K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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ひろひ読み拾ひよみつつふとはぐれる終りに近き此の物語・・・・・・木村草弥
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    ■ひろひ読み拾ひよみつつふとはぐれる
          終りに近き此の物語・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第一歌集『茶の四季』(角川書店)に載るものである。
同じ一連につづく歌を、引いておく。

    ■あの空の向うは楕円の空洞か
      ずるい蝙蝠(かうもり)が俺を追ひつめる・・・・・・・・・・・木村草弥


これらの歌は、いずれも「比喩」になっているもので、私の人生を「此の物語」と表現してみた。
無慈悲な歳月の推移を「ずるい蝙蝠」と描いてみたが、いかがだろうか。
掲出した図版は「源氏物語絵巻・朝顔」の段のもので、私の歌とは直接の関係は全く無い。「物語」からの連想である。

現代短歌の世界では、現代詩と同様に、こういう「比喩」表現が盛んに使われる。
もちろん、そういう「比喩」を一切しない人もあるが、リアリズム・オンリーでは歌に深みが出ない。
「比喩」には「直喩」「隠喩」など多くのやりかたがあるが、一般的に一番多いのが「ごとく」というような、単純な直喩を使ったものである。
この場合には、よほどしゃれたものでないと、読者を揺さぶるような感動を与えない。
私は短歌の世界に入る前には現代詩をやっていたので、短歌の世界に入っても、そういう「比喩」表現を採用するのに、何の抵抗もなかった。
この歌も、もう二十年も前の作品だが、先に引いた歌と同様に、すでに老境を意識したものになっている。
「ずるい蝙蝠」と言ってみたが、果たして、現実の蝙蝠が「ずるい」かどうかは判らない。
蝙蝠には悪いが、私の直感が、そう書かせたということである。
ヨーロッパの文学の世界でも、蝙蝠は良い印象を与える描き方はされていないので、そういう潜在意識を私も受け継いだと言えるだろう。

次に引用するのはネット上で見つけたものだが、東京大学の入試問題らしい。
「比喩」「蝙蝠」などに関係するので、よければ読んでみてほしい。 作曲家の三善晃の文章らしい。
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東大1996年
《第五問 現代文/芸術論(個と普遍)問題文(約1600字)
【出典】「指に宿る人間の記憶」三善晃

五 次の文章を読んで,後の設問に答えよ。
 谷川俊太郎さんの詩《ポール。クレーの絵による「絵本」のために》のなかの一編<死と泉>は,「かわりにしんでくれるひとがいないのでわたしはじぶんでしなねばならない」と始まる。それで,「わたしはわたしのほねになる」。そのとき私の骨は,この世のなにものも携えてゆくことができない。「せめてすきなうただけは きこえていてはくれぬだろうか わたしのほねのみみに」。
 この十年ほど,ときどき右腕が使えなくなる。細かい五線紙に音譜を書き揃える仕事のためか,頸椎が変形か摩耗かして,痺れと痛みが何カ月か続く。その間,右手はピアノも弾けない。鍵盤のうえに指を置いて触るだけだ。
 しかし,そうすると,ピアノの音が指の骨を伝って聴こえてくる。もちろん,物理的な音が出るわけでない。だが,それはまぎれもなくピアノの音,というよりもピアノの声であり,私の百兆の細胞は,指先を通してピアノの歌に共振する。こうして,例えばバッハを”弾く”。すると,子どものとき習い覚えたバッハの曲は,誰が弾くのでもない,大気がずっと歌い続けてきている韻律のように”聴こえて”くる。
 骨の記憶のようなものなのだろう。それは日常の意識や欲求とは違って,むしろア私とはかかわりなく自律的に作動するイメージである。多分,子どものときから腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して聴覚イメージを喚起する,ということなのだろう。だが,そうして私に響いてくる韻律は,私の指の運動を超えている。それは私の指が弾くバッハではなく,また,かつて聴いた誰かの演奏というものでもない。バッハの曲ではあるが,そのバッハも韻律のなかに溶解してしまっている。
 日常の時空を読み取る五感と意識の領域でなら,私は絶えず「自分」と出会っている。改めて振り返るまでもない日常の小さな起伏と循環……そこに出会い続ける「自分」は,丸山圭三郎さんの言われた「言分け」(言葉で理解する)と「身分け」(身体で理解する)を借りて言えば,最終的にはいつも「身分け」る自分だった。
 私は,私が他者のなかに生き,私の言葉が他者のためにしかなく,私の仕草が他者にしか見えないことを「身分け」ている。蝙蝠が自ら発する音波の反響で自分の位置を知るように,私は自分では決してなることのできない他者の鏡を借りて,絶えず自分を見続けていることも,私は「身分け」ている。そのような生き方をどのように「言分け」ても,その「言分け」は,「身分け」られる生き方を超えることはできない。例えば,どんなに死を「言分け」ても,それは私自身の生の「身分け」を超えることができない。それでもなお私は,その「身分け」を「言分け」し続けなければならない。
 だから私は,イ自分との出会いのなかに,自分を見失い続けてきた。しかし,「わたしのほね」になるほかない私の指が,私の内部で私にだけ響かせるものは,他者を介在させることなく私を凝視める「自分という他者」の声なのだ。
 私のなかに,「分け」ようとする私と絶縁した私がいる。それはウ私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>でもあるだろうか。
 私が音を書こうとするのは,その人間の記憶のためであり,また,その記憶に操られてのことなのかもしれない。それならば,いつか私が「わたしのほね」になるときに,私は「自分という他者」として自分と出会い,人間の記憶に還ることができもしようか。

