K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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消しゴムの孤島に犀を飼わんとす言語漂流記をなつかしめ・・・・寺山修司
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    消しゴムの孤島に犀を飼わんとす
        言語漂流記をなつかしめ・・・・・・・・・・・・寺山修司


今日5月4日は「寺山修司」の忌日である。
2008年、彼の秘書として身辺にあった田中未知が彼の遺稿を整理して歌集『月蝕書簡』として岩波書店から刊行された。 
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1973年から10年かけて作られた短歌は,いろいろな紙片にメモされ,私の手元に残された.
 そのうちでも,短冊形に切られた紙に1首ずつ,4Bの鉛筆できれいに清書したと思われるものは,一応完成作品と判断した.これが60首ほどを占める.
 『月蝕書簡』に収録されたいくつかは,見慣れないまったく新たなイメージ,日常を一つのダイナミズムとしてとらえていくバネをも感じさせる.
それは確実に20年前の青春時代の作品とは異なり,シュールなコンセプチュアルを内包した詩的世界,21世紀の現在に至ってなお,「前衛短歌」と呼べる新鮮さにあふれている.
(田中未知「『月蝕書簡』をめぐる経緯」より)

田中未知(たなか みち)
1945年生まれ 作曲家 「演劇実験室・天井桟敷」の旗揚げからのメンバーとして制作,照明を担当.自らの創作活動のかたわら,秘書として寺山修司の死までの16年間,寺山の仕事を支えつづけた.主な著書に『質問』(アスペクト),『空の歩き方』『寺山修司と生きて』(新書館)ほか.
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この歌は、その中に載るものである。メタファーが歌の全体を覆っている寺山らしい作品である。
前書きに「消しゴムの孤島」と題される一連である。

霧の中に犀一匹を見失い一行の詩を得て帰るなり・・・・・・・・・・寺山修司

地平線描きわすれたる絵画にて鳥はどこまで墜ちゆかんかな

王国を閉じたるあとの図書館に鳥落ちてくる羽音ならずや

剥製の鷹抱きこもる沈黙は飛ばざるものの羽音きくため
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寺山修司については、上記のものだけでは舌足らずなので、以下に詳しい記事を載せる。

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   マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
      身捨つるほどの祖国はありや・・・・・・・・・・・寺山修司


この歌は寺山修司の名歌として、よく引用されるものである。
この歌の言わんとするところは、現下の状況下で、逆説的な意味をたくさん含んでいると思うが、いかがであろうか。
寺山修司は昭和10年青森県三沢市生まれ。
高校生の頃は俳句に没頭する。
早稲田大学に入学、同年、第二回短歌研究新人賞受賞。以後、前衛短歌運動の一翼を担う。やがて映画、演劇に進み、次第に短歌から遠ざかるが、その青春性や土俗性に根ざした作品は今も多くのファンを持つ。昭和58年没。
近年、彼の名を冠した「寺山修司短歌賞」なるものが開設された。以下、彼の歌をみてみよう。
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    海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

    ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし

    雲雀の血すこしにじみしわがシャツに時経てもなおさみしき凱歌

    ドンコサックの合唱も花ふるごとし鍬はしずかに大きく振らむ

    人間嫌いの春のめだかをすいすいと統べいるものに吾もまかれむ

    一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき

    茛火を床に踏み消して立ちあがるチエホフ祭の若き俳優

    アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちていむ

    夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず

    小市民のしあわせなどに遠くわれが見ており菜屑うかべし河口

    うしろ手に春の嵐のドアとざし青年はすでにけだものくさき

    ある日わが貶めたりし夫人のため蜥蜴は背中かわきて泳ぐ

    地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり

    地下鉄の汚れし壁に書かれ古り傷のごとくに忘られ、自由

    木曜日海に背かれきて眠るテーブルをわが地平線とし

    大工町寺町米町仏町老母買う町あらずやつばめよ

    売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

    生命線ひそかに変へむためにわが抽出しにある 一本の釘

    亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり

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1311寺山修司

寺山修司
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年(昭和10年)12月10日~ 1983年(昭和58年)5月4日)は日本の劇作家、詩人、作家、映画監督、競馬評論家など幅広い分野で活躍した。

