K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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水滴のひとつひとつが笑っている顔だ・・・・・・・・・・・・・・・・・・住宅顕信
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   水滴のひとつひとつが笑っている顔だ・・・・・・・・・・・・・・・・・・住宅顕信

住宅顕信(すみたくけんしん)という自由律俳人の句である。
この句は彼の死後、1993年に岡山市内を流れる旭川のほとりに建てられた「句碑」に彫られたものである。
写真①がその句碑。
この句碑が建てられたとき、遺児である住宅春樹は僅か8歳──小学校二年生が健気にも挨拶したという。

写真②は『ずぶぬれて犬ころ』俳句=住宅顕信、版画=松林誠(2002年中央公論新社刊)。

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以下にネット上に載る記事を引いておく。

住宅顕信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昭和36年(1961年)3月21日 - 昭和62年(1987年)2月7日)は、日本の俳人。
本名・春美(はるみ)。

経歴
岡山県岡山市に生まれる。
岡山市立石井中学校卒業後、昭和51年(1976年)4月、岡山市内の下田学園調理師学校に入学、同時に就職し、昼は勤務し夜は通学という生活に入る。4歳年上の女性と知り合い、同棲を始める。この頃より詩、宗教書、哲学書に親しみ始める。昭和53年(1978年)3月下田学園卒業。

昭和55年(1980年)父親の勤務先である岡山市役所に臨時職員で採用され清掃の仕事に従事。仏教に傾倒し、昭和57年(1982年)9月より中央仏教学院の通信教育を受講。翌昭和58年(1983年)4月、教育課程修了。7月西本願寺にて得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となり、法名を釈顕信と名告る。10月同棲相手と結婚。両親の援助により自宅の一部を改造して仏間をつくり、浄土教の根本経典「無量寿経」に因み無量寿庵と名付ける。

昭和59年(1984年)2月急性骨髄性白血病を発病し岡山市民病院に入院。6月長男誕生。不治の病の夫に対し妻の実家が希望し離婚する。長男は顕信が引き取り病室にて育てる。10月自由律俳句雑誌「層雲」の誌友となり、層雲社事務室の池田実吉に師事する。この頃より自由律俳句に傾倒し句作に励むようになる。特に尾崎放哉に心酔。

昭和60年(1985年)には句集『試作帳』を自費出版。層雲に権威主義的な疑念を感じ、層雲の元編集者藤本一幸がこの年より主宰する自由律俳句誌「海市」に参加する。翌昭和61年(1986年)「海市」編集同人となる。病状が悪化し、この年12月からは代筆によらなければ投書できなくなる。

昭和62年2月7日23時23分、永眠。享年25。俳人としての創作期間はわずか3年で、生涯に残した俳句は281句だった。

昭和63年(1988年)句友であった岡山大学教授・池畑秀一らの尽力により弥生書房より句集『未完成』出版。
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別に「顕信─魂の俳人─」というサイトもあり、彼の写真なども見られるので覗いてみられるとよい。

写真③は、彼の死後、句友であった岡山大学教授・池畑秀一の監修で発行された『住宅顕信』全俳句集全実像(2003年小学館刊)である。

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冒頭に書いた「句碑」の序幕の際に挨拶した遺児・住宅春樹が、この本に次のように書いている。

 おわりに──父のように熱く生きたい・・・・・・・・・・・・住宅春樹

父、住宅春美が亡くなったのは私が三歳になる前でした。
「お父さんのことは覚えていますか?」と、新聞記者の方などから尋ねられますが、父と過ごしたころのことは、ほとんど憶えていません。
父との思い出は、1993年に父の句碑が建てられてからできてきたように思います。小学二年生のときでしたが、除幕式では祖父母ではなく私が挨拶をしました。
2002年には、中央公論新社から句集も二冊刊行され、さらに精神科医の香山リカ先生も本を書いてくださいました。そのほか、岡山市内にある吉備路文学館で「住宅顕信展」が七月から三か月間開催され、七月七日には「住宅顕信フォーラム」も行われました。
フォーラムには池畑秀一先生、香山先生、父のファンだとおっしゃってくださるプロレスラーの新崎人生さんらが参加してくださいました。テレビでしか見たことのない有名な方々が、父の生き方、作品について熱心に語ってくださる。改めて父の凄さを実感しました。
父は私にいくつかの句を遺してくれました。
その中で特に、《バイバイは幼いボクの掌の裏表》が好きです。私は病室から帰るとき、いつも父に「バイバイ」と手を振りました。それだけははっきり憶えていて、この句を読むと、とても懐かしい気持ちになります。
《夜が淋しくて誰かが笑いはじめた》。本書のサブタイトルに入れられたこの句も好きです。
父がどんな思いで私を病室で育て、句を詠み、治療を受けたのだろうか。父はなぜ得度して、俳句の道を選んだのだろうか。言葉ではうまく表現できませんが、父が発病した年齢に自分が近づいてきて、最近、父の気持ちがなんとなくわかってきました。
自分がこれだと信じたことに一生懸命打ち込んだ父。私はこの春から情報系の大学に進む予定ですが、父のように熱く生きたいと思っています。いつか父にあったとき、「ぼくはこんな生き方をしたんだよ」と胸を張れるように。
最後になりましたが、父を支え、応援してくださった池畑先生をはじめ、多くの皆様に御礼申し上げます。
 2003年1月15日
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このように書いた息子の住宅春樹だが、今は「川崎医療福祉大学」を出て、「ニチイ学館」に所属するようである。
Facebookを利用しているようで、そこには、経歴について、こう書かれている。 ↓
<現在、岡山で診療情報管理士の仕事をしております。>
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以下、これらの本から私の目に留まった句を引く。

 降りはじめた雨が夜の心音

 雨に仕事をとられて街が朝寝している

 朝はブラインドの影にしばられていた

 月明り、青い咳する

 秋が来たことをまず聴診器の冷たさ

 またオリオンにのぞかれている冬夜

 点滴と白い月とがぶらさがっている夜

 水たまりの我顔またいで歩く

 カガミの中のむくんだ顔をなでてみる

 何もないポケットに手がある

 だんだん寒くなる夜の黒い電話機

 看護婦らの声光りあう朝の回診

 頭剃ってもらうあたたかな陽がある

 水音、冬が来ている

 冬の定石窓にオリオンが置かれた

 赤ん坊の寝顔へそっと戸をしめる

 両手に星をつかみたい子のバンザイ

 バイバイは幼いボクの掌の裏表

 かあちゃんが言えて母のない子よ

 抱きあげてやれない子の高さに坐る

 夢にさえ付添いの妹のエプロン

 初夏を大きくバツタがとんだ

 合掌するその手が蚊をうつ

 薬を生涯の友として今朝の薬

 とんぼ、薄い羽の夏を病んでいる

 気の抜けたサイダーが僕の人生

 ずふぬれて犬ころ

 若さとはこんなに淋しい春なのか

 報恩の風の中に念仏

 夕陽の影が背を丸めたランドセル

 真夏の山がけずりとられた

 一つの墓を光らせ墓山夕やけ

 朝露をふんで秋風の墓がならぶ


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