K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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老いづけるこころの修羅か春泥のの濁りにひるがへる紅絹・・・・・木村草弥
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    老いづけるこころの修羅か春泥の
        池の濁りにひるがへる紅絹(もみ)・・・・・・・・・・・・木村草弥


この歌は私の第二歌集『嘉木』(角川書店)に載るもので、自選にも採っているのでWeb上のHPでも、ご覧いただける。

掲出した写真が「紅絹(もみ)」の裏地である。この紅色は「紅花」を揉みだした色素で染める。
この鮮やかな緋色の長襦袢もある。
これを着物の下着として身に着けたり裏地としたりして、歩くとか、あるいは身をくねらせるとかの時に着物の裾から、ちらりと、この紅絹の緋色がこぼれ見えるというのが、
和服の「色気」というものである。
こういうチラリの美学というのを古来、日本人は愛したのである。
あからさまに、大げさに見せるのではなく、つつましやかな所作のうちに「情(じょう)」を盛る、というのが美学なのである。
もちろん、愛する人のために着物を脱いで寛ぐ場合には、この紅絹の緋色が、もろに、愛し合う男女の情感をあくまでも刺激すると言うのは、野暮であろう。

この歌も「玄人」好みの歌作りに仕立ててある。
春になって池の水も何となく濁る、これを古来「春泥」と表現してきた。寒い間は池の底に潜んでいた鯉も水面に姿を見せるので、春泥である。
人間界もなんとなく「なまめかしい」雰囲気になる春であるから、私は、それを少し大げさだが「修羅」と表現してみた。
読者のご批評を賜りたい。

「春泥」というのは、季語では「春のぬかるみ」のことを指す。泥んこ道も指すが

    鴨の嘴(はし)よりたらたらと春の泥・・・・・・・・・・高浜虚子

という句があり、この句は類型的な「春泥」の句とは一線を画して、春の池の泥のことを詠んでいる。
この句は、掲出した私の歌に言う「春泥」に通じるものがあるので、一言つけ加えておく。

以下、「春泥」を詠んだ句を引く。

 春泥や石と思ひし雀とび・・・・・・・・佐野良太

 春泥や遠く来て買ふ花の種・・・・・・・・水原秋桜子

 春泥に押し合ひながらくる娘・・・・・・・・高野素十

 春泥にいゆきて人を訪はざりき・・・・・・・・三橋鷹女

 北の町の果てなく長し春の泥・・・・・・・・中村汀女

 月読の春泥やなど主を避くる・・・・・・・・中村草田男

 放吟や高校生に春の泥・・・・・・・・石橋秀野

 春泥の恋文横丁今いずこ・・・・・・・・戸板康二

 春泥に手押車の鳩かたかた・・・・・・・・横山房子

 春泥の靴脱ぐひまもほとけ恋ふ・・・・・・・・伊丹三樹彦

 踏み滑る泥や春こそめでたけれ・・・・・・・・三橋敏雄

 午前より午後をかがやく春の泥・・・・・・・・宇多喜代子

 春泥やお伽草子の碑にまゆみ・・・・・・・・高岡すみ子

 
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