1935年(昭和10年)12月10日生まれ。
母ハツによれば、青森県弘前市紺屋町生まれ。
寺山によれば、「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」など、出身地に関して異なった記述が見られる。寺山のこうした記述には多分に創作が混じっていると言われる。
戸籍上は1936年(昭和11年)1月10日が出生日となっている。これもハツによれば、「父の仕事が忙しく、母ハツは産後保養していたため」という。本籍地は青森県上北郡六戸村(現・三沢市)。
父・八郎、母・ハツの長男として生を受ける。父・八郎は当時弘前警察署勤務。父の転勤のため、県内各所を転々とする。
1941年(昭和16年)八戸市へ転居。
父八郎出征のため、母と青森市へ転居。青森市マリア幼稚園入園。
1942年(昭和17年)青森市立浦町尋常小学校(現浦町小学校)入学。
1945年(昭和20年)青森空襲。青森市街地をほぼ焼き尽くす、B29による集中砲弾攻撃だった。母ハツとともに命からがら逃げ惑い、焼け出される。家も焼けて一面焼け野原。
ハツの兄を頼って、六戸村古間木(現三沢市)の古間木駅前(現三沢駅)に転居。古間木小学校に転校。中学2年までを過ごす。ハツは米軍キャンプで働く。
米軍差し押さえの民家に移る。
1948年(昭和23年)古間木中学校入学。
秋、青森市立野脇中学校(統合されて廃止、跡地は青森市文化会館)に転校
1951年(昭和26年)青森県立青森高等学校進学。文学部に所属。高校文学部会議結成。同期生に沢田教一。
1954年(昭和29年)早稲田大学教育学部国語国文学科に入学。在学中から歌人として活動。18歳で第2回「短歌研究」新人賞受賞。
在学1年足らずで中途退学。
1967年(昭和42年)演劇実験室・天井桟敷を結成。劇作家・詩人・歌人・演出家として活躍。
1970年3月24日、人気漫画「あしたのジョー」の登場人物・力石徹の“葬儀”で葬儀委員長を務める。
1971年、『書を捨てて町へ出よう』で劇映画に進出した。
1983年、東京都杉並区河北総合病院にて、肝硬変で死去。享年47。
その後、天井桟敷の劇団員を中心に演劇実験室「万有引力」結成。現在に至る。青森県三沢市に寺山修司記念館あり。

歌集
句集

寺山修司青春歌集


長編叙事詩・李庚順
未刊詩集ロング・グッドバイ
寺山修司少女詩集

評論など
幅広く評論をしており、ジャンルは漫画、歴史人物、小説、映画などジャンルは広い。 竹宮恵子の「風と木の詩」1巻に寺山修司の解説有り、また「サザエさんの性生活」について書いた事がある。

脚本
ラジオ
テレビ


映画
(監督作品を除く)

みな殺しの歌より 拳銃よさらば(1960年)
乾いた湖(1960年)
わが恋の旅路(1961年)
夕陽に赤い俺の顔(1961年)
涙を、獅子のたて髪に(1962年)
初恋・地獄篇(1968年)
無頼漢(1970年)
サード(1978年)
怪盗ジゴマ 音楽篇(1988年)

長編

演劇
「演劇の文学ばなれ(戯曲ばなれ)」を主張し続けた。戯曲に書かれて完結した世界を、舞台でそのまま再現することが演劇なのか。「一度、『戯曲』として書き、きちんと幕を切ってしまったものを、どうしてもう一度、生身の人間を使って現場検証してみようとするのか」。演劇は、演劇という独自の表現なのであり、創造のきっかけとなるキーワードとしての「台本」(「戯曲」とは異なる)のみ許される、とした。
演劇の重要な構成要素であるはずの観客に焦点を当てる作品も上演した(「観客席」)。「俳優座や文学座があって、どうして観客座という名の劇団がないのか」。
彼の考え方は生前の演劇界においては異端視され、主に海外で評価されることになった。没後20年以上経った現在では、数多くの劇団が寺山作品を上演し、新たなる観客との出会いを試み続けている。

主な作品
毛皮のマリー
犬神
盲人書簡
邪宗門
阿片戦争
中国の不思議な役人
青ひげ公の城
身毒丸
奴婢訓
レミング

映画

長編
書を捨てよ町へ出よう(1971年)
田園に死す(1974年)
ボクサー(1977年)
草迷宮(1979年、1983年)
さらば箱舟(1984年)

