K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る・・・・・中村草田男
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 ↑ 句集「長子」と「萬緑」
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↑ 愛知県碧南市にある佐藤忠良の作品

      妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る・・・・・・・・・・・・・・・・・・中村草田男

この句は第二句集『火の鳥』(昭和14年刊)に載るもので、まだ作者が若い頃の作品だが、一種の「鬼気迫る」雰囲気の句であり、
私は、この句に出会ってから忘れ得ない作品である。
出張か何かで、しばらく家を空けていたのであろうか、初句に「妻抱かな」という強烈な欲情の表出があって、中7が「春昼」である。
春の昼日中に妻を抱きたい、という直情的な表現には驚かされる。
「砂利踏みて」という表現が、また秀逸である。砂利というのは、ご存じの通り、ざくざくという音を発する。
妻抱かな、という欲情が、砂利のざくざくという音によって一種の「後ろめたさ」みたいなものを感じさせて文字通り「鬼気迫る」感じを読者に与えるのである。

この句には、後日談がある。
この句に触発された加藤楸邨が、私なら、こう作ると改作したのが、<妻抱かな春昼の闇飛びて帰る>という句である。
この句は、さすがに楸邨も気がとがめたのか、自選句などの中には入っていない。
私は、この改作を「寒雷」の誌上で20歳になるかならない頃に読んで記憶しているのである。
その頃、私は楸邨が好きだったので、楸邨の改作句の方が、より鬼気迫るものがある、と思い込んでいたが、今では草田男の原句の方も悪くない、と思うようになった。
楸邨は、欲情を抱いて「妻抱かな」と帰ってゆくのだから、その「春昼」を「闇」として把握して改作した訳であり、それはそれで見事な「鬼気」の表現だと思う。

ここらで中村草田男の句を抜き出してみたい。

 ひた急ぐ犬に会ひけり木の芽道

 田を植ゑるしづかな音へ出でにけり

 玫瑰や今も沖には未来あり

 蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ

 降る雪や明治は遠くなりにけり

 吾妻かの三日月ほどの吾子胎(やど)すか

 燭の灯を煙草火としつチエホフ忌

 万緑の中や吾子の歯生え初むる

 虹に謝す妻よりほかに女知らず

 毒消し飲むやわが詩多産の夏来る

 勇気こそ地の塩なれや梅真白

 父母未生以前とは祖国寒満月

 伸びる肉ちぢまる肉や稼ぐ裸

 葡萄食ふ一語一語の如くにて

 浮浪児昼寝す「なんでもいいやい知らねいやい」

 生れて十日生命が赤し風がまぶし

 雪中梅一切忘じ一切見ゆ

 子のための又夫(つま)のための乳房すずし

 菜の花個日和母居しことが母の恩

 雲かけて萌えよと巨人歩み去る──高浜虚子告別──

 勿忘草日本の恋は黙つて死ぬ

 山紅葉女声(めごゑ)は鎌の光るごと

 芸は永久(とは)に罪深きもの蟻地獄

「万緑」という季語は草田男が中国の古詩からヒントを得て創作したものとして有名だが、虚子は、それを死ぬまで認めなかった、と言われているのも、両者の確執として有名な話である。
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 ↑ 有名な「降る雪や明治は遠くなりにけり」句碑

彼については何度も書いたが、簡単な略歴を引いておく。

中村草田男年譜

明治34(1901)年7月24日
 父の任地清国(現中国)福建省厦門の日本領事館で生まれる。 本籍は松山市二番町。本名は清一郎。
明治37(1904)年 母と帰国し、伊予郡松前町に住む。
明治39(1906)年 松山市に転居。
大正3(1914)年 松山中学校(現松山東高等学校)に入学し、伊丹万作らの同人誌に加わる。
大正10(1921)年 松山中学校卒業。松山高等学校(現愛媛大学)入試に失敗。
 西欧文学を読みふける。
大正14(1925)年 東京帝国大学文学部独逸文学科(現東京大学)に入学し、後に国文科に移る。
昭和4(1929)年 高浜虚子を訪ね師事し、『ホトトギス』と『東大俳句』に入会。
昭和8(1933)年 東京帝国大学国文科を卒業し、成蹊学園に就職。
昭和10(1936)年 第一句集『長子』、沙羅書店。
昭和14(1939)年 句集『火の鳥』、龍星閤、553句収録。石田波郷・篠原梵・加藤楸邨らと座談会に参加し、一時人間探求派とよばれるようになる。
昭和21(1946)年 句集『萬緑』1941年、甲鳥書林。
昭和21(1946)年 月刊俳誌『萬緑』創刊。
昭和22(1947)年 『来し方行方』、自文堂。
昭和28(1953)年 句集『銀河依然』、みすず書房。8月、亡母の納骨のため帰郷。
昭和31(1959)年 『母郷行』、みすず書房。
昭和34(1959)年 石田波郷・星野立子とともに「朝日俳壇」選者となる。
昭和35(1960)年 現代俳句協会幹事長となる。
昭和36(1961)年 現代俳句協会幹事長をやめ、俳人協会を創立、会長となる。
昭和42(1967)年 『美田』、みすず書房。
昭和45(1970)年 万国博覧会のタイムカプセル収納品に句集『長子』が選ばれる。
昭和55(1980)年 『時機』1980年、みすず書房。
昭和58(1983)年 8月5日 82歳で永眠。
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掲出した佐藤忠良の像は、この句とは関係がないが、「抱く」ということからの連想で出しておく。




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