K-SOHYA POEM BLOG
私のBLOGは詩歌句の「短詩形」文芸に特化して編集している。 今はもう無くなったが、朝日新聞の大岡信「折々のうた」などの体裁を参考にして少し長めの記事を書いている。自作も多めに採り上げている。
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谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな・・・・金子兜太
yun_2642鯉
 
   谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな・・・・・・・・・・・・金子兜太

昭和30年代、いわゆる前衛俳句が俳句界を席捲したが、作者はその旗手だった。
この句は、その後の時期の作品。
「無季」の定型句だが、夜、狭い谷あいで鯉がもみ合っている情景を詠んでいるが、性的なほのめかしも感じられる生命のざわめきがある。
無季句ではあっても、この句が喚起する生命力の盛んなほとばしりは、季節なら夏に通じるものに違いない。
「鯉」というのが季語にないので<非>季節の作品として分類したが、鯉が盛んに群れて、もみ合うというのは繁殖行動以外にはないのではないか。
ネット上で見てみると、鯉の繁殖期は地域によって異なるが4~6月に水深の浅い川岸に群れて産卵、放精するという。
それこそ、兜太の言う「歓喜」でなくて何であろうか。
昭和48年刊『暗緑地誌』に載るもの。

無季俳句の関連で一句挙げると

 しんしんと肺蒼きまで海の旅・・・・・・・・・・・・・篠原鳳作

という句は、戦前の新興俳句時代の秀作で、南国の青海原を彷彿と思い出させるもので秀逸である。

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ここらで兜太の句を少し。下記のものはアンソロジーに載る彼の自選である。

 木曾のなあ木曾の炭馬並び糞(ま)る

 魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ──トラック島にて3句

 海に青雲生き死に言わず生きんとのみ

 水脈の果炎天の墓標を置きて去る

作者は戦争中はトラック島に海軍主計将校として駐在していて敗戦に遭う。

 青年鹿を愛せり嵐の斜面にて

 銀行員等(ら)朝より蛍光す烏賊のごとく

作者は東京大学出。日本銀行行員であった。いわゆる「出世」はしなかった。

 どれも口美し晩夏のジャズ一団

 鶴の本読むヒマラヤ杉にシャツを干し

 男鹿の荒波黒きは耕す男の眼

 林間を人ごうごうと過ぎゆけり

 犬一猫二われら三人被爆せず

 馬遠し藻で陰(ほと)洗う幼な妻

 富士たらたら流れるよ月白にめりこむよ

 梅咲いて庭中に青鮫が来ている

 遊牧のごとし十二輌編成列車

 麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人

 酒止めようかどの本能と遊ぼうか
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ネット上に載る「埼玉の文学─現代篇─」の記事を転載しておく。

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写真②は「ぎらぎらの朝日子照らす自然かな」の句碑。

文中に記事あり。

金子兜太 (1919~)

前衛の円熟 

 金子兜太は昭和30年代に前衛俳句運動の旗手として、戦後俳壇に大きな旋風を巻き起こした。現在は俳壇の重鎮として、もっとも活躍している俳人のひとりである。現代俳句協会会長、俳誌「海程」主宰、「朝日俳壇」 選者として、あるいはカルチャーセンターの講師、テレビの俳句講座、毎月の俳誌での活躍などで、その名はひろく知られている。

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

 昭和30年の第1句集『少年』より、郷里を詠んだ作品である。
 金子兜太は大正8年に小川町竹沢の母の実家で生まれた。当時父元春は上海にいたので、兜太は小学校入学までの大部分を竹沢で過ごしたが、2歳からの2年間は父のいる上海で過ごした。元春は15年に帰国して郷里秩 父の皆野町で開業。兜太は皆野の実家から皆野小学校へ通う。父元春は、伊昔紅と号する秋桜子門下の俳人でもあった。昭和6年に秋桜子が高浜虚 子の「ホトトギス」を離脱したとき、獨協中時代の友人としていちはやく 歩みをともにした。秋桜子の「馬酔木」の秩父支部を自認して毎月句会を開き、20年には自らも 「雁坂」を主宰した。また、卑俗な内容だった秩父豊年踊りの歌詞や踊りを、「秩父音頭」として現在の形にしたことでも 知られている。いくつかの句碑のほか、美の山公園にはその業績を顕彰して銅像が建てられている。兜太は、医師であり俳人であった父から生き方や俳句面で大きな影響を受けており、多くの回想を書いている。
 秩父の長瀞町の総持寺に、金子兜太の句碑がある。最寄りの駅は秩父鉄道の野上駅である。総持寺は秩父七福神のひとつ、福禄寿を祠っている寺。句碑は本堂の右後ろ手にある。どうだんツツジが植えられた斜面の下に 位置していて、碑の近くにある大きな泰山木と椿の木が印象的だ。秩父の自然石に兜太自筆の、

