K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉・・・・・・・・・・・・・・・赤尾兜子
e0083820_12144715兜子色紙

     鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉・・・・・・・・・・・・・・・赤尾兜子

今日3月17日は俳人・赤尾兜子(あかお・とうし)の忌日である。
彼は大正14年姫路市生まれ。京大文学部卒。毎日新聞に勤めた。俳句は大阪外語のときに始めた。
「太陽系」「薔薇」「俳句評論」などにかかわった。
昭和35年「渦」を創刊、主宰。昭和36年、現代俳句協会賞を受賞するが、選考をめぐり、協会の分裂をひきおこし「俳人協会」が発足することになった。
新興俳句系の俳人だったが、のち伝統俳句への回帰に進んだ。昭和56年歿。

以下はネット上に載る「zenmz」という人のサイトに載るものである。全文を引用する。
これを読めば、彼の「鬱」に陥っていたということなども、よく氷解して理解出来るのである。
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【6082】 赤尾兜子を偲ぶ
★ 去る者は日々に疎し、と言いますが、鬼籍に逝った親友はいつまでも我が心の中にあって、生きています。いつも3月になると、その人を想い起こすのは赤尾俊郎さん。その人の名を知る人は、もう少なくなりましたが、和歌、俳句等、短詩型文学に親しまれている方なら直ぐおわかりになる「兜子」(とうし)の俳号を持つ俳人でした。

★ エッ? あなたが俳人と交遊を??? 驚かないで下さい。赤尾さんと私は、毎日新聞記者時代の先輩・後輩の関係にあり、赤尾さんが5年先輩。晩年は共に新聞記者の第一線から離れ、大阪本社出版局で、赤尾さんは編集課長、「サンデー毎日」の大阪在勤次長職にあり、私は「点字毎日」編集長をし、文字通りに共に机を並べて仕事をしました。親交はその時に始まりました。

★ 当時、大阪・千里ニュータウンにあった我が家にもしょっちゅ遊びに来て,我が家族共々、お付き合いさせていただきました。達筆の人で、最初に夕食を共にした時、色紙に書いてくださったのがこの一句です。
多分、兜子句集2000句の中にも含まれているだろうと思います。

 鮭ぶち切って菫ただようわが夕餉 (掲出の写真①)
★ 当時、マイホーム主義を揶揄する風潮がありました。ある日、訪れて来た赤尾さんに、私は「マイホーム至上主義」をぶちまくりました。それを受けての一句。私たち家族にとってのみ特別の深みを味わえる句だと思って宝にしています。

★ ここでちょと、赤尾兜子の紹介をしておきます。今から半世紀以上も前、終戦直後の京大学生時代に伝統を打ち破る斬新な俳句を次々と発表して”前衛俳句”の新ジャンルを築いた鬼才です。
 代表作 音楽漂う岸侵してゆく蛇の飢
が打ち出す強烈なイメージでその作風をご想像下さい。

★ 大阪外語専門学校(旧制)時代の同級生に司馬遼太郎さん、陳舜臣さんなど著名作家がおり、赤尾兜子さんと合わせて「外語3鬼才」は大阪文壇の3重鎮として並び称せられていました。京大卒業と同時に毎日新聞記者になりましたが、前衛俳句運動は自ら創刊した俳句誌「渦」の結社を中心に展開されました。

★ 赤尾さんは大柄の人で、その外貌はいわゆる「厳(いか)つい」顔。ちょっと近寄りがたい雰囲気をいつも漂わせていました。妥協嫌いのまっしぐら。気むずかしい人と言われていました。が、私とは妙に気が合って親密なお付き合いをさせていただきました。

★ 多分、全くの門外漢であったことが良かったのでしょう。いつか一度、結社を覗かせてもらいましたが、門下生を前にその風格は絶対的な権威を思わせるものがありました。「あんなん、シンドイでしょう」と言うと、「それや、どうにもならん」と笑っていました。

★ しかし、つきあってみると、外見とは大違い。実は、繊細で細やかな心配りの人で、その立ち居振る舞いは実に雅やかでした。気品あるその雅やかな風格は、やはり彼の出自にあったように想います。隠れた才能・・・お茶のお点前などビックリしたことがあります。

★ 生家は兵庫県網干の旧家、何代か続いた材木問屋です。八人兄弟の次男。長兄の龍治氏は、著名な郷土史研究家で、『盤珪禅師全集』 を刊行して姫路市文化功労賞を受け、 次いで 『徳道上人』 を刊行して兵庫県文化功労賞を受けておられます。(因みに兜子も兄に続いて後に兵庫県文化功労賞を受けています)

