K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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三鬼忌や今日を盛りの山桜・・・・・・・・・・・・・・・和田富子
yamazakuraoiwai2ヤマザクラ
   
    三鬼忌や今日を盛りの山桜・・・・・・・・・・・・・・・和田富子

今日、四月一日は西東三鬼の忌日である。 
掲出の句は平成4年4月5日に開かれた三鬼の郷里である津山市での没後30周年記念「三鬼顕彰全国俳句大会」に応募した句の中から飯田龍太 選で選ばれた特選句である。
奈良の人である。
今年は桜の開花が早いので、掲出の満開の桜には違和感があるかも知れないが、ご了承を。
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西東三鬼(さいとう・さんき)について、引用しておく。

 新興俳句の旗手、鬼才と呼ばれた西東三鬼=本名・斉藤敬直=(1900-1962)は南新座の生まれ。津山中学に学び、両親を失った十八歳で東京の長兄に引き取られ、歯科医になる。患者に誘われて俳句を始めた。俳号、三鬼はサンキューのもじりだが、波乱の人生を送る彼のぺーソスとユーモアが潜んでいるような気がする。
 33歳で俳句入門して3年後の昭和11年、

   水枕ガバリと寒い海がある

を発表、その鋭い感覚が俳壇を騒然とさせるのである。「十七文字の魔術師」の誕生であり、「ホトトギス」的伝統俳句から離れた新興俳句運動の記念碑でもあった。
戦争への道を急ぐ日本。三鬼の

   昇降機しづかに雷の夜を昇る 

が世情不安をあおるとして弾圧を受け、無季を容認した新興俳句は三鬼が幕を引く結果になる。
 三鬼は、弾圧のショックを胸に東京の妻子を捨てて神戸に移り住む。

   露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す

 そんなスナップのある安ホテルで、特高警察の刑事につけ狙われながら雌伏する。NHKテレビドラマ「冬の桃」は、その時代の三鬼の随筆をドラマ化したもので、小林桂樹が三鬼に扮して好演、再放送されるほど好評だった。
 俳句がすべてだった三鬼は、昭和17年、転居した神戸市内の西洋館(「三鬼館」と呼ばれる)の和室の畳まで売り払い、「天狼」創刊運動費にあてるほど徹底していた。

終戦。三鬼は俳句活動を開始、同志と現代俳句協会を創設、昭和23年、山口誓子を擁して俳誌「天狼」創刊の中心になった。編集長になり、自分も「激浪」を主宰し、昭和28年ぶりに帰郷する。そして昭和37年、惜しまれつつ永眠する。空前絶後の俳壇葬で三鬼を見送った。4月1日は西東忌、三鬼忌として歳時記に不滅である。
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20050906-153056西東三鬼
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以下に経歴などを引いておく。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

西東三鬼(さいとう さんき、1900年(明治33年)5月15日 - 1962年(昭和37年)4月1日)は日本の俳人。本名・斎藤敬直(さいとう けいちょく)。

経歴
1900年5月15日岡山県津山市南新座に生まれる。
1915年(大正4年) 県立津山中学校(現岡山県立津山高等学校)に首席入学。
1919年(大正8年) 母を当時大流行したスペイン風邪で亡くす。同年、上京し青山学院中等部に編入するが中退。
1921年(大正10年) 日本歯科医学専門学校(現日本歯科大学)に進学する。
1925年(大正14年) 卒業、同年秋に結婚し、シンガポールに渡り歯科医を開業する。しかし、反日運動の高まりと、自身のチフス罹患のため1928年(昭和3年)帰国し歯科医院開業。
1933年(昭和8年)東京の神田共立病院に勤務していたとき、患者の薦めで俳句を始める。
1934年(昭和9年)俳誌『走馬燈』同人となり、新興俳句運動に傾倒。山口誓子らに師事。
1935年(昭和10年)「京大俳句」に加わり、1938年(昭和13年)歯科医をやめる。
1939年(昭和14年)総合誌『天香』を創刊。この年、初の句集『旗』を発表。
1940年(昭和15年)京大俳句事件が起こる。特別高等警察により治安維持法違反で検挙される。句作活動中止を条件に起訴猶予となった。
1942年(昭和17年) 東京から神戸に移り、特高警察の監視下で「三鬼館」に雌伏。
1945年(昭和20年)太平洋戦争終結とともに再び句作活動を再開。
1947年(昭和22年)9月1日、石田波郷、神田秀夫らとともに現代俳句協会を設立。
1948年(昭和23年) 山口誓子を擁して「天狼」を創刊、編集長となる。第二句集「夜の桃」を刊行。「激浪」主宰。春、30年ぶりに帰郷する。「激浪」の発行所を津山市上之町、室賀達亀方に置く。
1948年(昭和23年)大阪府枚方市に転居。香里病院に勤務。
1951年(昭和26年) 第三句集「今日」刊行。
1952年(昭和27年)俳誌『断崖』を発刊、主宰。
1956年(昭和31年) 角川書店の総合誌「俳句」編集長になる。翌年辞職。
1960年(昭和35年) 還暦祝賀会。
1961年(昭和36年) 俳人協会設立発起人になる。10月、胃癌の手術。
1962年(昭和37年) 第四句集「変身」を刊行。4月1日61歳で逝去。8日、角川書店で俳壇葬。5月27日、関西追悼祭。28日、遺骨を津山市成道寺に納める。墓句樽銘は山口誓子筆。第二回俳人協会賞を贈られる。「断崖」は108号で終刊。
1977年(昭和52年) 随筆「神戸・続神戸・俳愚伝」を改題「冬の桃」(毎日新聞社刊)を出版し、小林桂樹主演でNHKテレビでドラマ化「冬の桃」(早坂暁脚本、全7回)が放送される。
郷里の津山市では1992年より「西東三鬼賞」を授与している。

人物評
歯科医師の傍ら、句作活動を行っていた。トレードマークは、口髭とベレー帽であった。ダンスやゴルフが趣味で、女性にも人気があったという。また7ヶ国語が堪能であったといい、「ダンディ」という言葉がよく似合う人柄であった。
斬新でユーモアに富んだ句を多く残している。本人曰く、「三鬼」の号は「サンキュー」から採ったと冗談半分で語っていたそうである。

句集・作品集

変身
夜の桃
三鬼百句
今日
西東三鬼句集
神戸・続神戸・俳愚伝
など
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彼の代表作として私が選んだものを引いて終わる。

   聖燭祭工人ヨセフ我が愛す

   右の眼に大河左の眼に騎兵

   梅を噛む少年の耳透きとほる

   道化師や大いに笑ふ馬より落ち

   厖大な王(ワン)氏の昼寝端午の日

   機関銃低キ月輪コダマスル

   逆襲ノ女兵士ヲ狙ヒ撃テ!

   塹壕の壁を上りし靴跡なり

   主よ我もよふけに家にかへらざり

   国飢ゑたりわれも立ち見る冬の虹

   寒灯の一つ一つよ国敗れ

   中年や独語おどろく冬の坂

   おそるべき君等の乳房夏来る(きたる)

   赤き火事哄笑せしが今日黒し

   黒蝶は何の天使ぞ誕生日

   逃げても軍鶏に西日がべたべたと

   くらやみに蝌蚪の手足が生えつつあり

   モナリザに仮死いつまでもこがね虫

   やわらかき蝉生まれきて岩つかむ

   暗く暑く大群集と花火待つ

   つらら太りほういほういと泣き男

   凶作の刈田電柱唸り立つ

   木瓜の朱へ這ひつつ寄れば家人泣く

   春を病み松の根っ子も見あきたり・・・・・・・(絶筆)



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