K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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北村薫『うたあわせ』─北村薫の百人一首・・・・・・・・・木村草弥
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──新・読書ノート──

     北村薫『うたあわせ』─北村薫の百人一首・・・・・・・・・木村草弥
             ・・・・・新潮社2016/04/22刊・・・・・・

     短歌は、美しく織られた謎……言葉の糸をほぐして、隠された暗号を読み解く。

    歌と歌を繋ぐ糸を見つけて、向かい合い、背を向け、また遠く離れてなお響き合う、歌の奏でる音を聴く。
    独自の審美眼で結び合わせた現代短歌五〇組一〇〇首。
    塚本邦雄+石川美南から、三井ゆき+佐佐木幸綱まで、短歌総数五五〇首を収録。
    確かな読みで、その魔力を味わい尽くす、前代未聞のスリリングで豊かな短歌随想。        

北村薫の本については、以前にを採りあげたことがある。
はじめに新潮社の読書誌「波」四月号に載る書評と座談会の記事を引いておく。
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   [北村 薫『うた合わせ 北村薫の百人一首』刊行記念特集]
       百首を這いめぐる触手     佐伯裕子
 

 はっとする鑑賞に出会った。吉川宏志の「夢に棲む女が夢で生みし子を見せに来たりぬ歯がはえたと言いて」に関わる箇所だ。結句のしんとした怖さをどう読み取るか。
フローベールの『ジュリアン聖者』(岩波文庫)の一行、山田九朗訳が引用される。「――一度も泣かずに歯が生えた」。生き物を殺戮することに取り憑かれる幼児の描写だ。
かつて、この一行に「慄えた」と著者は書く。
 だが、山田訳の一行は、原文の意味を一瞬のうちに誤読させるもののようだった。「歯もはえそろったが、そのために泣いたことは一度もない」(桑原武夫訳)など、忠実な訳が紹介されていく。
だが、理に適って見えるどの訳も、著者を戦慄させてはくれなかった。
「夢という非現実から、その小さいが白々とした《歯》が現実に食い入って来そうになる」という結句の解釈。翻訳の一行に導かれた鑑賞が、吉川の一首をさらに怖いものにしている。
 心動かされた初発の印象を、安易に「正しさ」に譲りわたさないのは、創作者としての心意気だ。どの鑑賞にも息づくその姿勢は、歌人の藤原龍一郎、穂村弘との巻末の鼎談でも露出する。
木下龍也の「つむじ風、ここにあります 菓子パンの袋がそっと教えてくれる」などの解釈にまつわるやりとりだ。
「店先に並ぶ菓子パンの袋がそっと囁く」とする、直観的で一途な解釈にたじろぐ二人。著者の抑えがたい想像力が浮き彫りにされる場面である。
 韻律に関わる箇所も印象深い。
仙波龍英の「ひら仮名は凄じきかなはははははははははははは母死んだ」、香川ヒサの「ひとひらの雲が塔からはなれゆき世界がばらば らになり始む」の二首の組だ。
本来は「母母母母母母」となるところが、短歌の場合、平仮名だと「ははははは・ははははははは」と五句七句に別けて読まれてしまう。すると、読後に「哄笑」が響きわたる。
この一首から、韻律の怖さと同時に、仙波の韻律への憎悪を読み取っているのである。香川の歌も、一字空けの効果を、「短歌の調べが世界を引き裂く」もの、と鋭く指摘する。
 何しろ「――一度も泣かずに歯が生えた」という一行に、瞬時に共振する感性だ。たった一行が放つ衝撃を、今度は一首の短歌に読み取ろうとする。
読後の瞬時の戦慄をもとに書かれているのだが、その視線は、百首の歌を這いめぐる触手のようにも思えてくる。
「かくのごと綴られてゆくよろこびのこゑいかばかりわたしが言葉ならば」はどうだろう。詞書「吉行淳之介『目玉』読後」を添える西村美佐子の一首だ。
艶のある文章を読む悦びが全身でうたわれている。
この官能的な歌を鑑賞するのに、著者自身が言葉になって、一首を這いめぐるのである。書くことの愉悦、読むことの愉悦を知る者の、最良の選歌といっていい。
 読んでいて嬉しいのは、選ばれた歌がユニークだったり、これまで気づかなかった秀歌だったりすることだ。それも、どちらかといえば、仄暗い深淵を湛える歌が多いように思われる。
例えば、三井ゆきの、夫を焼き場に送った一首、「覚えてもゐぬことを思ひ出さむとす君を包みし火の色などを」。ああ、こんなに凄まじい挽歌があったのかと、しばらく感じ入ったのだった。
 戦慄する「歯」のイメージを呼び起し、「世界を引き裂く」調べの怖さを指摘し、そうして「言葉と同化する」法悦へと読者を誘っていく。そのような鑑賞のうちに、著者自身が見ている風景の仄暗さ、もの悲しさに浸されてしまうのである。
 誤読を恐れず、初発の感動を手放さない鑑賞に、わたしは自由な広がりを感じた。小説家である著者には、一首のめぐりに、重層的なイメージやドラマが見えていたにちがいない。
短歌は、好んで読み承いでくれる人によって、豊かに太っていく詩型なのだ。   (さえき・ゆうこ 歌人)
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       [北村 薫『うた合わせ 北村薫の百人一首』刊行記念特集]
        【座談会】短歌というミステリーの謎とき   北村 薫×藤原龍一郎×穂村 弘