★ 親交が深まるにつれ、私は、自分が編集長をしている週刊新聞「点字毎日」の俳句欄”点毎俳壇”の選者をお願いしました。盲人俳句を育てていただけないか? 恐る恐るお願いしたら即座に引き受けて下さいました。「極限から生を見つめる。スゴイ作品がいっぱいある」 初めての月の選評で、今も、心に残る選者・兜子の総評です。

★ そういう次第で、定年で新聞社を去った後も、毎月、”点毎俳壇”の選句をしていただくために新聞社に迎えていました。そんなある日、赤尾さんはいつにない真剣な表情で私を凝視しました。「オレ、芭蕉を超えられん」 咄嗟に私は理解しました。それまでの会話で赤尾さんは大きな苦悩を抱え込んでいる様子を察知していました。

★ 一言で言ってしまえば、それは彼の短詩型文学の行き詰まりだった、と想います。素人の私には分からない世界ですが、前衛俳句運動で俳壇を震撼させた鬼才も晩年には、伝統俳句への回帰を指摘されるようになっていました。他人には窺い知ることの出来ない大きな葛藤が兜子の内で始まっていたのです。

★ 折りも折り、兵庫県文化功労賞を受賞しました。当然、マスコミは長兄・龍治氏に続く「兄弟ダブル受賞」を称えました。傍目には大きな慶事、網干の名門一族にとっても喜ぶべき朗報のはずですが、ご本人にとっては逆だったようです。

★ 自らもその作風が伝統回帰を目指していることの意味を問い続け、悶々とそのナゾを密かに問いつめていた兜子にとっては大きなプレッシャーになりました。「これから芭蕉に挑戦や。えらいこっちゃ」 当時、喜びに訪れた私に赤尾さんはニコリともせず、そう語ったものでした。

★ それをずっと引っ張ってきていたのですね。「芭蕉を超えられん」とは、あまりに生真面目すぎます。そこで・・・「あんな、赤尾さん、芭蕉、芭蕉、言うけど、ボクなんか、俗人に言わせてもらえば乞食としか想えへんで。芭蕉超える、言うけど、赤尾さん、乞食にならんと・・・乞食の次元の話とチャウ?」 

★ 眉を顰めて私の前にいた赤尾さんは、突然、「ワッハッハー」 大声で笑い始めました。 「乞食か。そうやな、乞食。コジキや」 本当にこの時、私たちは、悪ガキに戻ってのはしゃぎぶりでした。赤尾さんは、来たときとは全く異なる明るい顔で帰って行きました。

★ それから間もなく。昭和56年(1981)3月17日のこと。「赤尾さんが交通事故で亡くなられました」 人事部から急ぎの連絡がありました。とりもなおさず阪急岡本の自宅に駆けつけました。

★ 奥様のお話では、「今朝、起きがけにタバコを買うと言うて出て行ったが踏切で電車にはねられて即死だった」とか。ただ集まった多くの人々は、「ひどい鬱状態だったからね・・・」と、咄嗟に自殺と見たようでした。

★ 当時、兜子は重度の鬱状態にあったのはたしかです。でも・・・私は、今なお、赤尾さんは自殺という積極的な自己否定に出るはずはなかった、それはきっと、鬱による事故だった、と信じています。赤尾家は急坂の中程にあります。下を走る阪急電車。だらだら坂を下る途中に踏切があります。物思いに深けていた赤尾さんが迷い込んだとしか想いようがありません。

★ 何故、そう断定するか。赤尾さんが残した一つの句があります。
    父として生きたし風花舞う日にも 
 赤尾さんにはたった一人の男の子がいました。その頃、高校に入ったばかり。「息子もこれで片付いた」と私にその喜びを語りました。その子を想う歌です。 赤尾兜子の記録を見ると、多くの解説はその偉大な功績を顕彰した後、昭和56年56歳で自殺、としています。だがこんな歌を残して自殺する人がいるでしょうか?

