K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
201707<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201709
閑さや岩にしみ入る蝉の声・・・・松尾芭蕉
蝉

   閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声・・・・・・・・・・・・松尾芭蕉

「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人」という有名な言葉で始まる『おくのほそ道』の旅は元禄2年5月27日に山形の立石寺に到達する。
この句は、そこで詠まれたものである。
もちろんこの日付は旧暦であるから今の暦では7月となるが敢えて今日の日付で載せることにする。
地元では「りっしゃくじ」と発音するとのことで、それに倣いたい。

今の所在地は山形市大字山寺という。
山寺駅の鄙びた駅舎を出ると、目の前にいきなり突兀たる山寺の山容が迫ってくる。別名・雨呼山、標高906メートル。長い石段をあえぎながら登る。
岩峰の一つ一つに堂塔が配され、壮観とも絶景とも言えよう。立谷川を渡るとまもなく根本中堂がある。
本尊は薬師如来で、貞観2年(860年)慈覚大師円仁の開山と伝えられる。
現在の根本中堂は天文12年(1543年)の再建とあるから、芭蕉が山寺を訪れた元禄2年(1689年)には、この建物は建っていたわけである。
『おくのほそ道』は、

<岩に巌を重て山とし、松柏年旧(としふり)、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。
岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。/閑さや岩にしみ入蝉の声>

と描きしるしている。

芭蕉の頃は、今のように「送り仮名」が統一されておらず、読みにくいが、おおよその意味は通じるだろう。
この「蝉の声」の句碑は、境内慈覚大師お手植えの公孫樹の木陰をくぐると、芭蕉の銅像と並んで立っている。
この山寺は恐山、早池峰山、蔵王山、月山、羽黒山などと共に東北における山岳信仰の代表的な山とされ、何よりも、この山の特徴は、
死後魂の帰る霊山と考えられていることである。
「開北霊窟」の扁額を掲げる山門をくぐると、奥の院までの石段は実に千数百段、中腹に芭蕉の短冊を埋めたという「蝉塚」がある。
もちろん書かれた句は「閑さや」であろう。
「奥の院」まで登る人は多くない。一般的には「山門」までで、私も、そうした。

ところで、芭蕉が訪れた時に、果たして「蝉」が鳴いていたか、という論議が古くから盛んである。
曾良『随行日記』には長梅雨の最中だったが、山寺の一日だけ晴れた、と書かれているが、晴れたからといって、その日だけ蝉が鳴いたというのも不自然である。

では、なぜ芭蕉は、此処で蝉の句を詠んだのか。

芭蕉は若き日、故郷の伊賀上野で藤堂主計良忠(俳号・蝉吟)に仕えた。
元禄2年は、旧主・蝉吟の23回忌追善の年にも当る

「岩にしみ入る」と詠まれた山寺の岩は、普通の岩塊ではなく、岩肌に戒名が彫られ、板塔婆が供えられ、桃の種子で作った舎利器が納められる。
つまり、あの世とこの世を隔てる入口なのである。
俗に「奥の高野」と言われ、死者の霊魂が帰る山に分け入り、死の世界に向き合った芭蕉が、
自分を俳諧の道に導いてくれた蝉吟を悼み、冥福を祈って「象徴的」に詠んだ句
──それが、この「閑さや」の句だ、という説がある

私は、この説に納得するものである。

100520basyou_douzou.jpg
↑芭蕉と曽良の銅像(曽良は芭蕉の弟子で「奥の細道」の旅の同行者で日記を残している)
画面奥の銅像が芭蕉の像。両者の間に、芭蕉の句碑が立っている ↓
100520basyou_kuhi.jpg
--------------------------------------------------------------
「山寺・立石寺」については、このサイトが写真で詳しい。
このサイトに芭蕉句碑の鮮明な写真があるので拝借したいと思ったが有料とのことで断念し、リンクをするにとどめた。ぜひアクセスしてみられよ。


コメント
コメント
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
copyright © 2017 Powered By FC2ブログ allrights reserved.