K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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清水あすか詩集『二本足捧げる。』・・・・・木村草弥
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 ↑ 第三詩集『二本足捧げる。』

──新・読書ノート──(再掲載)初出2013/05/11

     清水あすか詩集『二本足捧げる。』・・・・・・・・・・・木村草弥
               ・・・・・・・・南海タイムス社2012/05/30刊・・・・・・・・

清水あすかさんは、この詩集によって第三回「萩原朔太郎記念とをるもう賞」を受賞された。
第一詩集から、すでに優れた詩人として注目され、「ユリイカ」や「現代詩手帖」などに作品を発表されている。

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↑ 第一詩集『頭を残して放られる。』 南海タイムス社2007/06/16刊

第一詩集『頭を残して放られる。』に、こんな詩がある。先ず、それを引いておく。

    そのふくふくとしてやらかいもの。・・・・・・・・・・清水あすか

   子どもはふくふくとやらかいものをくばるので
   ママはわたしをとしょうりのところに連れて行く。

   子どもはてぇげぇはんけなので
   ぼけたみかんを大わらいして
   二つたべて、三つたべて、四つめを半分こしてたべられる。
   子どもはこたつの角にさす西日を
   きれいと思い、
   たいくつを転がして
   しかし笑いながら、
   指先でその影をなぞってあそぶことができる。

   子どもはしわしわの千円札の、
   価値がわからなくても、意味を見ることができる。

   今日会ったとしょうりが近いうちまるぶのは、
   とてもよくあるおはなしなので、わたしは名前をおぼえたりしない。
   ママはわたしを色んなとしょうりのところへ連れて行くので、
   初めて会うとしょうりに、ぼうくなって、と言われると
   その人が知ってるわらいがおになれる気がする。
   最後にわたしに会えてうれぇしかったろうあの人は、とママがゆうので
   わたしはママの、ありがとうねぇ、ということばだけおぼえて
   その人がまるぼことはわすれる。

   ふくふくとやらかいものを置いて帰る道で
   ママは、としょうりは子どもを見るとうれぇしけだら、とゆうので
   ふくふくとやらかいとはわたしのうれしけことと知る。

   ママは少し小さくなったので
   わたしは左右にゆれながらちぃと大またに歩いて
   だからふだんもまっすぐに歩かない。
  わたしはママのもってる千円札も
   きっとしわしわなんだろうとおもっている。

   しかしてぇげぇとしょうりは先にまるばぁんて
   時々おもう。ふりかえったら
   だれもいない。しかし
   だれもいないところから来て、
   だれもいないところにわたしは帰ってしまうから
   だれもいないのは始めからかと
   おもい出して、ママとふたり
   左右にゆれて、歩いて帰る。
   
   右手にさっき半分にわったみかんを持っている。
   西日のときの影は、長くてあたまはねぇこくて
   わたしは影の、あたまの先を
   手をのばしてなでてみる。


   そのふくふくとしてやらかいもの。

第一詩集『頭を残して放られる。』についての阿部嘉昭の評が見られる。いい批評である。アクセスされよ。
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清水あすか 略歴

1981年八丈島生まれ。文化学院創造表現科卒。
在学中から絵、詩、エッセイなどの創作に取り組み、個展「やわらかな世界」(05年7月)、二人展「満ちて行く。」(06年7月)を開く。
卒業制作として詩集を編み、それをベースに、17編の詩を収めた「頭を残して放られる。」(南海タイムス社刊)を自費出版した。
収録作品の多くは八丈島が土台になっている。「そのふくふくとしてやらかいもの。」はその中の1編。
「島は本土との間に海という絶対的な距離があり、誰かが亡くなるような大事な時でも、帰れないことがある。
 自分の力だけではどうにもならないことがあるのだと教えてくれたのが、島」だという。 
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 ↑ 第二詩集『毎日夜を産む。』 南海タイムス社2009/06/25刊

この詩集に載る詩を引いておく。

     ここから今にいらっしゃい。・・・・・・・・・清水あすか

   わたしは子どものほほに指をつけ
   一つを噛み、口うつし、またことばを噛み、言って聞かせる。
    「まるで今まで生まれた子のように、わたしはおまえがかわいらしい」

   水海山とはまるで海のがん、水の湧こ山と言おじゃ。
   耳元に言われたとき、くすぐった息が出て
   わたしはそこへ建つという、一般廃棄物管理型最終処分場を身ごもったのです。

   この体の毛穴にぶったつ木を伐採し
   口から腕を刺し、中を掻いて工事する。
   男衆が土を掘り道具を洗い、女衆が土を固め道具を研ぐ。わたしはそして
   十月十日を守り、ふくらびた腹からのうたに応える。
    「洋洋、周りはみんな、おまえを女の子だと知っていますよ」

