K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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田一枚植ゑて立ち去る柳かな・・・・・松尾芭蕉
田植え

    田一枚植ゑて立ち去る柳かな・・・・・・・・・・松尾芭蕉

この句は『おくのほそ道』に載るもので、西行ゆかりの「遊行柳」の陰にたたずみ、しばし懐古の情にふけって、ふと気づくと、田植え女は、すでに田一枚を植え終わっている。
ああ思わず時が経ったなと、思いを残して柳のもとを立ち去ったことだ、という意味の句である。
芭蕉については古来、研究がすすんでおり、この「遊行柳」は謡曲『遊行柳』に、西行

     道のべの清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ

 と詠んだとある芦野の里の遊行の柳と特定されている。
↓ 現在の「遊行柳」
yanagi48遊行柳

この芦野の里というのは、現在の所在地は栃木県那須郡那須町芦野で、那須町の公式ホームページには次のように出ている。

<芦野支所より北方300メートル、通称、上の宮と呼ぶ温泉神社の社頭にあり、別名「朽木の柳」ともいう。
柳を訪ねると、地元産の「芦野石」の玉垣をめぐらした中に、一本の柳が植えられ、傍らには、芭蕉の作「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」の句碑、
更には蕪村の「柳散清水涸石處々」の句碑とが並び、道の反対側には、西行の「道の辺……」の歌碑が立っており、多くの観光客が訪れる名所となっている。
 遊行柳の近くには無料休憩所「遊行庵」があり、また、食堂と直売所が隣接しており、食事や地場産品の販売をおこなっている。>

その頃は、那須郡芦野三千石の領主・芦野民部資俊の知行地。江戸深川に下屋敷があり、芭蕉とは旧知の間柄であったという。
芭蕉が西行を敬慕すること極めて深く、「おくのほそ道」の旅も、西行500年忌を記念するものであることは、あまたの研究者によって解明済みのことである。

この句の前書きに芭蕉は

<清水流るるの柳は芦野の里にありて、田の畔(くろ)に残る。
この所の郡守、戸部某の、「この柳見せばやな」と折々に宣ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳の陰にこそ立ち寄り侍りつれ>

と書いていて、西行に寄せる気持ちのなみなみならぬものがあったのが判る。
同行した「曾良旅日記」によると4月16日~18日には那須郡高久の庄屋、覚左衛門邸に泊っているので、その頃の作句と考えられる。
4月20日には白河の関所跡に到着している。

<白河の関越ゆるとて>の前書きで

      風流のはじめや奥の田植うた 

の句を作っている。この句からは、奥州ののどかな田植え歌を流しながら田植えがおこなわれた情景が浮かびあがるようだ。
「おくのほそ道」には須賀川の駅に旧知の相楽等窮を訪ね「白河の関、いかに越えつるや」と問われて、この発句を詠み、歌仙を巻いた、とある。
鄙びたみちのく情緒を讃え、これからの旅で味わう風流への期待感もこめた挨拶句。4月22日の作。

この続きには

      早苗とる手もとや昔しのぶ摺 

の句が何日か後に書かれている。「しのぶ摺」とは忍草の葉を布に摺りつけて染めたもの。
『伊勢物語』初段にも「みちのくの忍ぶ文字摺りーー」と見えて古来有名、とある。「昔を偲ぶ」に掛けたもの。

 <文字摺の石は福島の駅より東一里ばかり、山口といふ処にあり。
里人の言ひける、「行き来の人の麦草をとりてこの石を試み侍るを憎みて、この谷に落し侍れば、石の面は下ざまになりて、茅萱の中に埋れ侍りて、
いまはさる業することなかりけり」となん申すを>

という長い前書きの後に

    早苗つかむ手もとや昔しのぶ摺
    五月乙女(さをとめ)に仕形望まんしのぶ摺


の句が「真蹟懐紙」や「曾良書留」に見られる。

このようにして芭蕉の「おくのほそ道」の文章を辿ると、きりがないが、紀行文は、とても面白い。
こうして読んでくると、芭蕉は多くの知人が江戸にいて(句の指導をしたり歌仙を巻いたりしたのだろう)奥州の旅の前には、
それらの人々に予め予定到着日時を知らせたりしてあったので、現地でも泊るところも手配されていたと思われる。
「曾良旅日記」というサイトに旅の日程が載っているので参照されたい。
何事も日記その他記録しておくものだ。



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