K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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かたつむりつるめば肉の食い入るや・・・・永田耕衣
sizen266カタツムリ

     かたつむりつるめば肉の食い入るや・・・・・・・・・・永田耕衣

永田耕衣は明治33年兵庫県生まれの現代俳壇の長老の一人だった。
戦後、東洋的無の立場を裏づけにもつ「根源俳句」の主張で注目を浴びたが、仏教とくに禅への関心が深く、現代俳句における俳味と禅味の合体、
その探求者と言えば、先ずこの作者をあげる必要があるという。
この「かたつむり」の句は、そのような俳人の面目躍如とした作で、清澄な心境と混沌たる性的世界への凝視とが一体化したような力強さと、一面、面妖な迫力がある。
「つるめば肉の食い入るや」という観察は、対象がかたつむりであるだけに、何とも粘着力のある、一読忘れ難い印象を与える。
性を詠んで性を突き抜けているのだ。昭和27年刊『驢鳴集』所載。

永田耕衣は「阪神大震災」に遭遇し、これを題材にした秀句があるが、いま手元にないので引くことが出来ない。それまでの時期の句を引きたい。
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 夢の世に葱を作りて寂しさよ

 夏蜜柑いづこも遠く思はるる

 野遊びの児等の一人が飛翔せり

 厄介や紅梅の咲き満ちたるは

 梅雨に入りて細かに笑ふ鯰かな

 近海に鯛睦み居る涅槃像

 蛍火を愛して口を開く人

 泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む

 野を穴と思い跳ぶ春純老人

 白桃を今虚無が泣き滴れり

 夢みて老いて色塗れば野菊である

 淫乱や僧形となる魚のむれ

 生き身こそ蹤跡無かれ桃の花

 我が頭穴にあらずや落椿

 男老いて男を愛す葛の花

 薄氷や我を出で入る美少年

 いづこにも我居てや春むづかしき

 桃の花道在ることに飽きてけり

 空蝉に肉残り居る山河かな

 強秋や我に残んの一死在り

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ネット上から「もう一つの仏教学・禅学 」という記事を転載しておく。
永田耕衣のことが詳しく書いてある。写真②は「耕衣自伝」(1992年沖積舎刊)
024kouijiden耕衣自伝

根源俳句、永田耕衣
根源俳句 人間を探求した俳人
永 田 耕 衣 の 生 涯


参考文献
(A)『永田耕衣』    俳句文庫 春陽堂
(B)『生死』 「永田耕衣句集]  ふらんす堂
(C)『部長の大晩年』 城山三郎  朝日新聞社
(D)雑誌『俳句』平成10年2月(永田耕衣特集) 角川書店

「 」は、参考文献からの引用。例えば(C28)は上の参考文献Cの28頁を表す。

幸福とは言えない幼少時代
明治三十三年(1900) 1月21日、兵庫県加古郡尾上村(現在、加古川市尾上町)に生まれる。本名軍二。父岩崎林蔵は村役場収入役。
明治三十九年(1906)[6歳]父母と同居のまま母系永田家を継ぐ。 父母の仲は悪かった。母親が家を出て長く帰らぬこともあった。母が家出するころには、兄や姉も家を離れており、家には耕衣ひとり残された。
大正三年(1814)[14]兵庫県立工業学校入学。文学誌を発行。 俳句に関心を持つほか映画・演劇にも興味を持つ。
大正八年(1919)[19]勤務の三菱製紙高砂工場にて抄紙機で右指組織潰滅の負傷。

禅との出会い
このころ、禅哲学に興味を抱く。
「最初は禅そのものを求めてというより、縁を生かし、好奇心につられてのこと。この大怪我のため静養中、実家が檀家でもある祥福寺で、新住職を迎えての晋山式(しんざんしき)があり、そこで法戦が行われると聞いて出かけて行った。」(C37)
「禅に親しみ始めたのは二十歳位の頃でしたな。生まれ故郷のお寺で禅問答が公開されたのを見聞に言ったときからです。その師家に雲水が、「青島」(チンタオ)へ行ってこられたそうですが、何か珍しいことがありましたか」と問う。師僧がその雲水を説き伏せる意味で「雀はチュウチュウ、カラスはカアカア」と答えるが早いか、その雲水の肩をシッペイでパ-ンと打ったんです。そういうことが実に印象的でしたね。何となく禅というものは面白いと思いました。」(A20)
「このことがおもしろくて、耕衣は高僧の法話や座禅の催しがあると知ると出かけ、ときには、これはと思う禅寺を一人で訪問した。 秋の夕暮れ、訪ねて行った臨済宗の寺の老師は、闇の迫る中で、灯火もつけず、「禅というのは、厄介なものや」
禅修行で悟りを開いたはずなのに、一歩退いたところから、そんな風に眺める「ユトリ」といったものがあり、耕衣はさらに興味をかきたてられたりし、以後、生涯にわたって禅への関心は消えなかった。 もっとも、それはあくまで気ままに、高僧を訪ねたり、道元や西田幾多郎の著作を通じて学ぶということであって、荒行や修行の類とは無縁。その時間がないというより、それらが一つの型式、一つの型に人間をはめこみ、その中での自己陶酔になりかねぬ、と感じたからである。」(C37)

