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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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千種創一歌集『砂丘律』・・・・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

      千種創一歌集『砂丘律』・・・・・・・・・・・・木村草弥
              ・・・・・青磁社2015/12/07刊・・・・・・・

この人は、1988年生まれの若い人だが私には未知の人だった。この歌集が出たことは承知していたが、掲出画像②のような案内が届いたのでアマゾンから取り寄せた。
先ず、スキャナの調子が悪いので、裏表紙に載る三人のコメントを画像として出しておく。   ↓
千種③_NEW

一見して「変わった」編集の本である。
画像でも見られるように右側にガーゼの網目のような部分が見えるが「綴じ布」である。
それに紙質が、うす黒い色をしたザラ紙のようである。経費を節約するために紙の質を落としたのか。
いずれにしても著者の執着が色濃く出た本である。
批評会のパンフに「口語短歌の新たな地平」とあるが、こんにち、短歌に於いて「口語」使用は珍しいことではないから、私には違和感がある。
一読してみて、この作者の作品は短歌というよりも「短詩」というべき表現が多い。
「短歌」の世界では、まだまだ、作者=私という拘りや、作品に「意味」を読み取ろうとする、あるいは「意味」が辿れなけれはならない、という風潮が強い。
しかし今では短歌賞の作品でも「詩人」気質の人が増えてきている。佐藤弓生なども、そうである。
「詩」を読むときは、意味を辿ってはいけない。この人の歌には、このことを意識して読まないといけないものが多い。
私は、それが悪い、と言っているのではない。
現代詩を作ったり、読んだりするのに慣れた人間には、それらの作品に違和感がない、と言いたいのである。
この人は「塔」所属だが、本質的に、この結社は出自的に「リアリズム」であるから、結社の中では批評などで色々と言われていることだろうと推察される。

画像として出した三人のコメントの中では、ミュージシャンという岸田繁の言葉が極めて的確だ。
意味にこだわらずに作品を「詩」として批評していて秀逸である。なまじ歌壇という「塵」にまみれていないだけに新鮮である。

二番目のコメントに三井修が執筆していることから、作者は東京外国語大学の出身だろう。三井も、ここの出身である。
因みに私は大阪外語フランス語に居たことがある。
余談だが、同じ国立とは言っても東京外語と大阪外語では「成り立ち」が違う。前者は政府が作ったが、後者─大阪外語は民間が資金を出して設立し、後に国に「寄付」したのである。
今では大阪外語は大阪大学外国語学部として再編成されてしまった。
初代校長は中目覚という人で、この人も皆で選んだのである。
アラビア語つながりでいうと、大阪外語のアラビア語の先生で、後に大阪外語の学長もされた田中四郎という人の本『やわらかなアラブ学』(新潮選書) 『駱駝のちどりあし』(新潮社)という本を面白く読んだことがあるので披露しておく。
  筆が滑った。本題に戻ろう。

「あとがき」に記してあるが、この本は19歳から27歳までの間に作った421首が収められている。
その中には2013年の「塔新人賞」を得た「keep right」30首。2015年の「第26回歌壇賞」次席の「ザ・ナイト・ビフォア」30首などが含まれる。

この本の「項目」建てはⅠからⅥに分けられ、「項目名」は無く、項目の裏ベージに「引用」やらコメントやらが書かれている。
例えば、Ⅵの裏ページには
<砂漠を歩くと、関係がこじれてもう話せなくなった人と、
            死んだ人と、何が違うんだろって思う。>

書かれている。
こういう極めて「ブッキッシュ」な編集の仕方は私も好きで、私の歌集の中でも試みてみたので、嬉しい。 私好みである。
アラビア語の文章が筆記体で載っていたり、Ⅳのところには村上春樹がイスラエルで賞を得たときの受賞の言葉
               <本日、私は小説家として、
すなわち嘘を紡ぐプロとしてエルサレムへ来ました。>

