K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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群れる蝌蚪の卵に春日さす生れたければ生れてみよ・・・・・宮柊二
img1035ヒキ卵

      群(むらが)れる蝌蚪(くわと)の卵に春日さす
           生れたければ生れてみよ・・・・・・・・・・・・・・・・宮柊二


宮柊二(みや・しゅうじ)は北原白秋の弟子であり、若い一時期、邸に住み込んで書生の仕事をしていた。
晩年のその頃、北原は短歌雑誌「多摩」を発行していて、その弟子には、その後独立した多くの有力な歌人がいる。
宮も昭和28年に短歌結社「コスモス」を創刊し、有力な結社の主宰者として短歌界に君臨した。

この句は昭和28年刊の歌集『日本挽歌』に載るもの。
季節的には、もうそろそろ蛙の卵も孵化する頃だと思うが、私のところのような田舎でも、なかなか蛙の卵を見つけるのは困難である。
それには理由がある。この辺の農家は兼業農家が多く、米を穫った後の裏作をしないので、田圃は水を張らないままで冬を過ごすので、蛙が卵を産む水がない。
蝌蚪とは「おたまじゃくし」のこと。
この歌の下の句の「生れたければ生れてみよ」という表現が独特である。
こういう発想をする人は多くはない。宮の主宰者としての気概が表れているとも言える。

私が短歌をやるようになるきっかけは、コスモス同人の安立スハルさんの縁であるが、入ってすぐ、
宮が「コスモス」創刊の時に高らかに謳いあげた「歌で生の証明をしたいと思います」という宣言文に感激したことを思い出す。
私が入会したのは平成になってからで、もう主宰者・宮氏は亡くなっておられた。

宮は戦争中は召集されて中国の山西省の前線に下士官として配属されていて、戦後『山西省』という歌集を出して、戦時を詠った歌を「現在形」で作って注目された。昭和61年没。
以下に歌を引用するが、その中には戦時の歌も含まれる。
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01Kaosyasinn,0宮柊二
 ↑ 宮柊二

   美童天草四郎はいくさ敗れ死ぬきはもなほ美しかりしか

   接吻(くちづけ)をかなしく了へしものづかれ八つ手団花(たまばな)に息吐きにけり

   つき放れし貨車が夕光(ゆふかげ)に走りつつ寂しきまでにとどまらずけり

   たたかひの最中静もる時ありて庭鳥啼けりおそろしく寂し

   おそらくは知らるるなけむ一兵の生きの有様をまつぶさに遂げむ

   おんどるのあたたかきうへに一夜寝て又のぼるべし西東の山

   鞍傷に朝の青蝿(さばへ)を集(たか)らせて砲架の馬の口の青液(しる)

   ねむりをる体の上を夜の獣穢れてとほれり通らしめつつ

   軍衣袴も銃(つつ)も剣も差上げて暁渉る河の名を知らず

   ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

   耳を切りしヴァン・ゴッホを思ひ孤独を思ひ戦争と個人をおもひて眠らず

   一本の蝋燃しつつ妻も吾も暗き泉を聴くごとくゐる

   疲れたるわれに囁く言葉にはリルケ詠へり「影も夥しくひそむ鞭」

   英雄で吾ら無きゆゑ暗くとも苦しとも堪へて今日に従ふ

   藤棚の茂りの下の小室にわれの孤りを許す世界あり

   音またく無くなりし夜を山鳩は何故寂しげに啼き出すのか

   老びとの増ゆといふなる人口におのれ混りて罪の如しも

   人生は十のうちなる九つが嘆きと言ひつ老いし陸游

   頭(づ)を垂れて孤独に部屋にひとりゐるあの年寄りは宮柊二なり

   中国に兵なりし日の五ケ年をしみじみ思ふ戦争は悪だ
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以下は、ネット上に載る「ヨッサン」こと吉田道昌の「宮柊二、一兵卒の歌──戦争を歌いつづけた歌人──その短歌集「山西省」という記事」である。

宮柊二(みやしゅうじ)の短歌集を本格的に読んだのは、中国に来てからだった。きっかけは彼の歌集「山西省」にある。
「山西省」はすぐれた戦争文学として評価されている。彼はどのように戦争を体験したのか、侵略をどのようにとらえていたのかを知りたいと思った。
大学図書館から歌集を借りてきて、読み通し、中国出発の日が近づいた今、これを書いている。

