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     春の河・・・・・・・・・・・・・・・・・・山村暮鳥

       たつぷりと

       春は

       小さな川々まで

       あふれてゐる

       あふれてゐる
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7-13_9879山村暮鳥

この詩は『雲』という大正14年刊行の詩集のはじめの「春の河」三篇のうちのものである。

山村暮鳥(1884-1924)は『三人の処女』『聖三稜玻璃』などで有名な人であるが、私の旧制中学4年の時の国語の先生から山村暮鳥の詩集を借りて、ひところむさぼるように読んだことがある。
山村調を気取って短詩を作ったりした。
詩集の題名でも明らかなように、暮鳥は宗教的ヒューマニストとしてキリスト者の人間的真実を追究するところに独自の詩風を展開した。
詩風は、かなり時期により異なり、ドストエフスキーの研究、翻訳に当っていた頃は、当然その影響を受けている。
いわゆる「白樺派」の影響を受けた第二期があり、詩集『風は草木にささやいた』(1920)などはヒューマニズムの時期である。
1924年に亡くなるが、萩原朔太郎が評しているように「虚淡時代」という第三期の東洋的な汎神論的世界に晩年はひたり込んだ。
静かに牧歌的な自然を観照し、その中に帰一し、明るい人生観が見られる時期である。
大正14年というと、もう晩年に近い頃で、掲出の詩は、そういう牧歌的な雰囲気のものである。

余談だが、彼の略歴(下記)を見ると「東京聖三一神学校」を出た、とあるが、別の記事を読むと、この神学校は「立教大学」の前身であるという。

1126505962-2山村暮鳥詩碑

写真③は彼の詩「風景 純銀もざいく」を刻んだ詩碑である。
この詩碑の建つ場所や写真などを ↑ のリンクで見られるので、アクセスしてみてください。

その詩句を下記に引いておく。

  風   景  
    純銀もざいく
・・・・・・・・・・・・山村暮鳥   詩集『聖三稜玻璃』(にんぎょ詩社、大正4年12月10日発行)所収

     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     かすかなるむぎぶえ
     いちめんのなのはな

     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     ひばりのおしやべり
     いちめんのなのはな

     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     いちめんのなのはな
     やめるはひるのつき
     いちめんのなのはな。

同じ詩句を連ねた中に8行目にだけ異なった詩句を嵌めるというシンプルな構成になっている。

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ここで同じ詩集『雲』に載る短詩をひとつ紹介する。

   雲・・・・・・・・・・・・・・・山村暮鳥

      おうい雲よ
      ゆうゆうと
      馬鹿にのんきさうぢやないか
      どこまでゆくんだ
      ずつと磐城平の方までゆくんか
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また『月夜の牡丹』という詩集の作品──

      ある時・・・・・・・・・・・・・・山村暮鳥

      娘よ
      うんと力をいれて
      何がそんなにはづかしいのよ
      ほら、ぬけた
      なんといふ
      太いまつ白い大根だらう
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ネット上に載る「文車」というサイトの記事を下記に貼り付けておく。
この記事が一番よく書けていると思うからである。

山村暮鳥

[文車目次] 

思潮社 「山村暮鳥詩集」(1993年9月15日 初版第二刷)より
  『聖三稜玻璃』
彌生書房 「山村暮鳥全詩集」(1973年7月10日 第五版)より
『風は草木にささやいた』
筑摩書房 「現代日本文學大系41」(1973年12月20日 第一刷)より
『雲』
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ひとりごと
 山村暮鳥の詩をはじめて読んだのは、実はマンガの中でのことでした。多分、小学校の高学年か中学の1年生ぐらいだったと思うのですが、作家もストーリーも忘れてしまいましたが、一番最後のコマに「いちめんのなのはな」の繰り返しがあって、島村暮鳥《風景》というのが小さく書いてありました。とにかく、その繰り返しにもの凄くインパクトを感じて、曖昧な記憶の中で、次の日には紀ノ国屋書店に《風景》の詩を確認しに行った、ということだけは鮮明に覚えています。
 その後、暮鳥の詩で代表的のものは高校まででほぼ読み終えましたが、《風景》の収められた『聖三稜玻璃』の3年後に出版された『風は草木にささやいた』は、とても同じ人が書いているとは思えないぐらい穏やかな詩が並んでいて、かなり戸惑ったものでした。『聖三稜玻璃』が世に認められず悪評の中で一度壊れた暮鳥が、苦しみの中から自分を組み立て直して作り出したのだろう、力強いながらも平明な詩や、『雲』の中の穏やかな詩を読んでいると、時々泣きたくなるような気がしてくることがあります。
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山村暮鳥について
1884年(明治17年)~1924年(大正13年)。詩人。本名、土田八九十(つちだ・はつくじゅう)
群馬県生れ。貧しい家庭に育つ。1903年(20歳)東京聖三一神学校に入学。在学中は文学に傾倒し、詩や短歌の創作にふける。神学校卒業後、キリスト教日本聖公会伝道師として各地で布教活動を行いつつ、1913年(30歳)に詩集『三人の処女』を出して世に認められる。同年、萩原朔太郎、室生犀星らと人魚詩社を興す。このころから鋭角的で斬新な詩風の作品を書き、それらは『聖三稜玻璃』(1915)に結晶して朔太郎らに大きな影響を与えた。しかし自身は人道主義的作風に転じ、『風は草木にささやいた』(1918)『雲』(1925:死後一年後に出版)をまとめた。1924年、茨城県大洗町で結核により永眠。享年41歳。
明治大正期の新詩体から口語自由詩への変革期の中で、革新的な作風から人道主義的な作風まで、これほど短期間の間で己の詩質と詩風を何度も変容させた詩人はまれであり、日本近代史に類例のない軌跡を描いている
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『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』について

1915(大正4)年、人魚詩社刊。
大正3年5月から4年6月までの1年余りの間に発表された詩35篇と序詩1篇からなる第2詩集。2年後に出版された萩原朔太郎の《月に吠える》が好評のうちに迎えられたのとは対照的に、当時の詩壇からは悪評を買うのみで、広く世に認められることがありませんでした。けれど、言葉をその意味から離して、詩人の鋭い感覚のみで自由に結合させた幻想的な詩法は、極めて実験的で独創的な世界を作り出しています。これらの詩は、萩原朔太郎や室生犀星などに大きな影響を与えましたが、暮鳥自身はこの形式を放棄し、以後は平明な詩法へと転換して行くことになります。

『風は草木にささやいた』について

1918(大正7)年、白日社刊。
大正6年1月から大正7年12月までに制作、発表された作品を集めた第3詩集。大正5年11月に雑誌『感情』第5号に、暮鳥が「無韻小詩」という題で発表した14篇の散文詩の翻訳は、山崎晴治の「不遜の言-暮鳥氏訳『無韻小詩』に就て-3」と題した文章によって、誤訳であると批判されます。『風は草木にささやいた』は、山崎晴治の批判文を読んで《卒倒》した暮鳥が、結核に冒されつつも旺盛な創作活動を続けた結果の、自然と人間への賛歌を歌いあげた人道主義的な作風の詩が納められています。

『雲』について

1925(大正14)年、イデア書院刊。
暮鳥の死の翌年に刊行された第6詩集。暮鳥自らが病床で編集したもので、大正13年7月に入稿し、11月に校了となったが、翌月の8日に暮鳥は永眠しました。その序文で「だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。」と書かれた『雲』に納められた詩には、平淡な自在さを持った宗教的、あるいは東洋的な哲学めいたおもむきを感じさせるものが多いような気がします。

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