[注]丸山圭三郎---一九三三~一九九三。哲学者。

(一)「私とはかかわりなく自律的に作動するイメージ」(傍線部ア)とは,どういうことか,説明せよ。
(二)「自分との出会いのなかに,自分を見失い続けてきた」(傍線部イ)とあるが,なぜか,説明せよ。
(三)「私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>」(傍線部ウ)とは,どういうことか,説明せよ。


《第五問》現代文解説・解答

●(一)「私とはかかわりなく自律的に作動するイメージ」(傍線部ア)とは,どういうことか,説明せよ。
【解説】「私とはかかわりなく自律的に作動するイメージ」という傍線部の主語は「それ」で,「それ」は前文によれば「骨の記憶のようなもの」になる。また「骨の記憶のようなもの」は前の段落末尾から,「誰が弾くのでもない,大気がずっと歌い続けてきている韻律」→「何か普遍的な韻律」ぐらいになろうか。そこで傍線部の「イメージ」は「何か普遍的な韻律」と置き換えられる。
 「私とはかかわりなく」は,傍線部を含む一文の直前に「それは日常の意識や欲求とは違って,むしろ」とあるわけだから,「日常の意識や欲求」と関わりなくという意味であろう。
 また,「自律的に作動する」の同意部は,直後の,事実上,「つまり」でつながれた「多分,子どものときから腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して聴覚イメージを喚起する,ということなのだろう。」になる。「腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して喚起される」ということである。
 合成してみると,「私の日常の意識や欲求と関わりなく,腕や指先に蓄積された運動イメージが,鍵盤の手触りに条件反射して喚起される,空間に遍在する韻律のこと。」
【解答例】
私の日常の意識を超え,身体に蓄積された運動イメージが鍵盤の手触りに条件反射して喚起される,何か普遍的な韻律のこと。

●設問(二)「自分との出会いのなかに,自分を見失い続けてきた」(傍線部イ)とあるが,なぜか,説明せよ。
【解説】まず主語は「私」である。次に傍線部を含む一文の直前に,「だから」とあるから,傍線部の理由が直前の形式段落にあることは明白である。単純に言えば「そのような生き方をどのように『言分け』ても,その『言分け』は,『身分け』られる生き方を超えることはできない。(例えば,…。)それでもなお私は,その『身分け』を『言分け』し続けなければならない」から,が答になる。しかし,これでは筆者独特の術語(いわば論理的比喩)が混ざっていてよくわからない。もう1つ前の形式段落まで行くと,「言分け」は「言葉で理解する」,「身分け」は「身体で理解する」と説明されている。つまり,「私は,そのような生き方をどう言葉で理解しても,身体での理解を超えられないのに,それでも言葉で理解し続けなければならないから」ということになる。また,「そのような生き方」の指示内容はその前にあり,それは「私は,私が他者のなかに生き,私の言葉が他者のためにしかなく,私の仕草が他者にしか見えないことを『身分け』ている。(蝙蝠が…は比喩)。私は自分では決してなることのできない他者の鏡を借りて,絶えず自分を見続けていることも,私は『身分け』ている。」を指す。「他者を通して自分を見続ける生き方」ぐらいにまとめられる。合成する。

【解答例】
他者を通して自分を見続ける生き方は,身体で理解するしかないのに,なお言葉で理解しようとし続けなければならないから。

●設問(三)「私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>」(傍線部ウ)とは,どういうことか,説明せよ。
【解説】傍線部の主語は「それ」であり,指示内容は直前の「『分け』ようとする私と絶縁した私」である。そこで,「身体による理解と言葉による理解,つまり,理解することと縁を切った自分」ということになる。
 さらに「私の指の骨にも宿っている<人間の記憶>」の同意部分を探してみよう。まず設問(一)では「骨の記憶のようなもの」があった。「私の身体に蓄積された何か普遍的な韻律」ということであった。
 さらに「『わたしのほね』になるほかない私の指が,私の内部で私にだけ響かせるものは,他者を介在させることなく私を凝視める『自分という他者』の声なのだ。」が見つかる。「私の内部に蓄積されている,他者が介在することがない『自分という他者』」ぐらいにまとまる。『自分という他者』は「個の中の普遍的なもの」ぐらいの意味だろう。
 「理解することと縁を切った自分」「私の身体に蓄積された何か普遍的な韻律」「私の内部に蓄積されている,他者が介在することがない『自分という他者』」「個の中の普遍的なもの」を合成する。
【解答例】
たとえば韻律のように,他者を通した自分への理解とは無縁の,人間の個の身体の内部に蓄積されている普遍的なもののこと。

以上。

★文章寸評(読解とは関係ありません。)
 もう少しわかりやすく書いてもらえないかなあ,三善先生!


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