   雨が透明にふくらむ水場、いもりの腹は手に付いてぬぐう程赤い太陽の沈む色。
   さびた背中は青寒く、ここで卵を産む。水が
   からだをまあるく指なぞり、金の目がほそい声で方方にうたう。
    「知っていたことでありましょうが、
     子どもがこがんいとおしく生まれました」

   プレハブのお堂で、となりととなりとも手を持ってじゅずでつなぎ、
   なむあみだぶつ。詠唱をする。なむあみだぶつ。終わったら
   としょうりは急いでゴザを寄らせて、子どもに駆けつけ
   又はこしらえたばかりのよだれかけを、早くしたかったと、地蔵の首にかける。
    「わかってあることではありましたが、 
     子どもが生まれるとはうれしけことでございます」

   としょうりが足で水をはね
   その音にいもりは固まって、右を見る、左見る。
   4tトラックがアスファルトの上、土を運ぶ、石を運ぶ、木を運ぶ
   和讃を運ぶ、昔も運ぶ、女を運ぶ、山びこを運ぶ、手拍子を運ぶ
   あの搬入道路こそ、わたしの産道でございます。

   旧水海山地区一般廃棄物管理型最終処分場
   それからわたしを産んで下さい。

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書評

「起きたことを、起きたままの重さに見る」

 末吉・清水あすかさん(26)(注・2008年時点での年齢)の詩「ここから今にいらっしゃい。」が、現代詩手帖6月号に掲載された。
同誌からの執筆依頼を受けて書き下ろした作品で、特集「新鋭詩集2008」の一編として紹介された。
 清水さんは第1詩集「頭を残して放られる。」が中原中也賞の最終選考に残るなど、注目を集めている。
今回は詩とともに、「今詩を書くということ」のテーマで、400字のエッセイも掲載された。
その中で清水さんは、「詩を書くのに必要なことの一つは、当事者であることだと思います。
自分の前の物事を、それによって発生する全ても含めて、そのものを引き受けること。評価するのでなく常に、真っ只中に立つこと、そして見ること。
考えのでかくなりすぎた頭から、一つの体そのものに帰ってきて、起きたことを、起きたままの重さに見ようとするとき、そこには本当の実感があり、それは私の詩のことばになります。道に一つ落ちた石からも、新聞を覆う事件からも、そこにある途方もない責任によって、私は詩を書いていきます。」と、自らの詩作へのスタンスを表明している。
(08年6月13日付 南海タイムス)
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清水さんについては詩誌「びーぐる」18号から連載詩「詩は種なす」と題して、第一回、第二回が発表されているので紹介する。

     紙に点滅する。・・・・・・・・・・・清水あすか

   声でなく
   まだか、と言った時間も追悼として染んだ紙は
   もう水気を失って固く波打つ。

   浮浪者が積み上げた荷車は
   自分の納まるところを知っているか。紙は重く
   彼は道を寄り、片寄り
   車輪がよじれた線になり、信号を
   赤にならないで渡りきれるか。

   めくるのはくりかえした昔ではなく、それを得た身体である。
   思われるを書き重ねられた皮フはずいぶんと
   乾きバリつく紙のよう。この手はこれからも
   どれ程の束を積み
   荷車を押す
   まだか、と言い、まだか、と言われるところ。
   目を赤らませてこらえる息を。 
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      息による地層。・・・・・・・・・・清水あすか

   わたしはひれ伏したまま手をのばし
   その上に土がかぶさり、石が吹いて
   アスファルトはなめされ
   葉は落ちて積もり、積もる。

   三千年たったわたしをわたしが掘り出して
   顔の泥をすり、まるで涙の線になる。
   「おぼえているよ」
   ああ、おまえが生まれた、初めてやさしくしようとしたときを思い出す。

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清水さんのタイトルなどは特異で、必ず「。」が打たれる。詩集の題名だけでなく、詩の題名にも、打たれる。
彼女については「びーぐる」17号に「対論・この詩集を読め」第三詩集『二本足 捧げる。』が細見和之、山田兼士によって採り上げられ、
7ページにわたって詳しく論証されている。長いので、ここには引ききれないので省略するが、期待されてきた人であった。
とても良い批評なので、ぜひ覗いてみてもらいたい。
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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ2012/08/13に「清水あすか個展」と題した記事がある。 引いてみる。  ↓ 
 
先週金曜日には廿楽順治さんと六本木でひらかれていた清水あすかさんの個展に行った。
画廊の白壁にクロッキー用の太い鉛筆でみずから書かれた清水さんの詩篇と、これまた清水さんみずからの手になる絵画がしずかなスパークを発している。