文芸活動
大正九年(1920)[20]右腕負傷のため兵役免除。結婚。毎日新聞兵庫県版付録俳句欄に初投句。 このころ大阪の俳誌『山茶花』に投句。
昭和三年(1928)[28]武者小路実篤の文学に心酔。「新しき村」入村を志すが、手の障害では農作業は無理だと断念、村外会員となる。 村の機関紙「新しき村」昭和3年6月号に短編小説『秋風』が掲載される。
昭和四年(1929)[29]このころ俳誌『山茶花』から『鹿火屋』(原石鼎主催)にのりかえる。 「鶏頭陣」(小野撫子主催)にも投句。古陶趣味の影響を撫子より受ける。このころ原石鼎敬慕。
昭和十年(1935)[35]主宰俳誌「蓑虫」を創刊。(十六号で休刊)

地元の俳誌加入を拒否される
「地元で新たな俳誌ができ、加入を申し込んだところ、耕衣が「ホトトギス」系でない「鹿火屋」誌などに関係していたという理由で拒絶された。」(中略) (原石鼎の句「淋しさにまた銅鑼(どら)打つや鹿火屋守」はーー) 「孤独の深さをうたう美しい句だが、写生中心のホトトギス系の世界からは遠いとされ、ついでに耕衣も敬遠された。

自ら、句誌「蓑虫」を創刊
俳句の世界にも、派閥や縄張り意識があるのかと、耕衣は興ざめしたが、そこでくさることなく、それならそれでと、工場内で関心のありそうな仲間に声をかけ、四十人を集めて、句誌「蓑虫」を創刊、その中の何人かを撫子の「鶏頭陣」誌にも紹介した。」(C55)
昭和十二年(1937)[37]文化趣味の会「白泥会」を結成。棟方志功・河井寛次郎らに接し、民芸の精神を養う。白泥会は、高砂の工楽(くらく)長三郎(造船、海運で財をなした)邸で行われた。

<棟方志功とのつきあい>
「長三郎は芸術や文化への関心が強く、若手の芸術家や学者を招いて、土地の同期の人々と共に話を聞く集いを持つようになった。会の名は「白泥会」。」(C22)
「耕衣は、この白泥会で志功の話を聞くだけでなく、会が無い日でも志功が工楽邸に泊まるときには、欠かさず訪ねて話こんだ。(中略) 二人には、禅や謡曲といった共通の話題もあったが、何より「もう一つの仏教学・禅学 」も創作への姿勢という面で共鳴し合った。「根源」とか「第一義」とかを問題にし、写生よりも、自己主張や観念を打ち出す。泥くさく見られたりすることなど、念頭にない。」(C22)
昭和十五年(1940)[40]「鶴」に投句、のち同人。思想弾圧下の時勢下で小野撫子より警告を受ける。

写生とは違う俳句へ
「俳壇で主流を占めてきたのは、高浜虚子が主催する「ホトトギス」派で、正岡子規の写生説を忠実に守り、花鳥諷詠を中心に置いた俳句づくりをというものであったが、一部の俳人たちはそれにあきたらず、昭和に入ってからの社会不安や軍国主義のひろがりの中で、人生や社会をも見つめ、また写生にとらわれぬ句をと、「ホトトギス」から脱退、「京大俳句」「旗艦」「馬酔木」(あしび)などの句誌を出し、俳句革新運動をはじめた。季語のない句をつくるなどもし、「新興俳句」の名で呼ばれた。
人間として爆発するように生きたいとする耕衣は、花鳥諷詠の「ホトトギス」派とはもともと波長が合わなかったが、といって「革新運動」などという組織的な活動に加わるのもにが手。
しかし、その新しい運動の中で、自分の句がどう評価されるかには興味があり、日野草城主催の「旗艦」に投句してみた。だが、思ったほどの反応がないため、一年ほどでやめ、今度は石田波郷主催の「鶴」に投句したところ、三ケ月で同人に推された。」(C63)