戦後の代表的歌人の一人であった宮柊二は、1939年、歩兵二等兵として日中戦争に従軍した。戦場は中国山西省。
上官の勧めを退け幹部への道を断ち、四年間、彼は一兵卒に自分を縛りつけて、戦争を直視しつづけた。北原白秋の弟子であった。

 おそらくは知らるるなけん一兵の生きの有様をまつぶさに遂げん

柊二27歳。覚悟を決めての「出征」だった。召集令状がきたとき、師白秋は言った。

 白だすき一首したため戦ひに死ぬなと宣(の)らしき昭和十四年

白秋先生は「戦争で死ぬな」とおっしゃった。
軍隊という非情な目的集団に身をおいた柊二は、戦争のリアリズムを歌にしていく。柊二は、どのような兵士であったのか。

 しばし程汾河のほとりに下りゆく綿羊の群を目追い優しむ

 省境を幾たび越ゆる綿の実の白さをあはれつくつく法師鳴けり

 大陸を進軍する兵士たちの前に、羊を飼い、綿を作る中国の農民たちの暮らしがある。ツクツクボウシ蝉がここでも鳴いている。
平和な農村風景に心なごみ、優しくなる。

 麦の秀(ほ)の照りかがやかしおもむろに息つきて腹に笑いこみあぐ

安らぎと喜びをもたらす麦熟れる田園風景は、農民出身の兵士にとっては、ことに日本のふるさとを思い起こさずはいられない。
狂気の戦争心理のなかにあっても、たまさかに正常な感覚をよみがえらせることもあったのだろう。

 稲青き水田見ゆとふささやきが潮となりて後尾に伝ふ

「水田がみえるぞ」というささやきが、隊列の前方から潮が押し寄せるように聞こえてきた。稲田を見たときの反射的な喜び。
それこそ人間の感情なのだが、戦争は非情に押しつぶしていく。
侵略軍の置かれている立場は、そこに生きてきた土地の民からの反撃に常にさらされねばならない。
生命みつる田園ではあるけれど、それをも戦場にしてしまう軍隊は、つねに死に直面している。

 五度六度つづけざま敵弾が岩うちしときわれが軽機関銃鳴りひそむ

 ひまもなく過ぎゆく弾丸のその或は身の廻にて草をつらぬく

 麻の葉に夜の雨降る山西の山ふかき村君が死にし村

 秋霧を赤く裂きつつ敵手榴弾落ちつぐ中にわれは死ぬべし

 あかつきの風白みくる丘陰に命絶えゆく友を囲みたり

 うつそみの骨身を打ちて雨寒しこの世にし遇(あ)ふ最後の雨か

戦友の死。自分もやがて死ぬことになるだろう。柊二が、戦場から師の白秋に出した手紙には次のような文がある。

「『面輪が変わる』といふ言葉がありますが、さうした戦闘の後ではお互いの顔を合わせてゐて、これは誰だったらうと思ひます程に――言い過ぎではありません――変わってしまひます。」

顔が別人になってしまう。それほどの精神的な重圧を兵士たちは受けている。
しかし、逃げるに逃げられない中国の農民たちは、泥靴で踏み込んできた征服者・日本軍の重圧を、日本兵以上に感じながら戦っていただろう。

柊二もまた、中国の兵士と遭遇し、ついに殺してしまう。事実のみを表現している次の歌に、柊二はどのような思いを秘めているのだろうか。
ここには武勲の意識を読み取ることはできない。戦いを余儀なくさせられたものの哀しみ、殺さざるをえなかった相手への哀惜を感じる。

 磧(かわら)より夜をまぎれ来し敵兵の三人迄を迎へて刺せり

 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくずをれて伏す

何故に戦わねばならないのか。兵は、自分の意思も疑問も一切を押し殺して、戦闘マシーンになる。
自分の行為をリアルに描いているだけに、戦争の非人間性、むごたらしさ、無意味さが冷酷に表われてくる。

 俯伏して塹に果てしは衣に誌(しる)しいづれも西安洛陽の兵

 装甲車に肉薄し来る敵兵の叫びの中に若き声あり

「西安洛陽の兵だ」と、塹壕に倒れている兵士の衣服から確認する。
装甲車に肉薄してくる兵の声のなかに中国の少年兵の声も聞き取った。
征服しようとするものを排除し祖国を守ろうとするものたち、柊二は、眼前に迫り来る人間をつぶさに感じ取る。

