K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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はんなりと京都ことばは耳に沁む奈良びととして街を歩めば・・・・・櫟原聰
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──京都に因んで──

    ■はんなりと京都ことばは耳に沁む
      奈良びととして街を歩めば・・・・・・・・・・・・・・・・櫟原聰


先ののBLOGで「京言葉」の句を採り上げたので、その関連というのもおかしいが、「京都に因んだ」歌を挙げてみることにする。
掲出画像は『折々の京ことば』(堀井令以知・著)という本。

また、こんな本もある。
↓ 先に紹介した入江敦彦の本。 『KYOのお言葉』である。
入江

この本は京都人が使う言葉を短い項目にして、たくさん載せてある。
この本の中身については、後日、稿を改めて書きたい。
 
掲出した歌の作者・櫟原聰 は奈良在住の日本文学専攻の人である。
この歌は「奈良びと」として京の街を歩きながら「はんなりとした京都ことば」を聴いている、という面白い歌である。
「奈良」「平城」は京都に都が設営される前の宮都であった。一昨年は「平城京遷都1300年」ということで盛大な通年のイベントが催された。
だが、その都のあった期間は京都に比べると長くはない。それは地理的なものも大いに関係しているようだ。
藤原京、平城京とも、大きな川に恵まれなかった。今でも現地に行ってみられたらよい。
やはり日本の宮都として大きく発展するためには、相当の「川」が──つまり「水」が必要なのである。
奈良朝の末期に聖武天皇が、九州で叛乱があったためとは言え、「恭仁京」を木津川沿いに造営されようとしたが、
平城京に家、屋敷があって狎れてしまった宮人に背かれて、それは叶わなかったが残念なことであった。

daisinin大洗院庭

    ■炎ゆるもの心に持たぬ身はひとり
      白砂の庭にながく遊びぬ・・・・・・・・・・・・・・・・永井聿枝


俳句と短歌の違いは、575と57577というフレーズの長短ばかりではない。
俳句でも「心象」を盛ることは出来るが、短歌はフレーズの多さの分だけ「心象」としての抒情を深めることが出来るということである。
この歌などは、読者にさまざまの感懐を心のうちに引き起こす。

    ■秘めし思ひ熱きわが頬濡れながら
        歩む河原町雪降りしきる・・・・・・・・・・・・・中埜由季子


この歌も、上の歌と同様である。
「秘めし思ひ」とは、どんなことなのだろうか、「わが頬濡れながら」というのだから、心の痛む悲恋か何かだろうか、などと言外に読者の想念を誘うのである。
まして「河原町」という京都のショッピング街としての地の道具立ても出ている。そこに「雪降りしきる」である。
余りにもお膳立てが出来すぎているとも言えるが、こういう芸当は俳句には出来ないことである。
反面、短歌は冗長に堕してしまいがちで、だから心ある歌人は、俳句の持つ「衝撃性」に学ぼうとしたりするのである。

img2d38fb3bzikezj白土塀

   ■今しばし夕やけてゐよ比良・比叡 
      寒の入陽はひとを優しくす・・・・・・・・・・・・・・・・広瀬範子


    ■噛みつかれし如くにわが額痛むまで
      北山おろし吹く京の町角・・・・・・・・・・・・・・・・山野井珠几


    ■町寺の白壁冬の日を浴ぶる
      ところ通りて素直になりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・山野井珠几


これらの歌も「比良・比叡」とか「北山」とかの地名のもたらす効果が一首の歌の中に生きている。これこそ「地名」の持つ「喚起力」というものである。
短歌の発する「抒情性」というものが余すところなく、発揮された歌群と言えるだろうか。

ここで「京ことばカルタ」という動画を出しておく。カルタの読み手は「市田ひろみ」さんである。No.2、No.3があるようだ。
「京ことば」の発音とイントネーションの一端が聴ける。 ↓




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