K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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ながむれば心もつきて星あひの空にみちぬる我おもひかな・・・・・・・右京大夫
E5AF82E58589E999A201寂光院

   ながむれば心もつきて星あひの
     空にみちぬる我おもひかな・・・・・・・・・・・・・・・・右京大夫


京都市左京区大原草生町(市バス大原下車)の寂光院の境内の裏に、この歌の作者である建礼門院右京大夫の墓と伝えられる五輪の塔がある。
寂光院は、第80代高倉天皇の中宮・建礼門院徳子(平清盛の娘、安徳天皇生母)が、平家滅亡後、晩年に隠棲した寺であり、終焉の地でもある。
『新版・都名所図会』の巻の三に「寂光院は草生村にあり。もと弘法大師の開基にして、文治の頃、建礼門院閑居し給ひしより、今に至り尼寺となる。本尊地蔵菩薩は聖徳太子の御作なり。即ち門院の御影(みえい)、阿波内侍の像あり。庭にはみぎはの池、みぎはの桜あり。」として、後白河法皇が大原御幸のとき詠まれた

    池水に水際(みぎは)の桜ちりしきて浪の花こそさかりなりけれ

その返し歌に女院(建礼門院)が詠まれた

    思ひきや深山の奥にすまひして雲井の月をよそに見んとは

という、共に『平家物語』の歌を紹介している。

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それは文治2年(1186年)加茂の祭の終わった初夏のある日であった。
法皇を迎えた建礼門院は、仏前で、ここ数年の間に自らが体験した六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の有様、先帝の最期などを語り、共に涙で袖を絞られるのであった。
『平家物語』に名高い「大原御幸」のくだりである。
現在は寺は天台宗で、本堂は淀君の寄進と伝えられている。
写真③が長楽寺に安置される建礼門院の坐像である。
Cus10022建礼門院坐像

右京大夫が女院に仕えたのは承安3年(1173年=17歳)から治承2年(1178年=22歳)までの五年間ほどで、女院のもとを辞したのは母・夕霧の病気看護のためである。
晩年、平家滅亡の後、逆境にある女院のために再びお側に仕えたいという意思はあったようだ。

     今や夢昔や夢とまよはれていかに思へどうつつとぞなき

という『右京大夫集』に載る歌の詞書で、大原の里を訪ねたことは知られているが、その後お仕えしたかどうかははっきりしていない。
もし寂光院の裏庭にある五輪の塔の中に右京大夫の墓があるとすれば、死してもなお女院にお仕えしたい彼女のたってもの願いによるものかも知れない。

大原が京都市に編入されたのは昭和24年であるから、女院の歌のように当時は都から隔てられた地、という意識が強かったであろう。
はじめに書いたように建礼門院右京大夫と書かれることが多いが、これは右京大夫が建礼門院にお仕えしていた職務上の身分を付け加えて表記してあるに過ぎず、建礼門院・徳子尼と同じ人物ではないことを留意いただきたい。
写真②の図版(岩波文庫)のように右京大夫は歌人として著名な人ある。
右京大夫の恋の相手としては平重盛の子・資盛、源頼朝の肖像画を描いた藤原隆信などが知られるが、資盛は壇ノ浦の合戦で源氏に敗れ入水して果て、隆信は彼女が49歳のときに亡くなっている。
彼女の中では、若くして死んだ資盛にかけた思いは強く、ただ一人で一周忌法要を営んだことが

     いかにせん我がのちの世はさてもなほ昔のけふをとふ人もがな

という歌と、その前書き(右京大夫集)から知ることが出来る。
恋人を失った彼女にとって、旧主・建礼門院が救出され、都へ戻ってきたことが唯一の慰めだったろうと思われる。たとえ伝説であるとしても、右京大夫の墓が旧主・建礼門院の御陵墓(大原西陵)に近く、寂光院山中にあるというのは、そこを訪れる私たちの心の慰めでもあろうか。
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寂光院は先年、心ない人によって放火され、ご本尊の地蔵菩薩像などが焼けたが、ようやく建物も修復され、ご本尊の像も専門のところで修復されて戻ってきた、と報道されている。
私は、まだ、それを拝観していないが、ご本尊は恐らく、本体はそのまま仏像の体内に残して、表面を新しい部材で修復したのではないか。
報道でも、そういう肝心のことは何も伝えられないので、よく判らない。
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先年放映のNHKの連続ドラマ「義経」では、幼い安徳天皇は、?親王と入れ替わって建礼門院の手元で生きている(すぐ出家されるが)という筋書きになっているが、これは原作者の宮尾登美子の「宮尾本平家物語」が、そういう設定になっているものに基づくもので、あくまでも架空の話で、事実はどうだったのかは判らない。


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