K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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冬が来た。白い樹樹の光を体のうちに蓄積しておいて、夜ふかく眠る・・・・・・前田夕暮
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  冬が来た。白い樹樹の光を体のうちに
      蓄積しておいて、夜ふかく眠る・・・・・・・・・・・・・・・・前田夕暮


この歌は、「口語自由律短歌」と呼ばれるものである。
「白い樹樹の光」というのを、たとえば雪を被って白くなった樹木と捉えることも出来るが、それだと詩的な面白味は薄れる。
むしろ葉が落ちて、裸になった樹木にあたっている冬の日の光そのものを、作者は「白い」と感じているのだろう。
この歌は、白い樹樹の光を「体のうちに蓄積しておいて」という捉え方も面白いが、それを受けて「夜ふかく眠る」と続くところに、作者のすぐれた資質がよく出ている。
詩句における昼から夜への移行が、歯切れのいい転換によって新鮮さとふくらみを生んでいる。
昭和15年刊『青樫は歌ふ』所収。

いま歳時記を繰っていて気がついたのだが、「裸木」という季語は載っていない。
「冬木」というのはあるが、ものすごく詳しい歳時記なら載っているかも知れないが、私などは「裸木」という表現の方が、好きである。
「冬木」と言ってしまっては、葉を落とした樹木の感じを、表現の面で狭めてしまうと思うのである。
「裸木」の方が季節感を限定せずに膨らみがあり、読者の想像に任せる面が多いのではないか。
歳時記の見出し語としては「枯木」というところに入れられている。
表現として「枯木」と「裸木」では、趣きが違うのではないか。

前田夕暮については、前にも採り上げたことがある。
この歌などは強いて「短歌」と呼ばなくても「短詩」としてのリズムも的確で、すぐれた作品である。
前田夕暮は自然主義的な定型短歌から出発し、昭和ひと桁の頃に自由律に転換し、掲出したような歌を作った。
その後、戦争さなかには自由律に対する弾圧の時代が来て、戦争末期に定型短歌に復帰するに至るのだが、
自由律の作品にも、この歌のように佳いものもあるが、全体としてみると、自由律のものは散漫な作品が多く、私などは「定型」の作品の方が、粒が揃っている、と思う。

枯木の句を少し引いて終る。

 枯木中少年の日の径あり・・・・・・・・川口松太郎

 犬細し女も細し枯木中・・・・・・・・高野素十

 真青に海は枯木を塗りつぶす・・・・・・・・山口青邨

 妻は我を我は枯木を見つつ暮れぬ・・・・・・・・加藤楸邨

 大枯木しづかに枝をたらしたる・・・・・・・・長谷川素逝

 鞦韆を漕ぎはげむ木々枯れつくし・・・・・・・・橋本多佳子

 赤く見え青くも見ゆる枯木かな・・・・・・・・松本たかし

 千曲川磧(かはら)の先の桑も枯る・・・・・・・・森澄雄


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