K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出でたつ少女・・・・・・・・・・・・・大伴家持
aaoomomo00桃の花
  
  春の苑(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花
    下照る道に出でたつ少女(をとめ)・・・・・・・・・・・・・大伴家持


大伴家持は天平18年から5年間、推定だが、29歳から34歳までの壮年期に、現在の富山県から能登半島を含む北国一帯の長官たる越中守として赴任していた。
この歌は34歳の年の三月一日、春の苑の桃と李(すもも)を眺めて詠った二首のうちの、桃の花の歌である。
「万葉集」巻19の巻頭を飾る歌である。
「にほふ」は本来、色が美しく照り映える意味。「下照る」の「した」は下の意とも、また赤く色づく意ともいう。
花の咲いている木の下が花の美しい色で照っていること。
と同時に下の句の木の下に立つ乙女の輝かしさをも暗示する効果がある。
満開の桃の花の下の乙女は、家持が呼び出した夢の精のようにも感じられる。

因みに、この歌につづく歌を、ここに挙げてみよう。

  わが園の李の花か庭に落(ち)るはだれの未だ遺りたるかも・・・・・・・・・・大伴家持

大伴家持は「万葉集」の編纂者ではないか、と推定されている程、歌の数が多い。
大伴一族は古代からの武門として有名な一族である。
父は大伴旅人(たびと)、叔母に大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が居る。
「万葉集」巻6に、この二人の歌が二首並べて載っている。

    月立ちてただ三日月の眉根掻き日(け)長く恋ひし君に逢へるかも・・・・・・坂上郎女

    ふりさけて若月見れば一目見し人の眉引思ほゆるかも・・・・・・・・・・大伴家持

この時、家持16歳だったと言われている。どうやら、この頃は叔母に作歌の手ほどきを受けていたらしいと言われている。

後に成人してからは、都に在る時は、天皇の傍に侍る宮廷歌人としての役割を務めているが、時の権力をめぐって藤原一族と皇族派との紛争に巻き込まれて、時に左遷人事とも思えるような仕打ちを受けたらしい。
参考として、私が書いた「恭仁京と大伴家持」というエッセイの文章もお読み頂きたい。(注・「山城町」は合併して現在は「木津川市・山城町」となっている)
もう一人の柿本人麻呂と共に「万葉集」を支える大歌人であろう。
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以下、Web上に載る記事を転載しておく。

大伴家持
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴 家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)頃 ~ 延暦4年8月28日(785年10月5日))は奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。祖父は大伴安麻呂。父は大伴旅人。弟に大伴書持がいる。叔母には大伴坂上郎女がいる。鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父である可能性がある。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下となる。

天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。天平勝宝3年(751年)までに赴任。この間に220余首の歌を詠んだ。少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。

橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画に立案した。事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。

没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。

歌人としての家持
長歌・短歌などあわせて473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七~二十は、私家集の観もある。『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には載っていない。



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