新興の俳人の思想弾圧
昭和15年2月「京大俳句」の平畑静塔ら8人が、治安維持法違反で検挙される。
 5月、東京の同人四人も逮捕。
 8月、西東三鬼が逮捕される。
昭和16年2月、秋元不死男が逮捕される。
 逮捕者15名中3名起訴され、残りの人は数カ月から一年拘置され、釈放されたが、「執筆禁止」を言い渡された。 こういう状況にあって、小野撫子が体制側にあって俳句を検閲していたらしく、小野から耕衣に警告の知らせが届いた。耕衣は上京し、小野にあい、しばらく句作を中断する旨、伝えた。だが、しばらくして小野に無断で、名前を変えて石田波郷の俳誌「鶴」に投句。

戦争中参禅
「早く禅の道へ踏みこんでいた彼は、俳句に注いでいた時間の一部を禅にふり向け、時間をつくっては、神戸祥福寺の臥牛軒老師を訪ね、年末の臘八接心(ろうはつせっしん)に参禅したりした。
動き出してしまうと止まらなくなるのが、耕衣の常である。祥福寺だけでなく、近くの明石や加古川の禅寺へも出かけた。また、禅に明るい哲学者西田幾多郎の著作を人にすすめられ、読みはじめると、これまた夢中になり、次々に読みふけった。 こうして禅への親しみが深まると、彼は自分一人がその法悦に浸っていては申し訳ない、という気がしてきた。
このため、会社でのクラブ活動の一つとして座禅会をつくり、加古川の寺の和尚を招いて提唱を聞くことにしたところ、工場長はじめ三十人ほどが参加するようになった。」(C77)

戦後、独自の道へ
昭和二十二年(1947)[47]石田波郷・西東三鬼が来て一泊。三鬼が耕衣の句を激賞。「現代俳句協会」会員に推される。
昭和二十三年(1948)[48]西東が中心の「天狼」同人となる。「根源探求論」を展開する。
「天狼」が「他の結社との重籍を認めず」という規約があったため、「鶴」「風」同人を辞退。

自由を縛る「天狼」に嫌気
「その句が純ホトトギス系でないという理由で、播磨の俳誌グループへの入会を断られことが戦前にはあったが、戦後、また似たようなことが始まったのか、と。

「マルマル人間」
結社があって俳人があるわけでなく、俳人たちが「マルマル人間」として自由に集まる組織が結社のはずであり、それ以上のものでも、それ以下のものでもないはずではないか -。 三鬼との間に、こうして思いがけぬ隙間風が吹くようになった。」(C100)
昭和二十四年(1949)[49]「琴座」(リラザ)創刊、主宰となる。 (「琴」のギリシャ語から、リラ座と呼ぶ。)
昭和二十七年(1952)[52]三菱製紙高砂工場製造部長となる。
昭和二十八年(1953)[53]「天狼」を脱会。「鶴」同人に復帰。

孤高の道
禅僧との交わり

「耕衣は志功を訪ねたが、当時、逆に耕衣との議論を好み、須磨の家まで訪ねてきた別世界の人が居る。
神戸祥福寺の師家、山田無文。
たまたま耕衣とは同年だが、その説法は評判が高く、後に臨済宗妙心寺派管長となる。花園大学学長もつとめ、国際的にも知られた高僧だが、生活は質朴。文化勲章も拒否する気骨の人であった。」(C25) 《(注)昭和28年から祥福寺の師家。》
「手の障害のせいもあって、耕衣は旅を苦手としたが、東京出張の機会を活かし、社用が終わると、朝比奈宗源などの禅僧や、俳人たちを訪ねたが、それは耕衣がそのときどきに興味や関心を持った相手ということであって、このため、「天狼」以外の俳人とばかり接触していると、うわさする声もあった。
このため、耕衣は「天狼」を去った。
戦前、大結社の「ホトトギス系」に拒まれたため、結果的に新興俳句の流れとして扱われた耕衣だが、その流れの延長上に在る「天狼」からも離れることで、耕衣はいわゆる結社らしい結社とは無縁の生き方をすることになった。」(C116)
昭和三十年(1955)[55]定年退職。赤尾兜子・橋門石らと研鑽のため「半箇の会」を結成。 毎日新聞神戸版俳句欄選者となる。

