K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
201709<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201711
万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて・・・・橋本多佳子
a9897b4d21241d641c5553b145e0403f.jpg

    万緑やおどろきやすき仔鹿ゐて・・・・・・・・橋本多佳子

       ■雄鹿の前吾もあらあらしき息す

       ■女(め)の鹿は驚きやすし吾のみかは


今日5月29日は橋本多佳子の忌日である。
生まれは東京の本郷。杉田久女に会い、はじめて俳句を作った。のち山口誓子に師事し「天狼」同人だった。昭和38年大阪で没する。64歳だった。
彼女の句は命に触れたものを的確な構成によって詠いあげた、情熱的で抒情性のある豊麗の句境だった。

掲出した句は奈良の鹿に因むものを三つ並べてみた。
上に書いたように「命に触れた」みづみづしい、生命に関する「いじらしい一途さ」に満ちている。
私は彼女の句が好きで、今までに何句引いただろうか。
以下、ネット上の正津勉「恋唄 恋句」から当該記事を引いておく。  ↓
------------------------------------------------------------------
2橋本多佳子

20. 橋本多佳子

    雪はげし抱かれて息のつまりしこと

橋本多佳子。美女の誉れたかい高貴の未亡人。大輪の花。ゆくところ座はどこもが華やいだという。
 明治三十二年、東京本郷に生まれる。祖父は琴の山田流家元。父は役人。四十四年、菊坂女子美術学校日本画科に入学するも病弱のために中退。
大正三年、琴の「奥許」を受ける。
 六年、十八歳で橋本豊次郎と結婚。豊次郎は大阪船場の商家の次男で若くして渡米し、土木建築学を学んで帰国、財を成した実業家。
ロマンチストで、芸術にも深い造詣があった。結婚記念に大分農場(十万坪)を拓き経営。
九年、小倉市中原(現、北九州市小倉北区)に豊次郎設計の三階建て、和洋折衷の西洋館「櫓山荘」を新築。
山荘は小倉の文化サロンとなり、中央から著名な文化人が多く訪れる。
 十一年、高浜虚子を迎えて俳句会を開催。このとき接待役の多佳子が、暖炉の上の花瓶から落ちた椿の花を拾い、焔に投げ入れた。
それを目にした虚子はすかさず一句を作って示すのだ。「落椿投げて暖炉の火の上に」。この一事で俳句に興味を覚える。
これより同句会に参加していた小倉在住の杉田久女の指導を受けて、やがて「アララギ」他の雑詠に投稿する。
 昭和四年、小倉より大阪帝塚山に移住。終生の師山口誓子に出会い、作句に励む。
私生活では理解ある夫との間に四人の娘に恵まれる。まったく絵に描いたような幸せな暮らしぶり。しかし突然である。

    月光にいのち死にゆくひとと寝る

 十二年九月、病弱で寝込みがちだった豊次郎が急逝。享年五十。「運命は私を結婚に導きました」(「朝日新聞」昭和36・4)。
その愛する夫はもう呼んでも応えぬ。これもまた運命であろうか。多佳子三十八歳。葬後、ノイローゼによる心臓発作つづく。
「忌籠り」と題する一句にある。

    曼珠沙華咲くとつぶやきひとり堪ゆ

 日支事変から太平洋戦争へ。十九年、戦火を逃れ奈良の菅原に疎開。美貌の人が空地を拓き、モンペをはき、鍬を振るい畑仕事に精を出す。
 敗戦。二十一年、関西在住の西東三鬼、平畑静塔らと「奈良俳句会」を始める(二十七年まで)。奈良の日吉館に米二合ずつ持ち寄り夜を徹して句作する。
この荒稽古で多佳子は鍛えられる。「何しろ冬は三人が三方から炬燵に足を入れて句作をする。疲れればそのまま睡り、覚めて又作ると云ふ有様である。
夏は三鬼氏も静塔氏も半裸である。……奥様時代の私の世界は完全に吹き飛ばされてしまつた」(「日吉館時代」昭和31・9)
 はじけた多佳子は生々しい感情を句作ぶっつけた。

    息あらき雄鹿が立つは切なけれ

 秋、交尾期になると雄鹿は雌を求めもの悲しく啼く。「息あらき雄鹿」とは雌を得るために角を合わせて激しく戦う姿。多佳子はその猛々しさに目見開く。
「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」「寝姿の夫恋ふ鹿か後肢抱き」。雄鹿にことよせて内奥をあらわにする。それがいよいよ艶めいてくるのだ。
 ここに掲げる句をみよ。二十四年、寡婦になって十二年、五十歳のときの作。
降り止まぬ雪を額にして、疼く身体の奥から、夫の激しい腕の力を蘇らせた。亡夫へこの恋情。連作にある。

    雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ

 物狂おしいまでの夫恋。「夫の手のほか知らず死ぬ」。微塵たりも二心はない。そうにちがいない。

だがしかしである。
 ここに多佳子をモデルにした小説がある。松本清張の「花衣」がそれだ。主人公の悠紀女が多佳子。清張は小倉生まれだ。
「自分も幼時からK市に育った人間である。……彼女がその街にいたときの微かな記憶がある。
それはおぼろげだが、美しい記憶である」として書くのだが、いかにも推理作家らしい。
なんとあのドンファン不昂(三鬼)が彼女を口説きひどい肘鉄砲を喰らわされたとか。
それらしい面白おかしいお話があって、ちょっと驚くような記述がみえる。
「……悠紀女は癌を患って病院で死んだ。……その後になって、自分は悠紀女と親しかった人の話を聞いた。彼女には恋人がいたという。
/対手は京都のある大学の助教授だった。年は彼女より下だが、むろん、妻子がある。
……よく聞いてみると、その恋のはじまったあとあたりが、悠紀女の官能的な句が現れたころであった」
 でもってこの助教授が下世話なやからなのだ。それがだけど彼女は別れるに別れられなかったと。そんなこれがぜんぶガセネタ、デッチアゲだけでもなかろう。
とするとこの夫恋の句をどう読んだらいいものやら。ふしぎな味の句も残っている。

    夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

 しかしやはり多佳子はひたすら豊次郎ひとりを一筋恋いつづけた。ここはそのように思っておくことにする。
美しい人は厳しく身を持して美しく老いた。年譜に二十七、三十一、三十三年と「心臓発作」の記録がみえる。

    深裂けの石榴一粒だにこぼれず

 三十五年七月、胆嚢炎を病み入院。年末、退院するも、これが命取りとなる。じつにこの石榴は病巣であって、はたまた命の塊そのもの。

    雪の日の浴身一指一趾愛し

 三十八年二月、入院前日、この句と「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」の二句を短冊にしたためる。
指は手の指、趾は足の指。美しい四肢と美しい容貌を持つ人の最期の句。
 五月、永眠。享年六十四。

コメント
コメント
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
copyright © 2017 Powered By FC2ブログ allrights reserved.