という言葉が原文の英語と一緒に載っている。
この言葉は、文学というものが「嘘を紡ぐ」という表現で言われていて、実に「示唆的」である。
作者も「あとがき」で <ほとんどの連作において事実ではなく真実を詠おうと努めた> と書いているのに私は感動した。
「事実ではなく真実を」というのが、これこそが文学者としてあるべき姿である。
事実に捉われ過ぎると、真実を見誤ることがあるのである。
このことは、とかく歌壇では理解されず孤立することがあるが、負けずに振舞っていただきたい。

私の好きな歌を引いてみる。

巻頭の歌
  ■瓦斯燈を流沙のほとりに植えていき、そうだね、そこを街と呼ぼうか

石川美南も引いているが、巻頭にこの歌を据えたというところに、作者の「覚悟」があるというべきだろう。
瓦斯燈というのは或る種の比喩というべく、地中から噴き出すガスを燃やす産油国特有の風景とも受け取れよう。
この歌など既成の短歌の概念からは、はみだした作品と言える。まさに「短詩」と私の言う所以である。

巻末の歌
  ■指こそは悪の根源 何度でも一本の冬ばらが摘まれて

この歌には「悪について」という前書きがついている。 これも極めて比喩的な歌と前書きというべきものであり、秀逸である。
ここに引いた歌などはキチンと定型に収まっているが、作者の歌には定型に収まり切らないものも多い。
現代短歌では珍しいことではないし、非難すべきことでもない、と私は受容する。

  ■爽健美茶とBOSSを買って河口でふたりは蟹をみつけた
 
この歌は、淡い恋人との逢瀬を連想させる若い頃の作品だろう。非定型の歌のようでありながら、下句ではキチンと定型に収まっているところも面白い。

連作の中では、私はⅣの「或る秘書官の忠誠」の一連に注目した。この一連には英文で「カインとアベル」のエピソードが、さりげなく配されている。
中東での或る出来事の「喩」であろうが読む者の心の底に澱(おり)のように沈んで澱(よど)むものがある。
  ■アヴォカドをざつくりと削ぐ(朝の第一報の前のことである)
  ■実弾はできれば使ふなといふ指示は砂上の小川のやうに途絶へる
  ■忠誠を花に譬へちやいけないぜ 高速道路、夏盛り

作者は新カナ表記を執るが、この一連だけは歴史的かなづかいになっているのも何かの意図があってのことと推察される。
佳い一連である。

Ⅲの裏ページに岑参の漢詩が載せられている。
<馬を走らせて西東 天に到らんと欲す
   家を辞して月の両回 円なるを知る
    今夜知らず 何れの処にか宿せん
           平沙万里 人煙を絶つ>

時代も場所も違うが、中東の沙原に置き換えて見事である。また作者の読書量の豊かさをも想起させる。
ペダンチックだが、こういうところも私好みである。

歌壇賞応募作という「ザ・ナイト・ビフォア」の一連は私には物足りなかった。
先に書いたⅢの中の「秋、繰り返す」の一連などの方が、ずっと、いい。

  ■秋冷、という言葉を選ぶとき西南西に死海は碧い
  ■羽に黒い油をつけて換気扇とまる 失意と呼べなくもない
  ■靴スークとおり抜けつつ靴たちのこれから歩く砂地をおもう

