K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
201702<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201703
萩の花/尾花 葛花/瞿麦の花/女郎花/また 藤袴/朝貌の花・・・・・山上憶良
aaoohagi001萩大判

   萩の花/尾花 葛花/瞿麦(なでしこ)の花/
       女郎花/また 藤袴/朝貌(あさがほ)の花・・・・・・・・・・・・・山上憶良



憶良は奈良時代の歌人。遣唐使として渡唐、後に筑前守(ちくぜんのかみ)となった。
人生の苦悩、社会の階級的矛盾を多く詠った歌人であったが、稀には、この歌のように、ふと目にとまった懐かしい景物をも詠った。
この歌は577、577のリズムの旋頭歌(せどうか)形式で秋の七草を採り上げている。念のために区切りを入れておいた。
尾花はススキ、藤袴はキク科の多年草で、秋、淡紫色の小さな筒状の袴を思わせる花を多数散房状に開く。
朝貌はアサガオ、ムクゲ、キキョウ、ヒルガオなどの諸説がある。
『万葉集』巻8に載る歌。

fujiba1藤袴

藤袴というのが、どんな花か知らない人のために写真②にフジバカマを載せる。おおよそ、日本古来の「七草」というのは派手さのない地味な花である。
現代人は西洋や新大陸あるいは熱帯の派手な花に慣れているので、いかにも地味な感じを受けるのである。
写真③にナデシコの花を紹介しておく。
800px-E382ABE383AFE383A9E3838AE38387E382B7E382B3_Dianthus_superbus_var__longicalycinus.jpg

先に山上憶良は万葉集の中ではめずらしく、社会の階級的矛盾を詠った、と書いたが、以下、憶良について書いてみたい。
その歌の典型的なものは『万葉集』巻5(歌番号892、893)に載る有名な「貧窮問答の歌」1首(長歌)と反歌のことである。
この歌を作って上官に差し出した時、聖武天皇が即位してからもう10年以上が経つ天平という年号の時代のはじめの頃のことである。
伯耆、筑前の国守の経歴を踏んだ老いた官人・憶良にして、ようやく出来た歌である。長いのではじめのところのさわりの部分と反歌を引用するにとどめる。
問うのは冬の夜の貧者、つまり作者と、それに応える極貧者の隣人という問答の形を採る。

風雑(まじ)り 雨降る夜の 雨雑(まじ)り 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 鬚かき撫でて ・・・・・・寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る・・・・・・・
(反歌)
世間(よのなか)を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

山上(山於)の家については、よくわからない。
憶良の名前が『続日本紀』に登場するのは701年(大宝1年)のことで、そこには「無位山於憶良」と書かれている。
没年から逆算すると、この時42歳。この頃は、臣(おみ)という姓(かばね)も有していなかったのではないかと言われている。
701年に文武天皇の政府は唐との通交を再開することを決め、粟田真人以下の遣唐使を任命した。
その随員の末席に「無位山於憶良」の名が見え、その役目は「少録」つまり書記であった。
随分おそすぎるとは言え「少録」に抜擢されたことは42歳にしてつかんだ幸運と言える。
彼は翌702年に渡航し、704年(慶雲1年)に帰朝したようである。研究者によると、これらにまつわる記述もあるが省略する。
帰朝後、彼は、せいぜい六位くらいになって、中央官庁の下っぱ官人の地位を得た筈である。
714年(和銅7年)1月に正六位下から従五位下に昇進し、ようやく716年(霊亀2年)4月に伯耆国守に任ぜられ山陰の地に赴いた。
こういう地方長官としての経験が「貧窮問答の歌」というような画期的な歌の制作の前提になっていると言えよう。
721年(養老5年)に呼び戻されて、東宮(のちの聖武天皇)に近侍するようになり、中国の学問などについて進講したようである。
東宮は724年(神亀1年)に即位して聖武天皇になる。
これらの間に長屋王や大伴旅人をはじめ当代の碩学たちとの交流によって、その学識を深めたと思われる。
彼には『類聚歌林』という編著があって、『万葉集』には同著からの引用があることで、そのことが判るが万葉集の編者が、それを活用したと言える。
726年(神亀3年)に筑前国守に任命されたが、もはや老年で栄転とも言えないが、かの地では上官として赴任してきた大伴旅人などと交流している。
彼の「沈痾自哀の文」という長い漢文の文章や、万葉集巻6の天平5年(733年)のところに配列されている「彼、口述」という次の歌(歌番号978)

        ・・・・・・・・・・山上臣憶良の沈(おも)き病の時の歌1首
     士(をのこ)やも空しかるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして

の歌は辞世の歌として悲哀に満ちた響きを持っている。同年没の様子である。



コメント
コメント
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
copyright © 2017 Powered By FC2ブログ allrights reserved.