短編
猫学(キャットロジー)
檻囚
トマトケチャップ皇帝
ジャンケン戦争
ローラ
蝶服記
青少年のための映画入門
迷宮譚
疱瘡譚
審判

消しゴム
マルドロールの歌
一寸法師を記述する試み
二頭女―影の映画
書見機

作詞
涙のオルフェ(1968年、フォーリーブス)
新 初恋(1968年、江夏圭介)
時には母のない子のように(1969年、カルメン・マキ)
涙のびんづめ(1969年、伊東きよ子)
さよならだけが人生ならば(1969年、六文銭)
首つりの木(1970年、J.A.シーザー)
酔いどれ船(1970年、緑魔子)
あしたのジョー(1970年、尾藤イサオ)
戦争は知らない(1971年、本田路津子)
孤独よ おまえは(1971年、ザ・シャデラックス)
勇士のふるさと(1972年、ヤング101)
人の一生かくれんぼ(1972年、日吉ミミ)
君にお月さまをあげたい(1973年、郷ひろみ)
海猫(1973年、北原ミレイ)
新宿港(1974年、桜井京)
浜昼顔(1974年、五木ひろし)
元気ですか(1976年、JOHNNYS'ジュニア・スペシャル)
ぼくの消息(1976年、豊川誕)
与謝野晶子(1978年、朝丘雪路)
もう頬づえはつかない(1979年、荒井沙知)
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terayama寺山修司記念館

寺山修司記念館

 当館は遺族の寺山修司の母:はつ氏より三沢市に寄贈された遺品を、保存公開するために約3年の歳月をかけ建設されました。寺山修司と親しかった粟津潔氏のデザインをもとに、九條今日子氏をはじめとする元天井棧敷のメンバーなど数多くの関係者のアドバイスを得て平成9年7月に開館を迎えました。延床面積約833m2の展示棟とホワイエ棟が渡り廊下でつながり、上空から見るとその様はテラヤマ演劇・映画の小道具として登場した「柱時計」を彷彿とさせます。ホワイエ棟外壁には149枚の陶板が貼り込まれ、寺山修司と交流のあった約30人のメッセージ陶板がテラヤマ作品を題材にしたものとともに、にぎやかに彩っています。テラヤマ芸術はもとより、当市の総合芸術発信基地としての一翼も担っています。
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職業は、寺山修司です

 寺山修司は、昭和10年12月10日に寺山八郎、はつの長男として出生しました。9歳の時、青森空襲で焼け出され、父親の実家がある三沢市で小学校4年生から中学校1年生まで過ごしました。父親が戦死、母親は九州へ働きに出るようになり、そのため、青森市の母親の親戚宅である映画館歌舞伎座で生活し、青森高校へ進学します。
 学生時代は短歌や俳句などに没頭しました。早稲田大学教育学部国文学科へ入学し、18歳の時、『チェホフ祭』を発表し、第2回「短歌研究」新人賞を受賞しました。腎臓の難病ネフローゼとの3年半にわたる闘病生活を経て、ラジオドラマ『中村一郎』を発表し、民放祭会長賞を受賞した後、シナリオライターとして歩み始めました。ラジオドラマから、演劇、映画、テレビドラマへと活動範囲を広げていき、31歳の時に、横尾忠則、九條映子らと演劇実験室「天井棧敷」を設立しました。専用の劇場を備えた「天井棧敷館」を所有し、47歳で亡くなるまでの17年間、2千人近い団員が入れ替わり立ち代わり参加しました。国内だけでなく海外での公演活動も多く、特にヨーロッパでは前衛芸術への評価が高く、毎年のように招待されて公演を行いました。
 寺山修司は、いつも斬新な企画にあふれ、病身にもかかわらず演劇や映画の現場に参加し、死の直前まで執筆活動を続けました。詩や短歌、俳句、映画、演劇、ラジオドラマ、文学から競馬やボクシングにいたるまでの幅広い評論、小説、作詞、エッセイなど多領域にわたる前線で活躍していたため、「職業は、寺山修司です」と名乗っていました。
 時代の先駆者として疾走し続けた寺山修司が、故郷として振り返るのはいつも三沢でした。自叙伝的作品にはいつも、多感な少年時代を過ごした三沢市近郊の風景や同窓生の名前が登場します。

記念館の散策道に立てられた「文学碑」に彫られた彼の文章

― 百年たったら帰っておいで、百年たてばその意味わかる ―

 世代を超え、時代を超えて、人々の心に強烈に作用しながらテラヤマワールドは生き続けます。
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寺山修司については、高校生の頃には俳句に没頭していたが、のち短歌を手がけるようになって賞を得たが、他人の俳句作品からの「剽窃」であるとの指摘を受けた。
しかし、彼は一切頓着しなかったらしい。
今なら、それは通らないと思われるが、とにかく彼は強烈な個性の持ち主であったようだ。
また自分の経歴なども「でたらめ」な記述をしたし、彼の死後も母上はご存命であったが、創作(歌など)の中では(私の引いた歌の一番最後の歌のように)「死なせて」しまっている。
だから彼の言うこと、書くことは、すべて「創作」「虚構」と受け取ったほうが無難である。
俳句や短歌という古い世界に固執する性分ではなかったから、奔放な、太く短くという一生を遂げたと言えよう。


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