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K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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乳母車夏の怒涛によこむきに・・・・・・・・・・・橋本多佳子
toukakukago乳母車②

  乳母車夏の怒涛によこむきに・・・・・・・・・・橋本多佳子

夏の怒涛がうち寄せる海岸の砂浜、乳母車が波に向かって横向きに置かれている。乳母車の中の幼児は怒涛を飽きることなく上機嫌で眺めているかも知れない。しかし、この乳母車の位置や置かれ方には、読む人をハッとさせる危うさがある。作者の感じ取った不安が、「よこむきに」の一語にさりげなく、しかし正確に表現される。幼い命を容れる乳母車と、迫る夏の土用波の怒涛。
この句は作者の意図を、たぶん大きく超えて、深く読み込まれる類の作品だろう。

橋本多佳子は昭和38年64歳で亡くなった東京生れの人。九州小倉の橋本豊次郎と結婚。自宅の櫓山荘での句会で虚子を知り、杉田久女に習う。あと山口誓子に師事する。命に触れたものを的確な構成によって詠いあげたが、東京生まれだけあって都会的なセンスが溢れている。この句は昭和26年刊『紅糸』に載る。
以下、多佳子の句を少し引く。

 若布(め)は長けて海女ゆく底ひ冥(くら)かりき

 月光にいのち死にゆくひとと寝る

 月光に一つの椅子を置きかふる──夫の忌に

 母葬る土美しや時雨降る──82歳の母を郷土に葬る

 つゆじもや発つ足袋しろくはきかふる──四日市に誓子先生を訪う

 箸とるときはたとひとりや雪ふり来る

 雪はげし抱かれて息のつまりしこと

 鶏しめる男に雪が殺到す

 万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて

 雄鹿の前吾もあらあらしき息す

 女(め)の鹿は驚きやすし吾のみかは

 夫(つま)恋へば吾に死ねよと青葉木莵

 蛍籠昏ければ揺り炎えたたす

 老いよとや赤き林檎を掌に享くる

 霧月夜美しくして一夜ぎり

 青芦原をんなの一生(よ)透きとほる──久女を恋いつつ遠賀川を渡る

 この雪嶺わが命終に顕ちて来よ

 おとろへて生あざやかや桜八重

 綿虫とぶものに触れなばすぐ壊(く)えん

 火を恋ふは焔恋ふなり落葉焚き

 雪の日の浴身一指一趾愛し
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私は彼女の句が好きで、何度も引いてきたが、ネット上に載る記事を、下記に転載しておく。
エピソードも豊かで、いい文章である。

2橋本多佳子

20. 橋本多佳子

雪はげし抱かれて息のつまりしこと
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 橋本多佳子。美女の誉れたかい高貴の未亡人。大輪の花。ゆくところ座はどこもが華やいだという。
 明治三十二年、東京本郷に生まれる。祖父は琴の山田流家元。父は役人。四十四年、菊坂女子美術学校日本画科に入学するも病弱のために中退。大正三年、琴の「奥許」を受ける。
 六年、十八歳で橋本豊次郎と結婚。豊次郎は大阪船場の商家の次男で若くして渡米し、土木建築学を学んで帰国、財を成した実業家。ロマンチストで、芸術にも深い造詣があった。結婚記念に大分農場(十万坪)を拓き経営。九年、小倉市中原(現、北九州市小倉北区)に豊次郎設計の三階建て、和洋折衷の西洋館「櫓山荘」を新築。山荘は小倉の文化サロンとなり、中央から著名な文化人が多く訪れる。
 十一年、高浜虚子を迎えて俳句会を開催。このとき接待役の多佳子が、暖炉の上の花瓶から落ちた椿の花を拾い、焔に投げ入れた。それを目にした虚子はすかさず一句を作って示すのだ。「落椿投げて暖炉の火の上に」。この一事で俳句に興味を覚える。これより同句会に参加していた小倉在住の杉田久女の指導を受けて、やがて「アララギ」他の雑詠に投稿する。
 昭和四年、小倉より大阪帝塚山に移住。終生の師山口誓子に出会い、作句に励む。私生活では理解ある夫との間に四人の娘に恵まれる。まったく絵に描いたような幸せな暮らしぶり。しかし突然である。