「戦争の悲惨は胸をついたが、また戦ふ兵隊に現れてくる人間といふものの深さ、立派さにも目を瞠った。それは敵味方に対して同じだった。わたしは心を引きしめて立派な兵隊でありたいと願ったり、事実戦ひのなかで、死ぬだろうと思ったりしてゐた。わたしを取り囲んだのは運命だったが、しかし、運命に易々と従ったといふだけの感じではない。」と、戦後柊二は書き、「戦争の本質を疑ひつつも、祖国を愛さねばならなかった混沌」のなか、「掬ひ取られる近さに死を置く兵隊」を、柊二は歌った。

戦争というものは敵をつくり、敵と戦う。だが、「敵」とはいったい何なのか。
「敵」の本質は何なのか。

 死にすれば安き生命と友は言ふわれもしか思ふ兵は安しも

 泥濘に小休止するわが一隊すでに生きものの感じにあらず

 ここで死んだらあまりに安い命ではないか。兵の命はあまりに安すぎる。そういう会話もなされていたのだ。
既に生きものの感じがしない小休止する兵たち。「聖戦」、「大東亜共栄圏」という欺瞞を、兵士たちは「皇軍」の実態のなかに見ている。
明治43年、潜航訓練中に遭難死した潜航艇員を悲しみ、与謝野寛はこう歌った、「老いたるは皆かしこかりこの国に身を殺す者すべて若人」。
兵として死んでいくものは、みんな若者たちだ。戦争を遂行し、命令するものたちは死ぬことはなかった。

 信号弾闇にあがりてあはれあはれ音絶えし山に敵味方の兵

 一昨年戦ひ死にし白倉があはれ生きをりき夢なりしかば

 耳を切りしヴァン・ゴッホを思ひ孤独を思い戦争と個人を思ひて眠らず

 汾河の源をさらに十里溯り蕭々たる林に戦ひ死ねり

 日本軍は山深く、大陸深く、戦線を広げ、被害はいっそうひどくなった。
勝ち目のない戦、死を覚悟する兵士たち。敵味方の区別もない悲惨よ。柊二は、中国兵の人間をもとらえる。
次から後の歌は、戦後1946年より1948年までに作られた。(歌集「小紺珠」)

 猫も食ひ鼠も食ひし野のいくさこころ痛みて吾は語らなく

 日本軍は、食糧などを現地調達させた。猫も鼠も食べなければならない戦、それがいっそう現地農民からの奪略を生んだ。

 耒耜(らいし)をかつて創りしものの裔(すえ)便衣藍にして歯の清き兵 

耒耜は、鋤のこと。この人たちは、かつて鋤を創りだした農民の末裔なのだ。日常着の青い服を着て、白い歯が美しい中国兵だ。
この人たちの先祖の鋤が日本に伝わった。大地を耕し、土に生きてきた人たち、そういう人たちを支配することなどできるはずもない。狂気か。

 中国と日本をわれは知れるのみ苦しみて生きむ両民族か 

ほとんどの日本兵は日本から出たことはなく、中国は初めて見る外国であったが、両民族は遠い昔から近い存在であった。
侵略がなければ、このような苦しみもなかったはず。何故自分たちはここにいるのか?

 省境を秋越ゆるとき岩に読みき民族的生命在我們手中 

行軍中、岩に書かれていた文字を見る。「民族の生命は、我らの手中にあり。」 抗日軍には大義があった。侵略軍になんの大義があったか。
柊二は、そのことを感じていたのだろう。歌集「両民族」の歌は、1946年から1948年までに作られた。
戦後、柊二は日中戦争を思い出しては歌にしている。忘れようにも忘れることのできない戦争の悲惨。

 ゆらゆらに心恐れて幾たびか憲法第九条読む病む妻の側 

 新しい憲法が制定された。その第九条、戦争を放棄する、軍隊を保持せず。
それを何度も読む柊二の心に何があったろう。恐れとは何だろう。あの日中戦争を思うにつけ、ふるえる心。

