K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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群青のストールに深く身を包む冬の眸をもつ人に逢ふため・・・・村田嘉子
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──銀座態──

    ■群青のストールに深く身を包む
        冬の眸(め)をもつ人に逢ふため・・・・・・・・・・・・・・・村田嘉子


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「深く身を包む」ストールの羽織り方と言えば、このスタイルであろうか。
今どき流行りの着方というと、こういうことになるのだろうか。
「冬の眸をもつ人」という言い方が、とてもしゃれている。
おでかけの行き先は、もう銀座しか、ないだろう。

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   ■いつぽんの櫂のわたくし朝雨の
        ガラスの林道漕ぎ銀座まで・・・・・・・・・・・・・・小黒世茂


この歌の作者は前衛歌人であった塚本邦雄の愛弟子で、才気煥発な女の人である。
銀座も、すっかり高層化したので、それを「ガラスの林道」と表現した比喩に満ちた歌である。
先に挙げた歌ではないが、この時、彼女は、どんな服装をしているのであろうか。
さまざまに、読者に想像させるのである。
短詩形の場合、答えが一つしかないような作品では面白くない。さまざまに考えさせるのが、よい。

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   ■夜の青 乾く銀座の石畳
       雪よりほかに乞ふものはなし・・・・・・・・・・・・・高崎淳子


今の銀座の、どこに石畳があるのか、私は知らない。
今は、もう無いとしても、乾く冬の銀座の石畳に雪よ、降ってほしい、という表現は秀逸である。

    ■モンパリの歌母と口ずさみ歩む夜の
        外堀セーヌの春の香のたつ・・・・・・・・・・石田容子


この歌は、銀座をフランスのパリになぞらえて詠まれている。パリの町並みはナポレオン3世によって都市計画がなされ、5階以上の高さの建物はないが、外見的には似ていなくもない。

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      ■雪赤く降り青く解け銀座の灯・・・・・・・・・・・鷹羽狩行

赤い灯、青い灯、と俗称される巷灯が、時ならぬ雪に映えているのを巧みに詠んでいる。

よく知られていることだが、ここでネット上に載る銀座の成り立ちを転載しておく。
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銀座の地形と成り立ち ~銀座が海だった頃から~

それは海から始まった
徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年(慶長8年)には、銀座はまだ海だった。
江戸に城はあったものの、城の東側は利根川水系の作る低湿地で、葦(あし)が繁っていた。
江戸の西側には、関東ローム層からなる武蔵野台地が広がっていた。
武蔵野台地の東側には、いくつもの谷が深く切れ込み、坂や崖を作っていた。
現在の東京都心の高台は、こうした台地の先端部分に当たる。
上野、本郷、小石川、四谷、赤坂、白金などいわゆる山の手を形成する高台だ。

日比谷入江の埋め立て
江戸城も、こうした台地の先端に築かれていた。
江戸城から見ると、現在の日比谷あたりは浅い海の入江。
日比谷の海を隔てて、日本橋から半島のように砂州が出ている。
これを江戸前島といい、前島の付け根の部分に、江戸湊(みなと)が築かれた。
幕府が最初に埋め立てたのが、日比谷の入江だった。
江戸城の目の前まで入り込んでいた入江だけに、船で攻め込まれる危険があったからだ。
加えて、武士たちを住まわせる屋敷も必要だった。
そこで埋め立て工事に拍車がかかり、江戸城から前島にかけて、新しい陸地が造られた。

水の都 江戸
日比谷の埋め立てに先立って、江戸城と江戸湊を結ぶ堀が造られた。
道三堀というこの運河は、現在は姿を消しているが、江戸城へ物資を運ぶ幹線運河だった。
川の多い江戸では、水上交通が便利であることに、幕府はいち早く気がついた。
武士、町人にとっても同じこと。
猪牙(ちょき)舟で行ける所まで行き、降りてから歩くのが普通だった。
ヴェネツィアの水上タクシーと同じ様に、猪牙舟はお江戸の人たちの足だったわけだ。
水をたたえた堀と猪牙舟の実物は、「江東区立深川江戸資料館」に再現されている。

消えた三十間堀
銀座にも、掘割が巡らされていた。現在、掘割も川もまったく残っていない。
すべて埋め立てられ、道路や高速道路に変えられてしまった。
橋は消え、その名前だけが交差点や高架橋の名称として残っている。
消えた川と掘割の代表例が、銀座通りの東側を並行して流れていた「三十間堀」だ。

三十間堀にかかる三原橋とその上を走るチンチン電車
江戸時代に造られ、1949年(昭和24年)に埋め立てられて姿を消した。
名残は唯一、「三原橋」という名前が、人びとのなかに通称として残っていること。
晴海通りと旧三十間堀が交わるあたりは、歩くと、橋のあった証拠の起伏が感じ取れる。

橋あってこそ銀座
最も有名な数寄屋橋は、外濠(ぼり)にかかっていた。
現在、上を高速道路が走る。

数寄屋橋附近
銀座にあった橋のすべてが、今は水ではなく車の流れる道と接している。
白魚橋(昭和通り)、京橋(高速道路)、城辺橋(外堀通り)、山下橋(同)、土橋(同)、新橋(同)、蓬莱橋(昭和通り)、采女橋(首都高)、万年橋(同)、三吉橋(同)etc.
今こうした橋は銀座への入口として、往時と同じ役割を果たしている。
流れる水はなくなっても、銀座へ足を踏み入れるときめきは、変わらない。


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