退職後、読書に時間をさく。詩人の西脇順三郎、歌人、斎藤茂吉に傾倒。 禅に造詣の深い詩人、高橋信吉にも。
昭和三十一年(1956)[56]神戸在住の金子兜子を知る。
昭和三十三年(1958)[58]「俳句評論」創刊とともに同人となる。
昭和三十七年(1962)[62]「現代俳句協会賞」審査員。
昭和三十八年(1963)[63]初の書作展を神戸新聞会館で開く。
昭和四十四年(1969)[69]東京三越本店で「書と絵による永田耕衣展」を開催。
敬慕の西脇順三郎と初対面のほか多くの出会いを得る。津高和一展(西宮)で須田剋太と初対面。

<棟方志功が祝辞>
「昭和四十四年には、東京の三越本店美術サロンで、「書と絵による永田耕衣展」を。このときには、そのカタログに西脇順三郎らの跋(ばつ)とともに、棟方志功がいかにも志功らしい次のような祝辞を寄せた。
<禅機ということを聞く。永田耕衣氏の書は同意から生まれていると機す。書くというよりも「機す」とその意を介した方がよくまた解した事でもよい。ヨロコンダリ。ワラッタリ。ベソカイタリ。アカンベイヲ、シタリ。ナキヤマナイヨウ、ダッタリ。ダダヲコネタリ。お終いにはスヤスヤねむって仕舞って、ひとり笑いしている様な書を生むのを得意としているこの人の書は、滅多に他に無いようだ。羨ましい。>」(C139)
昭和四十六年(1971)[71]「銀花」第7号で耕衣の書画が特集される。須永朝彦・高橋睦郎来訪。
昭和四十七年(1972)[72]ラジオ関西で「山頭火について」4回放送。
昭和四十九年(1974)[74]舞子ビラにて全句集「非佛」出版記念会が開かれる。神戸市文化賞受賞。
昭和五十年(1975)[75]「琴座」300号で俳句的信条<陸沈の掟>十一ケ条を提示。
昭和五十一年(1976)[76]吉岡実編「耕衣百句」に対する丸谷才一の評文が朝日新聞に掲載される。
昭和五十六年(1981)[81]神戸新聞社「平和賞」受賞。
昭和五十九年(1984)[84]兵庫県文化賞受賞。
昭和六十一年(1986)[86]妻ユキエ死去。
平成二年(1990)[90]第2回「現代俳句協会大賞」受賞。
平成三年(1991)[91]第6回「詩歌文学館賞」受賞。

遅すぎる受賞
「長い長い積み上げがあって、耕衣句はようやく世間の目に触れるようになった。
昭和六十年には、朝日文庫の「現代俳句の世界」シリーズで、『永田耕衣 秋元不死男 平畑静塔集』が刊行され、平成三年には薄く小型の選句集『生死』(ふらんす堂)、その翌年には『永田耕衣』が春陽堂俳句文庫の一冊として出た。」(C199)
「俳句関係には早くから大小さまざまな賞があったが、耕衣に対する全国版の賞は、はじめてのことであった。
句歴が長いだけでなく、耕衣はたしかにここ数年も力作、異色作を発表し続けてきた。(中略)
あまりにもおそい受賞ともいえた。
俳壇から孤立というか、異端視されてきた耕衣としては、手放しでよろこぶという具合には行かない。
そこで、次の一句。
「褒貶(ほうへん)をひねり上げたり鏡餅」」(C193)
平成七年 [95歳] 一月、阪神大震災によって自宅全壊。2階のトイレに閉じ込められたが救出され、天理教の講堂に避難。
2日後、市内の同人の家に避難
半月後、寝屋川の特別養護老人ホームへ移る。車椅子が必要になる。
同人が、自宅から書籍を発掘して姫路文学館に収める。
六月、大阪で「耕衣大晩年の会」を開催、150人集まる。
平成八年 [96歳] 五月、神戸で「大晩年耕衣書画展」
朝食に向かう途中、ころんで、左上腕骨を折り、書けなくなる。
平成九年 [97歳] 『琴座一・二月合併号』で廃刊。
八月25日、死亡。泉福寺に墓地がある。(ここには埋葬されていないという


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