本書の巻末に収録された〈歌人と語る「うた合わせ」〉(ラカグsokoでの公開トーク)の一部をご紹介します。

北村 「短歌俳句は作る人でなければ、本当に味わうことはできない」といわれます。私は短歌を作らないんです。「歌人には、どう読まれるのだろうか」と、恐る恐る(笑)、お聞きいたします。
穂村 韻文のパワーって、いわゆる正しさみたいなものからずれたところで成立することがやっぱりあって、そういうことを、書き手の感受性がつきとめているっていうのかな。でも、それは韻文をやる人はみんな直感的に知ってるんだけど、北村さんは直感的に知っていることを、散文的にもう一回、検証されている。韻文の魅力は正しさだけにはないっていうことを重々知っていながら、同時に散文的な執念みたいなものも持っていて、そこに、謎を解いていくミステリーのセンスを感じるんです。
 僕はミステリーをそんなに読み込んでいるわけじゃないけど、自分が好きなミステリーって再読できる。それは散文的な謎が解けても、その奥には命とか存在とか人生とか、そういう根本的な謎があって、それがむしろ強化される。謎が解けたことによって、事件は解消されるが、残った一人一人の人間の命や人生はより混沌として異様な感じになって、世界はなんて恐ろしいんだっていうふうに思えるものこそが、すごくかっこいいって思うんだけど、それは、韻文的な深さと散文的な誠実さの両方がないと成立させることのできないジャンルだって思うんですよね。北村さんも、普段ミステリーを書くときに、そういう書き方をしていると思うのですが、短歌を読むときにも、その両輪をすごく回してるっていう感じがするんです。韻文だからわからなくていいとか、そういう読み方ではなくて、ある種の正しさ、散文的な明快さを突き詰めようとする。でも、それがどこかで破綻すると、声を上げて喜ぶみたいなところがあって。とても楽しそうなんです。それを楽しいって感じる感受性がすごくあるんだな、と。だから、この本はとてもスリリングなんですよ。
 短歌っていうのは、誰でも一人では味わい切れないジャンルっていう感じがするんです。こういう名手がその味わいかたを教えてくれる――しかも自分が普通とは違う読みをしたっていうことも堂々と書いてくれているから、そこが、やっぱりすごく面白いんです。
藤原 これは北村薫っていう人の目で短歌を読みこんだもので、単なる現代短歌の鑑賞の本ではないですよね。それは歴然とわかります。穂村さんがおっしゃったことは、まったくそうなんです。そして全部読んでいくと、「うた合わせ」として短歌が二首並んで選び出されているけど、結局はその章の中にほぼ九割九分まで一首目のことしか書いてなくて、最後にちょっとだけもう一首のことが触れられているというような章もある、ただの鑑賞の本ではありえない書き方です。
 やっぱり覗いてる窓が違うんですよね。歌人からは、こういう読みって出ないと思うんですよ。
北村 そのお言葉は、すごくありがたいですね。ほかの人が書かない、書けないだろうって本を書くことが、書く者の務めですからね。
穂村 それに、とにかく楽しそうですよね。小説を書くときより楽しんでいるんじゃないかって思うぐらい、文章にも、その感じがにじみ出ています。ずっと短歌を書いてると、短歌って面白いのかな?――みたいな感じになって、わからなくなってくる。最初の何か月かはすごく面白いって確信していたのに。だから、改めて「あ、短歌ってやっぱり面白いんだ」って、思いました。文体そのものも喜びに満ちています。非常に貴重なカンフル剤となってくれる感じがします。
藤原 この本は普通の短歌の読み方を教える本ではないんです。歌人向けでもない。短歌だけでなく文学全般に興味がある人が、読者として想定されている本だと思います。こういう形で現代短歌を読み解いた本はなかった。こういう形の読みに、現代短歌は直面して来なかったんです。どうしても二十年、三十年と短歌を創っていると、ほとんどの歌人の看板を知っているような気になってしまうので、一切のしがらみがない立場で、作品として読んでいるというところがとても貴重だと思います。たくさんの人に読んで欲しいですね。(きたむら・かおる 作家)(ふじわら・りゅういちろう 歌人)(ほむら・ひろし 歌人)
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北村薫/キタムラ・カオル
1949年埼玉県生まれ。早稲田大学では、ミステリ・クラブに所属。母校埼玉県立春日部高校で国語を教えるかたわら、1989年、「覆面作家」として『空飛ぶ馬』でデビュー。
1991年『夜の蝉』で日本推理作家協会賞を受賞。
小説に『秋の花』 『六の宮の姫君』 『朝霧』 『スキップ』 『ターン』 『リセット』 『盤上の敵』 『ニッポン硬貨の謎』(本格ミステリ大賞評論・研究部門受賞)『月の砂漠をさばさばと』 『ひとがた流し』
『鷺と雪』(直木三十五賞受賞)『語り女たち』 『1950年のバックトス』 『いとま申して 「童話」の人びと』 『慶應本科と折口信夫 いとま申して2』 『飲めば都』 『八月の六日間』 『太宰治の辞書』 『中野のお父さん』などがある。
読書家として知られ、『詩歌の待ち伏せ』 『謎物語』 『ミステリは万華鏡』 『読まずにはいられない 北村薫のエッセイ』 『書かずにはいられない 北村薫のエッセイ』など評論やエッセイ、
『名短篇、ここにあり』 『名短篇、さらにあり』 『とっておき名短篇』 『名短篇ほりだしもの』 『読まずにいられぬ名短篇』 『教えたくなる名短篇』(宮部みゆきさんとともに選)などのアンソロジー、新潮選書『北村薫の創作表現講義』、新潮新書『自分だけの一冊 北村薫のアンソロジー教室』など創作や編集についての著書もある。




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