清水さんの絵画は清水さんの詩集の自装からイメージできるかもしれない。全体は暗い色調。クレヨンで色彩分布的な重ね塗りをおこなったあとで、細針で細密模様の「傷」をつけてゆき、原初エネルギー的かつ装飾的な抽象画が迫力をともなってうかびあがっている。清水さんの島の詩篇とおなじく、それは第一観的には森の様相に近づいているが、同時に海底光景にも、着物の布地(八丈島は名前のとおり「八丈」の産地だ)にもみえ、描かれたものが何かは決定できない。その意味で絵画の立ち位置が詩篇と通底している。

問題は「削ること」だろう。詩を「書く」ではなく、「紙面に削りを入れて傷つけること」だとする詩作者の系譜がある。ツェランがそうで、現在なら杉本真維子がそうだ。書くことは手首をひねることではなく、筆圧を絶望的にぶつけること。清水さんの字は角張って稲妻のように荒れて強いが、その筆圧が白壁に書かれた詩篇の書体に、同時に、重ね塗りしたクレヨンを削った針の痕跡に共有されている。つまりその画廊に入ることは、筆圧の森に侵入して、侵入したからだを刺されることだった。

画廊に清水さんご本人がいらして、いろいろと話をする。なぜ「清水あすか論」が書きにくいか。八丈島方言と古語と異言の問題はクリアできるとして、地縁を基盤としたサーガ形成的、土地交歓的な詩篇では、地縁成員における自他の弁別がなくなる。結果、たとえば子供のいる主体が描かれた詩で、その主体が清水さん自身なのか、他の地縁者なのか、判断ができなくなる(カマをかけてみたが、清水さん自身、既婚・子持ちかの想像はご自由に、というスタンスだった)。

もうひとつ、清水さんの詩行は「。」「、」を繰り込み、長くなるときに独特のうねり、リズムが生ずる(それが文法破壊と相まって、異言性となる)。都市的でない、強靭なリズム。その詩法を文法的に要約すれば「冗語法」となるのだろうが、となると彼女の推敲も、通常のように圧縮ではなく、増殖に向けられた推敲なのではないだろうか。そう言うと、自分は増殖と圧縮を交互させるような推敲をするタイプだとおもう、と語っていらした。

いずれにせよ、「土地の力」を身に装填し、高い筆圧で削りの詩を書く清水さんは、「土地」の域的微差に繊細で、そのかぎりで彼女の詩業は、松岡政則さんと並行しているように見える。しかも最新詩集『二本足捧げる。』では形容詞の名詞化、という松岡的文法が駆使されだした。それで松岡さんからの影響を問うと、清水さんは「読んだことがないんです」という意外な返答をなさった。そうか、それでも「土地」に立脚することで、「書く」がおなじ場所にながれこんでくるのだと、なにか納得した気になった。ところがこの「納得」が、たぶん「清水あすか論」を書きにくくさせているものの正体なのだ。
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 ↑ 清水あすかの絵(『二本足捧げる。』のカバー絵)
清水さんの絵が、どんな絵かは他にもmoleskinerieというサイトに少し載っているので覗いてみられよ。

さて、いよいよ本題の第三詩集『二本足捧げる。』である。
この本の巻頭に載る、標題詩を引いてみる。

    二本足捧げる。・・・・・・・・・・清水あすか

  人間が、もうとっくに人間のかたちをとっておけない。
  約束の仕組みをとっておけない。
  最初は火で燃やせばあとも残らない簡単な骨組みであったのに
  今では村ごとダムに沈めるも時代遅れで
  声が死ぬのを待って
  土地からも蒸発してしまうのを、待って。でも本当は
  カレンダー裏食い込むだぶついた短歌や
  廃校になる小学校の壁を叩きつけた何文字か
  その、手で退ければすぐ
  書類と書類の間に挟まる声こそが
  水にも染む
  何百年、何百年でも風景に飲まれ脈になるを
  一番古いおびえとして覚えてて背骨震わす。

  時間のかかるよう複雑な手続きは組み上げたくせに
  身体はもう何万年と進化をしないでいて
  言わないけれど、まだ暗闇がこわい。
  通りすがりそっと渡される呪いがこわい。
  水にひたった風景が覚えている風景がこわい。
  こんなにたくさん見たことない青白い光を我れ先に覗き込んでも
  なにが映ってる。
  約束を交わす、さもなくばと
  ふりあげる土器の重さ
  いくら燃やしても骨が弾けるにおいは消えなくて
  それでも頭わ上に乗せて生きていかなければいけない
  そのすべての始まりの仕組みがこわい。
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     我が無く、ふるえ。・・・・・・・・・清水あすか

  おまえの「と、思った」は
  農協の跡地にあるよ。
  今資材置き場になつてるとこだよ。

  そこに、この世でない、があるよ。
  木材下、西日から伸びるどくだみの花の白さ
  ぶっちゃられた、足が短い引き出しの見とれる木目
  そんな余白におまえ
  立っていたを、知っているよ。
  アスファルトの突起でできた影や
  としょうりがくわえて歩いてった煙っ端に
  おそろしい、になる前のおそろしいや
  うつくしい、になる前のうつくしいがある。