★ 兜子の現代俳句誌「渦」は妻の恵以さんが引き継ぎ、神戸に兜子館カルチャーサロンを運営して居られる、と仄聞します。是非、一度、訪れたいと思います。ご子息も40代になっておられるはず。出来れば、共々、亡友追善の語らいの機会を得たい、と願っています。
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uzuhyousi渦表紙

写真②は彼の結社「渦」誌の表紙である。

以下は、彼の代表作とされる句である。ここには、伝統俳句に回帰した時期の句は、余り引かれていない。

こおろぎに黒い汁ためるばかりの細民
ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥
たのむ洋傘に無数の泡溜め笑う盲人
ちびた鐘のまわり跳ねては骨となる魚
ねむれねば頭中に数ふ冬の滝
まなこ澄む男ひとりやいわし雲
ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう
ガソリンくさき屋上で眠る病身の鴎
マッチ擦る短い橋を蟹の怒り
唖(おし)ボタン殖える石の家ぬくい犬の受胎
愛する時獣皮のような苔の埴輪
悪地もなやむなまこのごとき火の鉄片
暗い河から渦巻く蛇と軽い墓
烏賊の甲羅鉛のごと澄む女眼の岸
嬰児泣く雪中の鉄橋白く塗られ
屋上照らす電光の雪記者も睡り
音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢
蛾がむしりあう駅の空椅子かたまる夜
海の空罐細り細りて疎(まば)らな葦
柿の木はみがかれすぎて山の国
乾ききる鳩舎寝顔の燃ゆるころ
巻舌よりパン光りおつ医大の傍(そば)
機関車の底まで月明か 馬盥
帰り花鶴折るうちに折り殺す
記者の朝ちぎれ靴噴く一刷(はけ)の血
記者ら突込む鉄傘朝の林檎満ち
空地で刺さる媚薬壜掘る墓掘人夫
空鬱々さくらは白く走るかな
広場に裂けた木 塩のまわりに塩軋み
硬く黒い島へわめく群集核(たね)を吐き
子の鼻血プールに交じり水となる
少女の足が研ぐ鯨のような繊維街
赤茶けたハムへ叫ぶ老人が寒い極点
葬の渦とはぐれた神父死鼠の発光
多毛の廃兵遠くで激しくつまづく驢馬
苔くさい雨に唇泳ぐ挽肉器
大雷雨鬱王と合ふあさの夢
朝発つ牝牛に異音流れる霰の丘
鉄階にいる蜘蛛智恵をかがやかす
独裁のけむりまきつく腰帯の発端黴び
破船に植えた血胤のいちぢく継ぐ
俳句思へば泪わき出づ朝の李花
白い唾で濯ぐ石斧の養老院
白い体操の折目正しく弱るキリン
白い牝牛の數藁を擦る薄明の門
薄皮の蝸牛白い営みを濯ぐ老婆
髪の毛ほどのスリ消え赤い蛭(ひる)かたまる
番人へ菌絶える溝のなかからの声
麻薬街の内部撫で了る鼠の孤児
未知の発音尖る陸橋の白い茸(たけ)
密漁地区抜け出た船長に鏡の広間
眠れぬ馬に釘打つ老いた霧の密室
名なき背に混みあう空家の青い石
夜は溜る鳩声惨劇するする刷られ
油でくびれた石白く笑いだす鉄道員
揺れる象のような海聾女の新聞ちぢむ
煉瓦の肉厚き月明疲れる記者
埃から埠頭吸い馬の眼馬の眼を怒る
煌々と渇き渚・渚をずりゆく艾(もぐさ)
膠(にかわ)のごとく雪呑み乾く髪の老人
鴉の咳ごとに嬰児の首洗う
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昨日付けで書いた「飴山実」もそうだが、京都大学出身の俳人は多い。
「京大俳句会」という会があって、戦前から俳句界革新のために活動してきたが、第二次大戦中の昭和十年代には「自由」とか「革新」ということが徹底的に弾圧されて、多くの俳人たちが獄に繋がれた。今日の赤尾兜子は、そういう戦前からの「俳句革新」の運動を戦後になって継承したと言えるだろう。現役で作品を発表している俳人で言えば「伊丹三樹彦」なんかはその系統に属するとも言える。
戦後になって「前衛俳句」として華々しく開花した運動にも、戦前からの、そういう伝統というか、「伏線」があるのである。
京都大学というのは、官僚養成を主目的として発足した東京大学とは違って、また対抗意識を抱いたものとして、時たま、こういう自由な運動が発生するのであった。
「京都」という土地が、そういう「自由」な雰囲気を湛えているとも言える。
京都は千年の間、「みやこ」のあった王城の地であったが、明治になって日本の首都が東京に移って、一時は寂れかけたが、西欧文明の取り込みにも先端を切り、文明開化に先んじた、自由なプライドを「京都人」は持っている。
そんなこんなの諸々が京都には底づいているのである。



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