K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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百枚の浴衣を干すも花の中・・・・・・・・・・・・・・・・高野素十
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       百枚の浴衣を干すも花の中・・・・・・・・・・・・・・・・高野素十

素十は東大医学部在学中に、同学の水原秋桜子に誘われて俳句をはじめ、大正12年以降、虚子に師事して頭角を現した。
「東に秋素の二Sあり、西に青誓の二Sあり」と山口青邨が言ったように、いわゆる「ホトトギス」の四S(秋桜子、素十、青畝、誓子)時代を築いた虚子門の逸材である。
虚子の唱えた客観写生、花鳥諷詠を最も忠実に継承し、日常の事象を確かな切り口で鮮やかな句に仕立て上げている。
落花を詠んだ歌や句は多いが、この句は無駄のない明確さで、花吹雪の軽やかさ、華麗さを見事に捉えている。
花吹雪を詠もうとする人は、意識せざるを得ない句であろう。昭和28年刊『野花集』に載る。
以下、素十の句を少し引いてみる。

 春水や蛇籠(じゃかご)の目より源五郎

 ひざまづき蓬の中に摘みにけり

 迎火を女ばかりに焚きにけり

 秋風やくわらんと鳴りし幡(はた)の鈴

 弘法寺の坂下り来れば鶏合

 蟻地獄松風を聞くばかりなり

 方丈の大庇より春の蝶

 まつすぐの道に出でけり秋の暮

 揚羽蝶おいらん草にぶら下る

 生涯にまはり灯籠の句一つ

 翅わつててんとう虫の飛びいづる

 羅にほそぼそと身をつつみたる

 歩み来し人麦踏をはじめけり

 親馬は梳(くしけづ)らるる仔馬跳び

 くもの糸一すぢよぎる百合の前

 食べてゐる牛の口より蓼の花

 三日月の沈む弥彦の裏は海

 百姓の驚くほどの朝月夜

 雪明り一切経を蔵したる

 一行を書きそれを消し梅雨長し

 はじめての町はじめての春夕べ
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ネット上に載る記事を引いておく。

高野素十
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高野素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 ~ 1976年(昭和51年)10月4日)は、日本の俳人、医学博士。山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに名前の頭文字を取って『ホトトギス』の四Sと称された。本名は高野与巳(よしみ)。

生涯
1893年(明治26年)茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。新潟県長岡市の長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)、東京の第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に入学。法医学を学び血清化学教室に所属していた。同じ教室の先輩に秋桜子がおり、医学部教室毎の野球対抗戦では素十が投手をつとめ秋桜子が捕手というバッテリーの関係にあった。

1918年(大正7年)東京帝大を卒業。大学時代に秋桜子の手引きで俳句を始める。1923年(大正12年)『ホトトギス』に参加し、高浜虚子に師事する。血清学を学ぶためにドイツに留学。帰国後の1935年(昭和10年)新潟医科大学(現・新潟大学医学部)法医学教授に就任し、その後、学長となる。1953年(昭和28年)60歳で退官。同年、俳誌『芹』を創刊し主宰する。退官後は奈良県立医科大学法医学教授を1960年(昭和35年)まで勤める。

1976年(昭和51年)没、享年83。千葉県君津市の神野寺に葬られた。

素十の作風は虚子の唱えた「客観写生」に忠実であり、自然を徹底して客観的・即物的に描写し「純写生派」と呼ばれた。特に近景の描写に優れていた。秋桜子は同窓の後輩であった素十をライバル視し、お互いの師であった虚子は素十に対し肯定的であった。このため秋桜子は、素十の句を批判的に評していた。


作品集
初鴉(1947年)
雪片(1952年)
野花集(1953年)
素十全集(1970年)


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