 この夜しきりに泪おちて偲ぶ雪中にひたい射抜かれて死にたる彼 

 戦友の死が、つねに脳裏に浮かんで消えることがない。そして相手の中国人の死も消えることがない。

 銃殺台に上る半ばゆ降りて言ひし陳公博の言葉も悲しも

 日本軍によって銃殺される陳公博が、何を言ったのか。記憶から消すことのできない光景、そして罪。
1948年11月12日、極東軍事裁判でA級戦犯25人に判決が下った。戦争を推進したもの、戦争責任者は絞首刑。天皇は免罪された。
その日、柊二のつくった歌。

 廿五名の運命をききし日の夕べ暫く静かにひとり居たりし

 柊二は自己へ問いかける。原罪という罪はどんな罪だろう。(以下歌集「挽歌」)

 原罪といふはいかなる罪ならむまぼろしに鳴る鞭の音する

 柊二の聞くこの鞭の音は、戦争行為を犯してきた罪を問う鞭の音なのか、鞭うってきた戦争行為なのか。記憶ははっきりと罪をとらえているものだ。
「原罪」という言葉を見ると、ぼくは一人の教師を思い出す。高知の教師、竹本源治。彼の作った有名な詩は「戦死せる教え児よ」だった。
それはこのように始まる。「逝いて還らぬ教え児よ 私の手は血まみれだ! 君を縊ったその綱の 端を私も持っていた しかも人の子の師の名において 嗚呼! 『お互いにだまされていた』の言訳が なんでできよう‥‥」。この詩が作られた1951年、日本教職員組合ははじめて「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンをかかげた。学者、文化人は、平和の擁護は、五十万教師の良心と知性にかかっていると訴えた。

 「死ぬな」と言った白秋先生は、彼の従軍中に亡くなった。
1942年11月4日、寧武部隊西野曹長からの軍用電話があった、「北原白秋氏逝けり、君よ知るか」。 柊二は声を上げて泣いたという。

戦争が終わり、復員した柊二の心のなかにも、未来へのかぐわしい希望がわき、そしてまた平和に対する認識が生まれてくる。

 たたかひを知りたるゆゑに待つ未来たとへば若草の香のごとく来よ

しかし、あれだけの惨禍をもたらした戦争であったのに、数年して世界の冷戦構造の中に組み込まれていく日本、またもや再軍備が頭をもたげる。

 徐々徐々にこころになりしおもひ一つ自然在なる平和はあらず

 日本の戦争責任を問い、戦争放棄の憲法をうみだしながら、アメリカは戦争への準備を進めていく。やがて朝鮮戦争の勃発。

 戦ひを経来しゆゑ知る悔しみ誰に告ぐべき暑き濁り河

 柊二は、この歌の詞書にこう書いている。「戦争を起こしてはならないといふ希ひをよそに、六月二十五日新しい動きが朝鮮に起こった。」

 公然と再軍備論なすものを憎み卑しみ悶ゆとうったふ

 柊二は、戦に死んでいったものを歌わねばならない。無為に人生をすてさせられたものの挽歌を。日本の挽歌を。

 若きらは国に殉(したが)ひつねにつねに痛ましかりき顧みざりき

 おもかげに顕(た)ちくる君ら硝煙の中に死にけり夜のダリア黒し

 まどろみの中に傷みて見てをり磧(かわら)に死骸の焼かれゆくさま

 過ぎこし四十年に何を得しやさまざまに動揺して生ききたるのみ

 弁明をせずに生きむとおもふけど弁明以外の何を饒舌(しゃべ)らむ
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↑ この記事は昭和25年に朝鮮戦争が勃発する直前に出された歌集『山西省』に寄せて、世界平和の立場から書かれている。
今しも、戦後生まれの世代の手によって憲法改正その他の企てが進められている機会に、先人たちの、こういう記事を載せるのも時宜を得ているかと思って転載してみた。
いかがだろうか。
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吉田

上に引用した「ヨッサンこと吉田道昌」氏の『架け橋をつくる日本語』─中国・武漢大学の学生たち─という本をネット上で取り寄せて読んだ。
吉田氏は1937年生まれの大阪の人で中学校教員をされていた。
のち日本語教師として武漢大学に赴任され、そのいきさつが、この本になっている。(2005年文芸社刊)
引用した宮柊二に関する記事は、この本の228ページから<宮柊二 一兵卒の歌集「山西省」>という項目で11ページにわたって要約されて載っている。

心あたたまる、いい本である。


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