
↑ 阪森郁代第七歌集『歳月の気化』2016/11/25刊

↑ 阪森郁代第六歌集『ボーラといふ北風』2011/04/25刊
──新・読書ノート──
阪森郁代第七歌集『歳月の気化』・・・・・・・・・・・・・木村草弥
・・・・・・・角川書店2016/11/25刊・・・・・・・・
阪森郁代氏の第七歌集『歳月の気化』である。
五年前に第六歌集『ボーラといふ北風』を恵贈され、私は十二首の歌を抄出して返礼とした。 それに続く今回の本の贈呈である。
阪森氏は、塚本邦雄創刊の「玲瓏」に拠る歌人であり、1984年の第30回・角川短歌賞の受賞者で才知渙発の人である。
受賞作は「野の異類」の歌50首であり、1988年に刊行された第一歌集『ランボオ連れて風の中』などは私は読んでいない。
第六歌集『ボーラといふ北風』も、いくつかの趣向を凝らした歌集で、贈呈されたときには気づかなかったのだが、のちに読み返してみて、いろいろ教示されることがあった。
例えば、
<小余綾(こゆるぎ)の急ぎ足にてにはたづみ軽くまたぎぬビルの片蔭>
という歌が146ページにあるが、 「こゆるぎの」は枕詞で、「磯」「いそぎ」に掛かる。
「こゆるぎの磯」は相模の国、いまの小田原市の大磯辺りの海岸を指す。 古歌に
「こよろぎの磯たちならし磯菜つむめざしぬらすな沖にをれ浪」
「こゆるぎの磯たちならしよる浪のよるべもみえず夕やみの空」
とある歌などが出典であるらしい。
また「にはたづみ」も「渡る」「川」にかかる枕詞である。
このように、さりげない体(てい)を採りながら、実は綿密に計算し尽くされた本と言えるのである。
いかにも塚本門下の歌というべく、塚本邦雄が生きていたら激賞したであろう。
今回の本の題名も「歳月の気化」という。 この本の88ページに
<歳月の気化を思へり午睡より覚めて肌には藺草がにほふ>
という歌があり、この歌から題名が採られた、という。 年月の経過を表現するのに「歳月の気化」とは何とも凝ったことである。
作者は深い教養に支えられた、ペダンチック、かつ、ブッキッシュな表現者と言うべきである。
掲出した「帯」文は編集者が趣向を凝らしたもので、此処にこの本のエッセンスが凝縮していると言えるが、実は、このフレーズは「あとがき」の中で作者が書いていることなのである。
だから、この本を読むときは、心して、この言葉を玩味したいものである。
この本は、ほぼ逆編年体で編集されているという。
巻頭の歌は
*さざなみを立てて過ぎゆく歳月を南天は小さく笑つて見せた
*とめどなく散るものあれど日暮れともなれば従きゆくパスタの店へ
*乳の香の牡蠣を夕餉に十二月エルサレムにも雪は降るらし
巻頭の項目「冬ざれの町」から引いた。 「南天は小さく笑って見せた」なんていうくだりは何とも不気味であり、一首を屹立させた。
「乳の香」の歌など上句と下句が俳句でいう二物衝撃のように、別物でありながら歌の中で巧く融合した。
*イーハトーブは菫の季節それのみになめとこ山の熊も平らぐ
*生者にも死者にも会はず北上はイーハトーブへ抜ける風のみ
*若き賢治とつひに目の合ふ一瞬間ポシェットは肩を滑り落ちたり
「あとがき」に書かれているが、今年は念願の「塚本邦雄展」が北上市の日本現代詩歌文学館で開催され、塚本の残した厖大な資料を前に文学に立ち向かう師の情熱に打たれたのであった。
作者の初期の歌集の歌には、スタイリッシュに心象風景を詠んだ歌が見られる。 例えば
<透明な振り子をしまふ野生馬の体内時計鳴り出づれ朝>
<枯野来てたつたひとつの記憶から背のみづのやさしく湧ける>
<いちめんの向日葵畑の頭上には磔ざまに太陽のある>
などだが、年月が経つにつれて阪森の歌は徐々にスタイルを変え、このような心象風景を詠んだものは減ってきているようだ。
いわば作風が「自在」になって来た。「何でもない」ことが坦々と詠われて来るようになる。
以下、私の好きな歌を引いておく。
*初めての、言ひかけて口ごもるその場かぎりのやうで風花