二首目の歌など、俳句でいう「二物衝撃」を思わせて秀逸である。

以上、総括的なことを書いたので、後は私の好きな歌を思いつくままに列挙する。

  ■だれひとり悲しませずに林檎ジャムをつくりたいので理論をください

  ■三日月湖の描かれている古地図をちぎり肺魚の餌にしている

  ■わたしたち秋の火だからあい (語尾を波はかき消す夜の湖岸に

  ■梨は芯から凍りゆく 夜になればラジオで誰かの訃報をきいた

  ■煙草いりますか、先輩、まだカロリーメイト食って生きてるんすか

  ■口移しで夏を伝えた いっぱいな灰皿、置きっぱなしの和英

  ■イヤホンをちぎるように外す、朝焼ける庁舎の屋根の旗をみあげて

  ■見事 むしろ 花束のたえない、お出で、たえない町だ 花束

  ■声が凍えているな、秋、何度でもマグダラのマリア愛してしまう

  ■Marlboroの薫りごと君を抱いている、草原、というには狭い部屋

  ■どうしてもオリンピックに興味がなくBBCの声を落とした

  ■かといってナショナリズムを離れれば杉の木立はやや肌寒い
           辞令と魚
  ■にっぽんを発つというのに心臓が仙人掌みたい、メキシコみたい

  ■昼過ぎの通りは沙と光であって猫一匹とすれ違うかな

  ■会いたさは来る、飲むための水そそぐとき魚の影にような淡さに

  ■夜の窓をあけて驚く、砂まじる風が柳とこすれる音に

  ■虐殺を件で数えるさみしさにあんなに月は欠けていたっけ

  ■深く息を、吸うたび肺の乾いてく砂漠は何の裁きだろうか
             keep right
  ■北へ国境を越えればシリアだが実感はなくジャム塗りたくる

  ■召集の通知を裂いて逃げてきたハマドに夏の火を貸してやる

  ■映像がわるいおかげで虐殺の現場のそれが緋鯉にみえる

  ■君の村、壊滅らしいとiPhoneを渡して水煙草に炭を足す

  ■川というものをわたらない生活 ハンガーはあるけど掛けるかい

  ■アンマンの秋を驚く視野の隅、ぎんやんまだったろう、今の

  ■来た。 砂色の5JD札ねじ込んでハマドは部屋からいなくなる

  ■僕もそのひとりであって東洋系が風の遠くでライター灯す

  ■中国人ではないと告げる、告げるとき蔑してないと言いきれますか

  ■骨だった。駱駝の、だろうか。頂で楽器のように乾いていたな

  ■沙に埋れつつも鈍さをひかってる線路は伸びる旧帝都(イスタンブール)へ

  ■予備役が召集されたとテロップの赤、画面の下方を染める

  ■戦況も敵もルールも知らされずゲームは進む 水が飲みたい
     よいか汝ら、報復死刑制度の中にこそ生命がある。(クルアーン牡牛章 第179章より)
  ■サイダー瓶、埃に曇る。絶対にゆけない春の柵の向こうで

  ■そもそもが奪って生きる僕たちは夜に笑顔で牛などを焼く

  ■iPhoneに蛍のような灯をともしあなたは絹のシャツを拾った

  ■告げている、砂漠で限りなく淡い虹みたことを、ドア閉めながら

  ■さよならが一つの季節であるならば、きっと/いいや、捨てる半券
                 スペインのアンダルシアにはかつてアラブ人がいて、
                                 アル=アンダルスという地名だった。

  ■仙人掌を蔦のさみどりのぼりゆくスペイン、夏の、スペイン、夏野

  ■この雨の奥にも海はあるだろう きっとあなたは寝坊などして

とりとめもない抽出になってしまった。歌の数が多いので、見逃した歌も多いだろうからお許しいただきたい。
まだまだ若いし、才能がはじけ満ちる歌集を前にして、あなたの作品がこれからも大きく開花することを祈って筆を置きたい。

三井修氏とは、私の第四歌集『嬬恋』の合同出版記念会で批評いただいて以来の仲で、第五歌集『昭和』を読む会を東京で開いてもらったりして大層お世話になった恩のある人である。
三井氏の歌集『海図』が出たとき、私は彼を現代のマルコポーロになぞらえたことがある。
千種創一氏も前途洋々たる未来を期待される逸材である。
私は批評会には出られないが、ご盛会をお祈りするばかりである。 佳い歌集を読ませていただいた快い昂ぶりに浸っていることをお伝えしたい。
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著者からのメールを引いておく。

< 各章扉の言葉に絡めて歌集を批評頂いたのは、木村様が初めての方ですので、とても嬉しく存じます。
また、私の文学意識まで正確に汲み取ってくださり、実に作家冥利に尽きます。
恐縮ながら一点だけ申し上げれば、実はこの名前は本名です。よく言われますが、地名はチクサで私はチグサです。 >

私としても、とても嬉しい。 好漢ご自愛され益々のご健筆を期待する。 以上、蛇足ながら付記する。 2月4日朝 記。








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