 月光にいのち死にゆくひとと寝る

 十二年九月、病弱で寝込みがちだった豊次郎が急逝。享年五十。「運命は私を結婚に導きました」(「朝日新聞」昭和36・4)。その愛する夫はもう呼んでも応えぬ。これもまた運命であろうか。多佳子三十八歳。葬後、ノイローゼによる心臓発作つづく。「忌籠り」と題する一句にある。

 曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ

 日支事変から太平洋戦争へ。十九年、戦火を逃れ奈良の菅原に疎開。美貌の人が空地を拓き、モンペをはき、鍬を振るい畑仕事に精を出す。
 敗戦。二十一年、関西在住の西東三鬼、平畑静塔らと「奈良俳句会」を始める(二十七年まで)。奈良の日吉館に米二合ずつ持ち寄り夜を徹して句作する。この荒稽古で多佳子は鍛えられる。「何しろ冬は三人が三方から炬燵に足を入れて句作をする。疲れればそのまま睡り、覚めて又作ると云ふ有様である。夏は三鬼氏も静塔氏も半裸である。……奥様時代の私の世界は完全に吹き飛ばされてしまつた」(「日吉館時代」昭和31・9)
 はじけた多佳子は生々しい感情を句作ぶっつけた。

 息あらき雄鹿が立つは切なけれ

 秋、交尾期になると雄鹿は雌を求めもの悲しく啼く。「息あらき雄鹿」とは雌を得るために角を合わせて激しく戦う姿。多佳子はその猛々しさに目見開く。「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」「寝姿の夫恋ふ鹿か後肢抱き」。雄鹿にことよせて内奥をあらわにする。それがいよいよ艶めいてくるのだ。
 ここに掲げる句をみよ。二十四年、寡婦になって十二年、五十歳のときの作。降り止まぬ雪を額にして、疼く身体の奥から、夫の激しい腕の力を蘇らせた。亡夫へこの恋情。連作にある。

 雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ

 物狂おしいまでの夫恋。「夫の手のほか知らず死ぬ」。微塵たりも二心はない。そうにちがいない。だがしかしである。
 ここに多佳子をモデルにした小説がある。松本清張の「花衣」がそれだ。主人公の悠紀女が多佳子。清張は小倉生まれだ。「自分も幼時からK市に育った人間である。……彼女がその街にいたときの微かな記憶がある。それはおぼろげだが、美しい記憶である」として書くのだが、いかにも推理作家らしい。なんとあのドンファン不昂(三鬼)が彼女を口説きひどい肘鉄砲を喰らわされたとか。それらしい面白おかしいお話があって、ちょっと驚くような記述がみえる。
「……悠紀女は癌を患って病院で死んだ。……その後になって、自分は悠紀女と親しかった人の話を聞いた。彼女には恋人がいたという。/対手は京都のある大学の助教授だった。年は彼女より下だが、むろん、妻子がある。……よく聞いてみると、その恋のはじまったあとあたりが、悠紀女の官能的な句が現れたころであった」
 でもってこの助教授が下世話なやからなのだ。それがだけど彼女は別れるに別れられなかったと。そんなこれがぜんぶガセネタ、デッチアゲだけでもなかろう。とするとこの夫恋の句をどう読んだらいいものやら。ふしぎな味の句も残っている。

 夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

 しかしやはり多佳子はひたすら豊次郎ひとりを一筋恋いつづけた。ここはそのように思っておくことにする。美しい人は厳しく身を持して美しく老いた。年譜に二十七、三十一、三十三年と「心臓発作」の記録がみえる。

 深裂けの石榴一粒だにこぼれず

 三十五年七月、胆嚢炎を病み入院。年末、退院するも、これが命取りとなる。じつにこの石榴は病巣であって、はたまた命の塊そのもの。

 雪の日の浴身一指一趾愛し

 三十八年二月、入院前日、この句と「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」の二句を短冊にしたためる。指は手の指、趾は足の指。美しい四肢と美しい容貌を持つ人の最期の句。
 五月、永眠。享年六十四。

(『紅絲』昭和二十六)

*『橋本多佳子全集』(立風書房)、 『橋本多佳子句集』(角川文庫)
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彼女については何度も句を引いて書いてきたので、記事に重複があるかも知れないが、ご了承を願いたい。


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