K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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自が生地選べぬままに老い古りぬ桜の一樹わが生もまた・・・・・・・・・・・・・・木村草弥
entry_25しだれ桜小渕沢

   自(し)が生地選べぬままに老い古りぬ
     桜の一樹わが生もまた・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWebのHPでも、ご覧いただける。

掲出した写真は小渕沢のしだれ桜である。写真を見ただけでも、かなりの年数を経た桜の木であることが判る。
このように老いた桜の木を見ていると、この木が、どういう長い歳月を生きて来たのかが気にかかる。
しかも、その地に根づくにあたっても、桜の自由意志で、そこに生えているのではない。自然播種ということは、桜の場合あり得ないからである。
つい最近読んだ本によると、吉野山の桜も自然に生えたものではなく、人の手によってずっと昔に手植えされたものだという。
何千本という山桜の木を手植えした古代の人々の並々ならぬ情熱を思い知らされるのである。
だから、私は「自分の生地も選べぬままに」と感慨を抱くに到ったのである。それが四句までの私の歌の描写になっている。
そういう桜の老い樹を見ていて、さて私自身はどうなのか、と振り返ってみたら、私の「生」も、この桜と同じく、私の自由意志でここに生きているのではなく、天地の「巡り合わせ」で、ここに「生かされている」のではないか、という感慨に辿りついた、ということである。
詩歌の場合、こういう自然物という具象を見て、人間としての「生きざま」に思いをいたす、ということが、よくある。
俳句の場合は字数が少ないので、そういう詠嘆を詠みこむということが難しいかも知れない。
皆さんは、どう思われるだろうか。

今の時期は、桜が満開か、あるいは散り始める所もあるかも知れないので、今月に入ってから、集中的に「桜」を詠んだ作品を載せることにしている。後いくつかは載せるつもりである。



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