 ぎらぎらの朝日子照らす自然かな

という句が刻まれている。平成元年7月に建てられたもので、碑陰には、 「海程秩父俳句道場十周年を記念し併せて金子兜太師の紫綬褒章受賞を祝い師の菩提寺である当寺境内にこの句碑を建てる」とある。総持寺は兜太の妻皆子の実家の菩提寺でもある。
 熊谷中学を卒業したあと、兜太は昭和12年に水戸高校文科に入学する。 俳句は18歳のとき、出沢珊太郎に誘われて校内句会に出たのが機縁で初めて作った。「白梅や老子無心の旅に住む」という句である。翌13年には全国学生俳誌「成層圏」に加わり、竹下しづの女、加藤楸邨、中村草田男の作品に親しんで「俳句の可能性」を感じたという。16年に東京帝大経済学 部に入学。このころから加藤楸邨主宰「寒雷」に投句を始めた。草田男の 「内面的な新しさ」と、楸邨の「人柄」に惹かれたが、結局楸邨に師事することとなった。
 昭和18年9月に、大学を半年繰り上げで卒業し日本銀行に入行したが3日で退職、海軍経理学校で訓練を受けて、翌年3月に主計中尉として南方のトラック島に赴任した。敗色濃厚の時期の戦争体験と米軍捕虜としての 体験は、のちの金子兜太の人間観や俳句観に大きな影響を与えることになる。21年11月、最後の復員船で帰国した。そのときのことを詠んだ句に「水脈の果炎天の墓碑を置きて去る」「北へ帰る船窓雲伏し雲行くなど」がある。 
 22年2月に日銀に復職、4月には塩谷みな子(金子皆子、「海程」同人 )と結婚した。この年、沢木欣一の「風」にも参加。24年には日銀の従業 員組合の初代事務局長(専従)をつとめた。このことについて兜太は「私 はトラック島から引き揚げる駆逐艦の上で、これからは反戦平和に生きる と腹を固めていました。組合活動も、それを実行に移したにすぎません」 (『二度生きる』)と述べている。その後、組合は切り崩しにあって、活動は封じ込められることになる。金子兜太は、福島支店を皮切りに、神戸 、長崎と10年に及ぶ支店勤務生活を送った。この時期に兜太は俳句専念を決意し、次々と話題作を発表する。

 きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中
 路上に拾う蛍論理を身に刻み
 夜の果汁喉で吸う日本列島若し
 少年一人秋浜に空気銃打込む
 ガスタンクが夜の目標メーデー来る
 原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ
 青年鹿を愛せり嵐の斜面にて
 朝はじまる海へ突込む鴎の死
 銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとく
 湾曲し火傷し爆心地のマラソン
 華麗な墓原女陰あらわに村眠り
 殉教の島薄明に錆びゆく斧

 この時期、佐藤鬼房、鈴木六林男らと出会い、神戸では西東三鬼、永田耕衣らと親交を深める。また持論にもとづく俳論を意欲的に発表して俳壇に議論を呼んだ。それらの一部を題だけ引いてみると、「俳句における 社会性」(昭28)、「二つの急務」(昭29)、「俳句における思想性と社会性」「社会性と季の問題」(昭30)、「新しい俳句について」「破調は時代精神の要求か」(昭31)、「俳句の造形について」(昭32)、「三たび造形について」「前衛をさぐる」(昭35)、「造形俳句六章」「前衛の渦の中」(昭36)など。
 短歌の前衛運動に少し遅れて俳句の前衛運動は起こったかたちだが、引 いた題からもうかがえるように、金子兜太の考える前衛とは、俳句におけ る「社会性」と「造形」ということであった。その論旨は一言でいうと、 社会的存在としての自己を明確に認識し、態度や思想を肉体化、日常化した作品を詠むことと言える。そのために、定型(リズム)は守るが、季語にはこだわらないという考えであった。その実践として第1句集『少年』 を昭和30年に刊行し、翌年第7回現代俳句協会賞を受賞した。金子兜太を 中心にしたこの俳句における社会性論議は、戦後の俳句のひとつの流れを つくったと言える。
 金子兜太が支店勤務から東京に戻ったのは35年、折りしも安保闘争の最中であった。現代俳句協会は36年に前衛的な考えに依拠する現代俳句協会 と有季定型派の俳人協会に分裂する。翌37年に、金子兜太は「海程」を創刊して同人代表(昭和60年から結社誌になり主宰)となり、「古き良きものに現代を生かす」をスローガンとして掲げて活動の拠点とした。昭和47年には熊谷市に居を構え、49年に日銀を定年退職、円熟した活動を今日まで続けている。
 金子兜太の句碑は、熊谷の上中条にある天台宗別格本山常光院の境内にもある。静寂につつまれて落ち着いた雰囲気の寺である。山門を進んで行くと正面が本堂だが、その右手の庭に、

 たつぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし

の句が、やはり自筆の力強い字で刻まれている。平成4年に建立された。 碑の高さは1.2 メートルほどで、宇咲冬男の碑陰によると、名工として労働大臣賞を受けた野口大作の手彫りである。同寺はひぐらしの名所で、金子兜太の散歩コースだったとのこと。俳句の盛んな県北の地らしく、境内には宇咲冬男の句碑のほか、投句箱や熊谷俳句連盟20周年を記念した大き な句碑もある。 
 金子兜太には、埼玉の地にちなんだタイトルをつけた句集として『暗緑地誌』(熊谷)、『皆之』(皆野)、『両神』の3冊がある。また、エッセイ集『熊猫荘点景』や俳論『熊猫荘俳話』の「熊猫荘」は熊谷の自宅の 呼称である。その他、たくさんのエッセイ集があるが、どれにも折に触れて秩父や皆野、熊谷について語った文章が収められている。庶民としての 一茶や、魂の漂泊者山頭火へのつよい共感とともに、郷里秩父は、金子兜 太に自身の原点を確かめる「分厚い領域」(「第二のふるさと」)として 存在している。金子兜太の前衛俳句が、一方では土着的で人間臭いのはこのためである。著書は句集、俳論、一茶論や山頭火論、エッセイなど多数 。

 人体冷えて東北白い花盛り
 暗黒や関東平野に火事一つ
 梅咲いて庭中に青鮫がきている
 夏の山国母いてわれを与太と言う



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