  ね、そこらへんの石一つを
  おまえの墓石にしたって、いいんだよ。
  だいじょうぶ。

  あぁたしかに、さびしい、はあるねぇ!
  あのふくらみにふくらんだ、
  空き缶いっぱいのビニル袋を二つもしばりつけてゆらつく自転車。
  あそこに入っているのは、さびしい、になる前のさびしいだ。
  花の白さにも、木目にも
  影にも煙のきわにもあったものだ。そして
  そこへ立っていたおまえにも。
  資材置き場を見つけたね。余白を
  そこらへんの石一つに
  託したって、
  いいよ。

この詩集は大項目として、第一章 二本足捧げる。 第二章 我が無く、ふるえ。 の二つから成っている。
その題名になっている詩を引いた。
先ず言っておくが、題名になっている「二本足捧げる」というフレーズが何を意味するのか、まだ私には判らない、と謝っておく。
彼女の詩は、意味を辿っては、いけない。
詩の一連に意味の繋がりは、ない。 フレーズはオブジェのように、ぽつんと置かれていると思ったら、いい。

前の詩に「だぶついた短歌」というフレーズがあるが、彼女の詩は、そういう、ずらずらした抒情を拒否する。
しかし、それでも彼女の発想が全くの空想から発していると思うのは間違いである。
「農協の資材置き場」とか「空き缶いっぱいのビニル袋を二つもしばりつけてゆらつく自転車」とかは、彼女の見た実景だろう。
それは恐らく浮浪者か、定職のない生活困窮者の「空き缶」「ゴミ集め」の行動を子細に見つめた上での「さびしい」だろう。
引用しないが、他の作品に「石の言う。」というのがあり、そこにも同じような情景がある。
彼女の視線は、彼らに対しても軽蔑ではなく、暖かい。そこが救いである。

かつて「八丈島」は流人の地だった。「配流」の地だった。そこには流人たちの深い深い「怨念」が籠っているだろう。一つだけ引いてみよう。

     問いも食らう。・・・・・・・・清水あすか

  ここにある木との距離は
  わたしと島の距離
  わたしとわたしの死との距離。等しく
  いつも等しく離れている。手を取る。抱きとめる距離。
  伐採する木は、私の死の基礎となる工事で積む。何の
  痛みにもならない、臓器への痣。
  木に通る雨水を
  体では血といって
  山では水脈という。ならばわたしは、疑わず満ち満ちる。
  積んでいく一日の死、それを作る血のために必要な血管。木の幹、
  山鳴りという
  うなり。髪一本一本の葉脈、行き渡る
  行き渡る水路。体わ伏せて、背中に水を注ぎ貯めるべく反らし、
  背骨という稜線。枝で枝でくりかえす
  木の肌に書く
  昔語り。声とは
  雨にふる。
  島は水に貯めたおびただしい死を
  集めてすぼませ、ちぎり生んだわたしの
  死をまた口に含んで育つ。

  呼ぶ時には
  呼ばれて振り向き・・・・・・・・・(後略)

ここには明らかに、この島の抱える「歴史」が綴られているのは自明である。だが、先に述べたように、その視線は暖かい。
ここには八丈島の抱える土俗性に根ざす「土臭さ」と、方言を多用するレトリックの有効さ、がある。
彼女の詩は、都会の垢抜けた表現では成功しない。
八丈島在住という特性を生かした、彼女独特の詩作方法を身に付けられたと言えるだろう。

萩原朔太郎も独特の表現と語法で燦然と光っている。
そんな「萩原朔太郎記念・とをるもう賞」という栄誉を得られたのを、祝福したい。
なお贈呈式は、7月6日(土)午後2時から八尾市プリズムホールで行われる。  

「チルチンびと広場」というサイトに彼女の紹介と絵画展などの予定が出ている。参照されたい。

ネット上では同名の女格闘家が有名らしく、たくさん出てきて紛らわしいが仕方がないので、取捨されたい。
なお、清水あすかホームページがあるが殆ど更新されていない。
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その「萩原朔太郎記念・とをるもう賞」だが、2015年度からは催行されないことになったらしい。
もともと、この賞は、萩原朔太郎の出身地が八尾であることを記念して、八尾市教育委員長などを歴任した三井葉子さんの「政治力」で実現したものだが、
三井さんが亡くなると、とたんに廃止されることになった。現在の地方都市の「文化」度なんていうものは、この程度のものである。
「子供の詩」を募集するのを残すだけで、お茶を濁すこととなったらしい。
特に、ここに記しておく次第である。





  
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