K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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牛放てば木の芽の風のやはらかに袂に青き大那須が原・・・・与謝野寛
1-7那須高原

   牛放てば木の芽の風のやはらかに
      袂(たもと)に青き大那須が原・・・・・・・・・・・・・・与謝野寛


与謝野寛(鉄幹)については、妻・晶子の輝かしい名声に覆われて、不当に忘却されているきらいがあるが、
彼が明治新詩運動──詩歌全体の革新運動に果たした功績は不朽のものである上に、天馬空をゆく観のあった詩才の輝きも、
改めて正当に評価される必要があるだろう。
彼には、まだ然るべき全集さえないというのは残念なことである。
この歌は、彼が新詩社の指導者として「明星」発刊後の得意の絶頂期にあった頃の作品。
当時の彼の歌としては異色で、自然界に素直に心を解き放っている平らかな歌で、のびやかな才能に満ちた、すがすがしい歌である。
明治35年刊『うもれ木』に載るもの。
充分な資料もないが、寛の歌を少し引いてみる。
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野の生ふる、草にも物を、言はせばや。
 涙もあらむ、歌もあるらむ。

われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子

母にそひてはじめて菫わが摘みし築土ふりたり岡崎の里

京の子は舞のころもを我にきせぬ北山おろし雪になる朝

わかき子の秋に堪へずと小指かみてかきし血の文十とせ我手に

髪さげしむかしり君よ十とせへて相見るえにし浅しと思ふな

相見しは大き銀杏の秋の岡金色ながすひかりの夕

君なきか若狭の登美子しら玉のあたら君さへ砕けはつるか

若狭路の春の夕ぐれ風吹けばにほへる君も花の如く散る

わが為めに路ぎよめせし二少女一人は在りて一人天翔る

この終りの三首は若狭の山川登美子が死んだ時に作られたもの。山川登美子は一時、晶子と三角関係のような形で寛の愛を争っていた時期があった。
登美子が身を引く形で晶子が寛を独占することになった。登美子が死んで、彼も、その頃のことを思って歌にしている。
故郷・若狭では、近年「山川登美子文学賞」なるものを創設して短歌の隆盛に寄与している。

濃き青の四月の末の海に浮く水母の如く愁白かり

冷飯を法師のごとく清水もて洗ひて食ひぬ夏の夕ぐれ

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与謝野寛は明治6年京都市岡崎うまれ。
妻・晶子とともに「明星」を拠点にして浪漫主義文学運動の推進者で、北原白秋など多くの詩人、歌人を育てた。昭和10年没。
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165px-Tekkan_Yosano与謝野寛

与謝野鉄幹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

与謝野 鉄幹(よさの てっかん、1873年2月26日 ~ 1935年3月26日)は、日本の歌人。本名は寛。鉄幹は号。与謝野晶子の夫。後に、慶應大学教授。

経歴
京都府岡崎(現・京都市左京区)に僧侶・与謝野礼厳の4男として生まれる。父・礼厳は庄屋・細見家の次男としてうまれたが京都府与謝郡(現在の与謝野町字温江)出身ということから、明治の初め「与謝野」と名乗るようになったという。なお正しい姓は與謝野。漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により現表記となる。

当初、山口県徳山市(現:周南市)の徳山女学校で国語の教師を4年間勤めるも女子生徒との間に問題を起こし、退職。20歳で上京。落合直文の門下に入る。明治27年短歌論『亡国の音』を発表、つづく明治29年歌集『東西南北』、翌明治30年歌集『天地玄黄』を世に出し、質実剛健な作風で『ますらおぶり』と呼ばれた。明治32年「東京新詩社」を創立し、翌年「明星」を創刊。北原白秋、吉井勇、石川啄木などを見出し、日本近代浪漫派の中心的な役割を果たした。しかし明治33年、当時無名の若手歌人であった鳳晶子(のち鉄幹夫人)との不倫が問題視され、文壇照魔鏡なる怪文書で様々な誹謗中傷の事件が鉄幹に仕立て上げられた。だが、晶子の類まれな才能を見ぬいた鉄幹は、晶子の歌集『みだれ髪』作成をプロデュースし、妻滝野と離別、明治34年晶子と結婚した。六男六女の子宝に恵まれた。

結婚後の鉄幹は極度の不振に陥る。明治44年晶子の計らいでパリへ行く。のち晶子も渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪する。だが、創作活動がさかんとなったのは晶子の方で、鉄幹は依然不振を極めていた。再起を賭けた労作、訳詞集『リラの花』も失敗するなど、栄光に包まれる妻の影で苦悩に喘いだ。大正4年(1915年)の第11回総選挙に故郷の京都市選挙区から無所属で出馬したが、落選した。また、大正11年の森鴎外の死は鉄幹にとって有力な庇護者を失うに等しい打撃であった。

昭和5年雑誌『冬柏』を創刊。昭和7年、上海事変に取材した軍歌『肉弾三勇士』の歌詞に応募、見事一等入選し鉄幹健在を示した。昭和10年気管支カタルがもとで死去。晶子は「筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと」という悲痛な追悼の歌を捧げた。

次男与謝野秀は外交官として活躍。東京五輪事務長を歴任。秀の長男が衆議院議員与謝野馨である。

閔妃暗殺事件と鉄幹
明治28年(1895年)10月8日に三浦梧楼ら日本官権と他の右翼壮士とともに当時の朝鮮王朝の王妃、閔妃の暗殺を計画したという説が韓国側から言われている。これは朝鮮王朝が親露政策により清と日本の圧力を排除しようとし、それに危機感を感じた日本が起こしたという主張である。当時、朝鮮王朝は笞刑(朝鮮笞刑令)、拷問をはじめ前近代的な刑罰、法体系であり邦人保護の観点から、治外法権となっていたので、鉄幹は日本に送られ広島の地方検察庁で裁かれた。当時、鉄幹は落合直文の弟、鮎貝槐園とともに朝鮮の日本人学校、乙未義塾の教師として当地に在留していたが、事件当日は槐園たちと木浦(モッポ)に出かけて事件の起きたソウルにはいなかったことにより不起訴となった。


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