*すひかづらの実のなるあたりを見上げつつきのふに隷属しない生き方
*レノン忌を忘れてゐたる迂闊さを振幅としてひと日風あり
*アルカディアはギリシャの地名巴旦杏を一粒のせた焼き菓子もまた
*はしがきもあとがきも無き一冊を統べて表紙の文字の銀箔
*土に手をよごして夏の草を引く短歌をつくるよりかひがひし
*持ち上げて木箱の重さ膝に置くジュゼツペ・アルチンボルトの画集
物の名、人名などに触発されて歌が作られている。 その楚辞もまた的確である。 歌柄もまた多岐にわたっている。
『赤毛のアン』十首は、この本に則って作られたが、本の要約としても秀逸。
*ヨブ記から少しはみ出す付箋あり花水木すでに花期を終へたり
*薔薇といふ響きは朗ら花舗に来て硝子の向かう触れ得ぬままに
*それぞれの朝をうべなふ鰯にはレモンの呪文 ほんの数滴
*一の道抜けて二の道ゆくごとき無音の蝶々臆せずにゐよ
*空き部屋にこもりて夏至の一日を見目にあたらし『虫の宇宙誌』
「歳月の気化」と題名に言う通り、一巻は、さりげない体を採りながら坦々と日々や事象を消化しながら進行してゆく。
*整理して整理のつかぬ本ばかり一冊分の隙間になごむ
著者は長年住み慣れた堺市から吹田市に転居された。その転居に伴う本棚の整理の一点景であろうか。
私も転居ということではないが、家の建て替えで移転したことがあり、ささやかながら蔵書の処分に困ったことがある。
先ず、雑誌類は多くを捨てた。雑誌に一年間連載した記事なども愛着があったが、背に腹は代えられなかった。
まさかのときは国立国会図書館などに保管されているものをコピーすればよい、と思い切ったことである。「断捨離」も時には必要か。 閑話休題。
*蝙蝠に身じろぎしたこと厄介な倦怠のこと今なら話せる
*摘み取ったこともあったと振り返る言葉は葉でも実でもあるから
「蝙蝠」は西欧では狡猾なものの暗喩とされることがある。 私も、そんな比喩の歌を作ったことがあるが、阪森氏の、この歌の場面では、それはないようである。
日本に棲む蝙蝠は小さな弱い獣で人家に棲み付く。時には「厄介」な騒動を起こす。作者も一度は、そういうことに遭遇したかも知れない。
この「厄介」という楚辞は上句と下句とを繋ぐ言葉として機能しているようである。
「今なら話せる」という日常にありふれた「会話」体が、この歌の中では有効に働いていて秀逸である。それは次の「摘み取った」という歌に自然に繋がってゆく。
*白木蓮風にひらけば真白なる手套となりて寄る辺なき手指
*おほよそは肩の高さの立葵 薄ら氷ほどの月を仰ぐは
*はるばると真狩村産 匙をもてメルヘンかぼちやのわたをくりぬく
*あれは燕だつたか昨日ともけふとも知れず仄めきの中
*ありふれたプロセスチーズを齧りつつ曖昧母音のやうな返答
*うかうかと浅黄斑蝶を呑み込めどどこへもたどり着けぬ夏空
*いろどりの傘を開くは吉凶を占ふごとし水木の下で
*文学の果実刹那のあまやかさナタリー・バーネイといふは源氏名
さりげない比喩を伴いながら風景や事象が坦々と詠われてゆく。
時には外国へ行かれるらしい、以下のような歌は現地で作られたようである。
*フィラデルフィアは当てて費拉特費と書く三十七度の夏を歩いた
*スーラが正面にあり最後までアウトサイダーだつたバーンズ
アメリカ東海岸の夏は蒸し暑い。東洋のモンスーン気候とは違うが暑さは格別である。
そろそろ歌集の鑑賞も終りにしたい。
*くちびるに木通のむらさきあしらふは三越伊勢丹のマネキン
*夜は更けて砂のしづもり自転車のサドルが消えて無くなることも
*不意をつく鵙の鳴き声一瞬に水引草は赤に目覚める
巻末から三首引いた。
とりとめもない、締まらない鑑賞に終始した。 凡人のやることとお笑いいただきたい。
比喩表現などの見落としもあるかも知れない。その節は何とぞ、お許しを。
ご恵贈に感謝いたします。 益々のご健詠を。 有難うございました。 (完)
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